物語を読んで思うこと 補足
番号をつけるほど長くはないので補足で
なろう内でいい意味でも悪い意味で良く使われるのが
「殺人への禁忌」です
主人公が現実への決別という意味で使う、甘さとして使う等
わかりやすいキーワードなので、よく使われます。
で、案外知られてないのが殺人への禁忌の軽減がある事です。
1つ目として、相手を殺す時に間接的攻撃ほど禁忌は少なくなります。
打撃よりも剣 剣よりも槍 槍よりも弓や拳銃 です
これは実際に殺した時の反動が伝わる方が禁忌感情を刺激するからです。
自分が地雷を設置したとして、それで人が死んだと報告されてもさほど衝撃を受ける人が少ないのはそれです。
では拳銃なので殺しても衝撃うけるのでは? と思われるでしょうが
これは相手の「目」がこちらをみているかいないかで違います。
あまり知られていませんが、目が合わない限り、自分の生命の危険であれば簡単に引き金が引けます
生存本能というのはそれほど強いものですし、目が合わない限り殺した罪悪感はあってもPTSDになる可能性はかなり低いのです
で、思うのは、自分が殺されそうになったならば、よほどの理由がない限り人は人を容易く殺すという事です。
目があっても交戦できるならば、経験があるか、生存本能で後押しされて衝動で動いている場合が殆どです。
で、どちらにせよ、生かす理由がないならば、殺して後顧の憂いを断つのが生きる為には当たり前です。
生かす理由が罪悪感 というのは自分の命が安全な所になってからしかでないのです。
まず「自分が生き残る」それが出来て「余裕が出来て」罪悪感が生まれるのです。
ベトナム戦争後PTSDになった人も多いといわれますが、殺されるストレスが続いた事によるPTSDのほうが圧倒的に多いです。
罪悪感のPTSDは戦争が終わった事の余裕がおきてからであり、もう一つはPTSDが「起きるほどにストレスが与えられた」からです。
ベトナム戦争参加兵は本国に戻ってからかなり人権団体のストレスを受けております。
これらの関連を否定することは、間違いなく「人権ファシズム」といえる人のみです。
つまり、主人公の殺人への禁忌というのは展開としてはわかりますが、躊躇いすぎるのもおかしいという事です。
そのあたりはもうそろそろ考える時期なんじゃないかなあと思います。