四十二話:放浪者の街で
夢を見ていた。
遥か昔の、幸福を信じていた頃の懐かしくも悲しい夢だった。
日本のとあるカトリック教会で、ウェディングドレスを着た彼女と、タキシードを来た己が笑顔で手を取り合って、バージンロードを歩いている。
祝福する人間もいない、小さな結婚式の頃を思い出した。
あの時は、すごく幸せだったと思う。
「………………」
自己満足以外の何物でもない夢から覚めると、見慣れた襤褸屋の天井が見える。自分の体は包帯塗れで、大昔の王様、ファラオになった気分だ。
体が動かない。
それは当然だった、かなり無茶をした記憶がある。
目玉と首はなんとか動くので、それで周囲を見渡す事にした。
隣のベッドには、サイハテ程ではないが、包帯塗れの陽子が横になっているし、外ではハルカが歩哨の為に立っている。
そして、自身のベッド端に、レアが突っ伏して寝ていた。
「……レア?」
声をかけてみるが、帰ってくるのは規則正しい寝息位だ。
血の付いた手をそのままに、のんびりと寝ている彼女を見て、どうやら大分迷惑をかけたようだと悟る、その証拠に、レアには色濃い隈が浮かんでいる。
彼女から目を外し、天井を見た。
いつも通りの、汚い天井だ。
掃除しても、修理しても、汚さと襤褸さは取れなかったが、あの三人と暮らしたこの家は嫌いじゃない。
どこかホッとした気持ちで天井を眺めていると、動く気配があった。
それは隣のベッドからで、同じく怪我人の陽子が動いたのだろう。向こうは動ける怪我のようで、何よりだった。彼女にも無茶をさせたし、それなりに心配しているのだ。
陽子は食卓まで歩み寄ると、膝を抱えて椅子に座った。
どうも様子がおかしい。
「……陽子。どうした。眠れないのか?」
今はすっかり夜である、周囲は静まり返っていて、悪党どもが動き回る音しか聞こえない。
彼女がこちらを見た気がした、それでも返事はなく。こちらを見ているだけのようだ。どうやら、もうちょっと無茶するしかない。
ズタボロで悲鳴を上げる体を無理矢理起こして、陽子の元へと歩み寄り、彼女の隣へ腰かける。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
包帯塗れの顔を向けて、陽子の眼を見つめてみる、とてもじゃないが、何もなかったと言う目ではない。
まるで、恋人でも裏切ってしまったかのような、女の眼をしていた。
彼女は何も言わず、サイハテの眼を見つめ返し続けるが、根競べならサイハテの方が上だ。陽子は諦めたかのように目を反らして、ぽつりと語り始める。
「わからないの……」
陽子はそう言った。
「何がだ」
主語がないので、理解できなかった、聞き返す。
「戦いを楽しんでいた私と、仲間を殺した彼」
サイハテは困ってしまった。
それだけでは、どんな情景でそうなって誰が仲間を殺したのか、さっぱり分からないからだ。それでも、根掘り葉掘り聞く事は避けなくてはならない、彼女が聞いて欲しそうな雰囲気ではない。
「戦いを楽しんでいた。ね」
砕けた方の手で顎を掻いてしまい、サイハテは痛みで体を硬直させた。
「戦闘中に高揚感でも感じて、危険意識でも麻痺したか?」
そう、推測してみた。
どうやら正解だったようで、陽子は顔を伏せてしまっている。
「そいつはな、戦闘中毒と言う精神疾患だ。兵士には珍しくない病気だぞ」
顔を伏せた少女が、僅かに顔を上げてサイハテを見た。
「人間っつーのは、恐怖と言うストレスに、長い間堪えられる程、強い生物ではない。ストレスに長い間晒された人間の脳は、過剰に脳内麻薬を分泌する。その分泌され過ぎた麻薬が、君にそう言った行動をとらせたわけだ」
故に、兵士は恐怖をコントロールするように教育されるし、そのストレスから解き放つ為に休暇を与えられる。
「陽子。やはり君はこの世界で生きるには優しすぎるよ。敵を不殺、己も不死。戦いで最も難しいのは、敵も殺さないで自分も死なない。なんて戦い方だ、君がそうなるのも、致し方ない側面がある」
神に愛された物語の主人公ならば、不殺も頷けよう。しかし、陽子はそうではない、ただの射撃がうまい中学生だ。
戦場の似合わない婦女子であり、本来ならば平和な世界で、友人達と青春を送っているのが似合いの少女なのだから、こんな世界に放り込まれる事自体が異常な事態である。
「……だって、しょうがないじゃない。私、人殺しなんて、出来ない」
ようやく口を開いた陽子は、そう言った。
そして、彼女が悩んでいた事に合点がいく。
「……ふむ、だから悩んでいるのか」
再び、陽子の眼がサイハテに向いた。
本当にわかったのか、そう言いたげな視線だ。
「当ててやろうか? 君は撃っても行動不能になるだけで、決して死ねない場所を撃った。その撃たれた奴らがまだ動ける元気な奴に殺されたんだろう。恐らく、撤退時の武装と弾薬回収の為に。そして君は今こう悩んでいる、『もしかしたら、私は間接的に彼らを殺してしまったんじゃないだろうか』なんてな」
陽子は未だこの世界を理解していない。
人間より、弾薬一発が貴重な世界だと、分かっていないのだった。彼女はサイハテから視線を外して、再び膝に顔を埋めてしまう。
「ならば、俺が断言して、保証しよう。彼らを殺したのは君じゃない」
埋めた陽子が、再び顔を上げた、随分忙しそうだ。
「……なんでよ、私が動けなくしなければ、殺される事もなかったんじゃないの」
陽子の疑問は最もだった、なので、納得させられるようにたとえ話をしてあげよう。
「例えばだ、君が路地裏で強姦魔に襲われそうになったとする。君は抵抗して、その場に落ちていた棒で彼を強打し、気絶させた。当然、君は逃げるだろう、逃げて俺か警備兵を呼びに行くに違いない。だが、その強姦魔は近くを通りかかった通り魔に殺されてしまう。さて、これは君が悪いのか? そして、今の状況と何が違う?」
つまりはだ、襲ってきた奴らを動けなくして逃げて、その後で誰かに殺されて、君に責任があるのかどうかと聞いているのだ。
陽子の返事はない、光の戻った目で、きょとんとしながら、サイハテを見ている。
「君は悪くない。何が悪かったかと言えば、死んだ人間は運が悪かった」
サイハテは、死に関してドライである。
命は尊い物ではあっても、貴重な物ではないと言う人生観を持っているからだ。結局消耗品なのだから、使いどころを間違えた人間が死ぬだけだと、考えている。
「……うん」
そうして、目覚めた陽子が少しだけはにかんだ。
やはり、彼女には笑顔が似合う。
「気にするな、とは言わない。だが、気に病むな。君は笑顔が似合う、そして、俺は腹が減った。怪我しているところ悪いが、軽い物を出してくれないか?」
サイハテは動く事も億劫で、陽子は動く事の出来る負傷だ。
陽子は少しだけ暗い笑顔で頷くと、先程とは打って変わった口調で言った。
「わかった、おかゆでいいでしょ。ちょっと待っててね」
いつしか、誰かも分からない男達の死は、陽子の中で薄くなっていくだろう。それに関しては時間が解決してくれる、時間で解決できないのは、戦闘中毒の方だ。
何かと、考えなくてはならないなと、サイハテは厨房に陽子が消えたのを確認して、顎を掻く。
再び砕けた方の手で掻いてしまったので、痛みに体を震わせた。
次、三章完結。