一話:くたばり損ない
一人の少女が、車のボンネットを開いて、ただひたすらに困っていた。
白い煙を上げるラジエータが原因か、それとも、ただエンジンオイルを流すだけの存在に成り果てたコンプレッサーが原因か、それとも両方が原因で、彼女の眉尻がひたすらに下がっている。
少女、西条風音は小さく溜息を吐くと、優しくボンネットを閉じる。そして、車の後部座席に向かって、中の男へと声を掛けた。
「……おい、もう車は動かない。ここからは徒歩だ」
出来るだけぶっきらぼうに、わざと感情を殺した声色で語り掛けるが、男、彼女の父である西条疾風から返事は無い。
苦しそうな、浅くて早い呼吸音が聞こえてくるだけだった。
一瞬、泣きそうになった風音だが、強く頭を振ると周囲を見渡して、この高速道路を囲む森の中に、敵が居ない事を確認すると、男を引っ掴んで、車から引きずりだす。
彼の顔色は青色を通り越して、土気色だ。
呼吸するのがやっとと言った有様で、医療知識の少ない風音でも、早急に治療を施さなければ、長くは持たないと判断できる有様だった。
むしろ、自発呼吸をしている今が、奇跡に近い状況なのだ。
それでも、起き上がって貰わなくては困る。
百七十センチメートルと、女性にしては大きい風音ではあるが、二メートル近い身長を持ち、体重も百キログラムを超えるサイハテを担いでいくのは、少々厳しかった。
この状態の彼を起こすのは、非常に危険ではあるが、感染変異体が蠢く街に、気絶したまま連れていく訳にはいかない。
「……父さん、死なないで」
甲冑の腰に付けた医薬品ポーチから、一本の押し込み注射器を引っ張り出す。
それはサバト軍で広く普及しているバトルドラッグで、一度皮下注射を行えば、薬効が切れるか、死ぬまで眠れなくなる、強力な覚醒剤だった。
それを彼の首筋に押し当て、強く押し込むと針が発射され、ガラスのシリンダーから透明な薬剤が押し込まれていく。
針を抜くと、開いた穴から血の玉が浮かび、サイハテは、ゆっくりと瞼を開ける。
白く濁った目玉と、ブラウンの瞳がゆっくりと動き、周囲の状況、そして、心配そうに顔を覗きこんでいる風音を捉えると、彼はゆっくりと体を起こした。
「……状況は?」
土気色の顔色を浮かべたまま、口を開くのも億劫と言った様子で、サイハテは何がどうなったのかを訪ねてくる。
少し言葉を発しただけなのに、それだけで彼の血色は悪くなっていく。
「封鎖線は引かれていなかった。車が故障したから、父さ……あんたの治療と部品を調達する為に、草津の街へ向かう」
面と向かって、父と呼ぶのはまだ恥ずかしいのか、それとも、まだ認めていないのか、取り繕いながらも彼女は脳内で組み上がっていた予定を口にする。
それを聞いたサイハテは、周囲を目線だけで軽く見渡すと、小さく咳き込みながら、ゆるりと立ち上がった。
「わかった。ここからなら、大学病院が近いはずだ……」
ふらつきながら、白煙を上げるジープへと近寄って、後部座席から風音が奪ってきた時より積んであった銃器、サバト軍のサバトライフルを引っ張り出して、肩に掛けると、腰に結わえてあった最後の高周波ブレードを鞘ごと引き抜き、投げ渡してくる。
「使え」
受け取った風音に、それだけ言い放つと、彼はふらふらと覚束ない足取りで、草津インターチェンジへと歩いて行ってしまう。
「ま、待て! 一人で行くな!!」
慌てて刀の帯紐を、鎧のベルトに結わえた少女は、抗議の声を上げながら、彼の背を追った。
弱っている彼の歩みは、それはそれは遅いもので、風音はすぐに追いついて、サイハテに肩を貸す、すると、彼女の父は不愉快そうに眉間に皺を寄せると、弱り切った声色だか、強い口調で、少女を叱る。
「両手を塞ぐな。感染変異体には、擬態を得意とする怪物もいる。戦えるように、常に武器は持っておけ」
叱られるなんて初めての経験である風音は、不服とでも言いたげな表情を浮かべるが、彼の言っている事が道理であると判断すると、渋々とサイハテから離れて、腰の刀を引き抜くと、数メートル前まで歩いて行ってしまう。
歩みを止めると、彼女も歩みを止める事から、先行して敵を排除するとの意思表示だろうと、サイハテは理解し、口元を綻ばせた。
「ありがとうな。恩にきる」
小さな呟きではあるが、風音に聞こえたようで、彼女は小さく頷くと、歩みを再開させた父に合わせるように、先行し始める。




