十五話:襲撃準備
鈴虫の鳴き声が星空に響く。
蒲の穂を揺らす程度の穏やかな夜風が、キャンプからの小さな団欒を運んでくる中、風音は何が気になるのか、排水口の床で作業をしているサイハテを、見ては視線を外し、再び見る繰り返していた。
ホチキスで縫い留められた傷口は、まだ塞がっては居らず、当て布を僅かに赤く染めている。
「あいつらろくに整備もしないのか……全く」
そんな痛々しい外見をしながらも、サイハテは小さな愚痴を漏らしつつ、ライフルの分解整備と対応する銃弾磨きに精を出していた。
どこぞで拾ってきたのか、自転車用の機械油を部品に指しては、汚い布で丹念に磨いて煤や砂埃を落としていく。
傷の具合は聞くまでも無く悪い、銃の調子も良くないようで、先程から小さな舌打ちが時々、風音の耳にも届いていた。
月明りを頼りに、どこぞのガンスミスが作ったであろうライフルの整備は、元々無理があるのだろう。彼は諦めたかのようにため息を吐くと、バラバラになっていたそれを組み上げて、弾を装填する。
「とまぁ、俺の装備は概ね劣悪だ。アイアンサイトでの三百メートル狙撃になる上、こんなポンコツではな……」
ボルトを稼働させ、先程よりは突っかかる事が少なくなった事を確認したサイハテは、冗談めかして肩を竦めると、ライフルを隣に置いた。
その動きだけで、当て布は更に赤く染まってしまう。
確かに、病院で倒れ込んだ時よりはずっと回復しているように思えるが、彼に必要なのは安静なのだと、風音は引けない状況になってから、ようやく思い出す。
「ハヤッ……」
ハヤテと名前で呼ぼうとした所で、思いとどまる。
名前以外何も知らない男なのだけれども、彼は、間違いなく己の父なのだから、それに応じた呼び方をしなければならないだろうと、考えたのだ。
「……と、父さん」
意識して呼んだのは初めてではないだろうか。
胸の奥から湧き上がってくる、なんとも言い難い感情と、首のあたりから頬に湧き上がってくる熱い血潮に翻弄されながらも、風音は用件を伝える事にする。
「そろそろ、包帯を交換した方がいいんじゃないか? その、大分汚れているように、見えなくもない」
彼は、驚いているようだった。
いつも不機嫌そうに細められた目は、大きく見開いて何度も瞬きをしている。
ほんの数秒程見つめ合っていると、思考を取り戻したのか、サイハテは再び不機嫌そうに目を細め、眉間に皺を寄せると小さく頷いて、一言だけ、返事をした。
「そうしよう」
その反応を見て、風音は首を傾げるばかりであったが、なんてことはない。
彼の態度はただ単純に、理解の追いつかない事態になったので、とりあえず表情を消して、いつも通りに返事をしようとしただけである。
要するに保留したのだ。
当て布を外すと、少しばかり膿み始めた傷口が顔を出す。
傷を塞いだばかりだと言うのに、激しい運動を行い、不潔な下水道を歩いてきたのだから、ある意味、当たり前と言ってもいいだろう。
サイハテが器用に包帯を巻いて行く最中に、そっと近寄った彼女は、自分の額と、彼の額に手を当ててみる。
「熱は……ないのか? あるのか?」
とりあえずやってみたが、熱があるのかないのか、見当もつかない。
小首を傾げる風音に対し、それを見守っていた彼は、小さく首を振ると落ち着いた声色で返答する。
「熱はない。少し膿んではいるが、これ位ならば、抗生物質も必要ない」
包帯を巻き終えたサイハテは、大丈夫だとでも言うように、腕を回して見せた。心配させないようにと、気をつかってくれたと理解した風音は、自然と口角が上がっている事に気が付く。
なんだか気恥ずかしくなって、唇の端を人差し指で揉んで、無理矢理元に戻して、その場を誤魔化す事にした。
「……ねぇ、父さん」
彼は、命の危険があると言うのに、我儘だって叶えようとしてくれている。
物言いに、少しばかり腹は立ったが、それをいつまでも引きずる程、彼女は愚かな少女ではない。
少し位なら、歩み寄る努力をこちらからしたっていいだろうと、口を開いた瞬間、サイハテの手によってそれは制される。
「静かに」
突き出された手は、彼の唇に持っていかれ、小さく人差し指が立てられた。
言われた通りに、口を閉じると、耳が澄まされて、先程まで聞こえてこなかった嫌な喧騒が、彼女の耳に飛び込んでくる。
内容までは定かではないが、男の怒号と、少女の悲鳴と言う事だけは、なんとか聞き取れた。
「父さん」
鯉口を斬る風音。
「ああ、作戦変更。俺のポジション、合流地点は一緒。敵に見つかる事も気にするな。一気に吶喊して、あの子達を救い出して来い」
サイハテが早口で変わった作戦内容を捲し立てている時も、池を挟んだ先にあるキャンプでは、今まさに蛮行が成されようとしてた。
「わかった!」
そして少女は、一言だけ返事をすると、迂回するのもまどろっこしいと、強化人間らしい脚力を使って、池を真っ直ぐに突っ切る。
腰の下まで浸かる程度の浅い池を疾走しながら、風音は刀を抜き放った。




