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館の内部に踏み込む。真紀の気分はさながら、未知への遭遇に対する期待と不安を併せ持つ探検者だった。しかし、館と外界とを遮断するように扉が閉じられると、そんな自画像も敢え無く崩れ去ってしまうのだった。一度は振り払った"牢獄"という言葉が瞬く間に頭の底から浮かび上がって来る。そうだ、探検者などという格好の良いものではない。真紀の気分は探検者から、さながら見知らぬ野に放たれた山羊のそれにまで落ち込んでしまっていた。
館の中は不気味だと、真紀は率直に思った。扉を閉じた途端、まるで今までいた世界とは違う世界に来てしまったかのように、五感全てが正体不明の違和感を訴える。真紀は、それが喩えに留まるものではないと理解していた。この館に足を踏み入れた瞬間、完全に世界が切り替わってしまったのだと。真紀は、それが骨の髄まで染み込んだ事実であるかのように、本能から確信めいたものを感じていた。
「とても静か」と、真紀の不安を知ってか知らずか、亜紀が静寂に混ぜ込むかのように呟いた。真紀はその呟きを聞いた途端に、五感が訴えていた違和感の正体のピースが一つ埋まる。静か過ぎるのだ。外は風も吹いていたし、その風に煽られて木々も大いに唸っていた。鴉の鳴き声も視界に具現しそうな程に煩わしく鳴り、少なくとも館に入った程度で聴こえなくなるようなそれではなかったのだ。故に、この無音状態はおかしい。真紀は無音の原因を求めるように、右手で自身の右耳をそっと撫でた。
「っし、行くか! 目標は予め決めていた通り、館内を隈なく踏破することだな!」
真紀の不安を一蹴するかのように、剛也の声が館の無音状態を照らし出した。真紀はそのとき、館の内部が妙に明るいことに気が付いていた。今は日中であるから、明るいこと自体はさして問題ではないのかもしれない。しかし、館には窓が存在していなかった。光が外から射し込んで来るはずがないのだ。
いや、更に幾つかおかしなことがある。真紀は、自分達が通ってきた館と外界とをつなぐ扉の方を見遣り、扉越しに、門前にいた過去の自分を睨みつけた。外からこの館を見たとき、窓は確かに存在していた。そうだ、無いはずがない。真紀は改めて窓の有無を確認するが、窓はやはりどこにもなかった。
それだけならまだ良かった。いや、全く良くはないのだが、敢えて了承したものとする。敢えて了承したものとして、それでも、それ以上に気がかりなことが一つ、真紀の恐怖心を大きく揺さぶっていた。
「うん、そうだね。幸い、この館は途方もないというほど大きくはないし、部屋一つ一つ、手当たり次第に洗ってみようか」
剛也の言葉に反応したのは一弥だった。外にいたときから変わらず、穏やかな笑顔を浮かべている。
「剛也も一弥も頼もしいわねぇ……ふふ、何だかワクワクしてきちゃった!」
美紀は茶化すように言う。美紀も、外にいたときから何も変わっていない。
「はは……亜紀はともかくとして、美紀も意外とこういうの好きなんだね」
「ま、何だかんだね。剛也が先導してくれるみたいだし、何かあってもヤバいのは剛也が全部引き受けてくれるでしょ?」
「あはは……違いないね」
美紀と一弥のやりとりが、真紀には恐怖の対象だった。あまりにも変化が無さすぎるのだ。
剛也が「って、おい! なんで俺を盾にしようとしてんだよ!」と、振り返って言うと、咄嗟に真紀は剛也から目を逸らしてしまう。剛也だけではない。真紀は、他の誰の顔も見たくないと思ってしまっていた。今、皆の顔を見てしまうと、そこには知らない顔があるのではないかと思えてならないのだ。
誰も、この館の異常に気が付いていないのだろうか。いや、確かに先ほど、亜紀だけは「とても静か」と、この館の異常について言及をしていた。
真紀は、縋るような思いで亜紀の表情を窺い見る。亜紀は、仮面を張り付けているかのように、無表情だった。いつも通りの、無表情だった。
亜紀が無表情であるのはいつものことであるが、今日に限って真紀の瞳にはそれがとても無機質なものとして映っていた。
「……ねぇ、亜紀」と、真紀は堪らず亜紀に声をかける。
「ん……どーしたの?」
亜紀は落ち着いた声色で応えた。その様子に、真紀は思わず目を逸らしそうになって、ぐっと堪える。違う。亜紀は他とは違う。亜紀だけは、何があってもこうなのだ。亜紀だけは、異変に気が付いていても普段通りなのだと、真紀は自分に言い聞かせながら言葉を紡ぐ。
「この館、変じゃない?」
「何を変って定義するか次第」
亜紀らしい回答だった。真紀は、垣間見えた亜紀らしさに安堵を覚えながらも、端的に言葉を選んで続ける。
「だって、この館、静か過ぎる」
亜紀は、真紀の言葉に首を傾げて言った。「確かに、鴉の鳴き声とか、外からの音しか聞こえない」
真紀は「えっ」と、亜紀の言葉に思わず声を漏らした。誰も館の違和感に気が付いていないという現実が真紀の胸中を埋め尽くし、先ほど感じていた安堵を押し出したのだ。
いや、違う。真紀は、それから一つの結論を導き出していた。誰も気が付いていないのではない。
自分だけが、どこか変になってしまっているのだ。
自分以外の全てが狂っていると感じるのであれば、それは自分自身が狂っていることと寸分も違わない。真紀は一人、この館という空間のなかで自分だけが別の時空で生きているのかとさえ感じてしまうのだった。