あくる日も 森の中
さて、私がなぜかこの世界へとやってきてからはや5日である。光陰矢の如しとはよく言ったもので、あっという間に日が過ぎた。元の世界に、我が家に帰りたいとどれだけ思っても現状はなんら変わりがないので、諦めてこの世界に適応しようとした結果である。
この5日の間、私は初日に見つけた川近辺を拠点に何か、特に人里なんかないかと散策を続けている。そして分かったことが幾つか。
まず、この森には人の身の丈ほどもある大きな鹿のようなものがいて、それがこの近辺を牛耳っていることである。黒褐色の体毛に、黒に鈍く輝く巨大な角を持つこのシカモドキは、私とヨルの存在にも寛容で、近付き過ぎない限りは威嚇もしてこない。ひとまず獣に襲われる心配はなさそうだ。
次に、ここは割と昼と夜で寒暖の差が激しい。昼間は暖かく、軽く汗をかくこともあるのに、夜は冷える。なので、ヨルと2人、身を寄せ合って眠る日が続いている。
そう、そしてこのヨルについて知り得たことが私にとって一番重要なのである。現時点で、唯一の自分と意思の疎通が交わせる人間。相変わらず喋りはしないが、その存在には随分と慰められた。
初日は名前をつけた後、私も疲れていたからか、ヨルを抱えたままあっという間に寝てしまった。翌日はヨルが熱を出しぐったりしていたため上着を貸してやり、何か食べさせてやれるものはないかと森をウロウロ、川をザバザバした。3日目には体調が多少良くなったらしいヨルを連れて森を散策。4日目には割と元気そうだったので、川で水浴びをさせた。ついでに今まで着ていたボロボロの服も洗ったので、しばらく私の上着一枚で過ごすはめになった彼は骨が浮いた貧相な身体つきもあいまって、少し可哀想だった。あ、性別も判明。男の子でした。
相変わらず軽く、栄養は足りてなさそうだが、異常と言えるほどの早さで彼は体調を回復している。ものすごいタフガイなのか、はたまた異世界人はみんなこんなものなのか。だとすると相対的に私がものすごい虚弱体質となってしまうのでは…?深く考えるのは止そう。
彼は喋らないし、こちらが話しかけてもあの特徴的な瞳でじっと見つめるだけだ。無視をしないで話を聞いているような姿勢をとってくれているのが救いである。
そして無表情。初日に訝しげな顔をしたのが今までで一番表情のある顔だったのだから、驚きである。
ただ、時折微かに顔をしかめたり、綻ばせたりはしているようだ。些細な変化ではあるのだが。
そして、それが最も顕著なのが、私と接する時なのだ。話しかける度、触れる度、初めは顔を微かに強張らせて緊張したような様子を見せていたのが、次第にそれがなくなり、分かりづらいが表情を緩めるようになる。その変化が、少し嬉しい。
「ヨル、一緒に行こうか」
川辺に生息する蛍光色のカニモドキで空腹を満たしてから、また今日も散策に出かける。骨ばった彼の手をそっと取り、ゆっくりとした速度で歩き出す。私1人で行く方が早く歩けるし、広い範囲を見て回れるのだが、なんとなく彼を1人にするのが不安で、連れ歩くのが常となっている。
「むかーしむかし、あるところに…」
彼と一緒にいる間は、なるべく話しかけるようにしている。といっても会話のネタもそうそう転がっていないし、喋るのは私だけで会話の弾みようもない。結果、情操教育に良さそうな昔話を語って聞かせたり、歌を歌ったりしている。
暖かな陽光を浴びながら、ヨルと2人で森を歩く。異世界に来てしまったという異常な状況でも、今流れる時間は穏やかで、襲い来る眠気と格闘しながら歩いていると、ヨルが不意に後ろを振り返った。
「ヨル、どうかした?なにか面白いものでも…」
ヨルの様子を不思議に思い、話しかけた直後、私の耳にも微かな蹄の音のようなものが届く。そしてそれは次第に近づいているようだった。混乱。その時の私の状態はまさにこれだ。逃げるべきなのか、ここに留まり相手を確認するべきなのか、もしかしたらこの状況から脱却できるかも、でも、もし、もし、…
パニックに陥った私の足は動かない。そうこうしいる間に相手はどんどんと近づいてくる。そして、私の目が捉えたのは、馬と、その馬に乗った銀色の鎧を身に付けた人間であった。
サブタイトル、 あくる日どころじゃない。