一話:風音とノワール
サバト本拠地、大阪の最奥にそれはいた。
青白く発光する溶液の中で、一人の男が眠っている。まるで、いい夢でも見ているかのように、口元を緩め、ただただ静かに揺蕩っている。
巨大なガラス管の傍に備え付けられた、旧世界の機械の元には、白い魔女が居り、眠る男にどこか優し気な眼差しを向けていた。
「ノワール。私の王。私達の王」
白い魔女、夢幻の百合は詠うように言葉を紡ぐ。
彼女の様子を、他の魔女達が遠巻きに見つめていて、その中の一人、グラジオラスと名乗っていた少女は舌打ちをする。
「リリィ、早く目覚めさせろ」
女性にしては低く、落ち着いた声を聴いた百合は、肩を竦めると言い返した。
「相変わらず、風情のない女。もう少しロマンを理解できないのかしらぁ?」
「フンッ、貴様がそれを語るのか?」
夢幻の悪夢が口にした蔑みに、憎悪する刃は皮肉で返す。
目を細めたリリィと、ふんぞり返ったグラジオラスの睨み合いが起こったが、最終的に白い方が目を反らして、ひりつくような空気が消えた。
「まぁ、いいでしょう。それでは皆々様ぁ? 私達の王に、失礼のないように」
彼女はそう言い放つと、機械を操作して、溶液の中に潜む微細機械へと、停止コードを送り込んだ。
微細機械群によって、仮死状態にされていた男は少しばかり煩わしそうに眼を開くと、揃っている五人の魔女を確認し、唇を吊り上げた。
続いて、発光する溶液が抜けて、ゆっくりとガラスの筒が上がり、男が出てくる。
「……やぁ、久しぶり。二百五十年ぶりかな、僕の愛しき魔女達よ」
男が狐のように目を細めて、そう口を開く。
「あぁ、あぁ! お会いしたかった! あの一兵卒に貴方が殺されてから、幾星霜の年月が経過した事か!」
真っ先にノワールへ駆け寄ったのは、案の定ナイトメアリリィだった。
彼女はバスローブを彼にかけると、詩の一節を思わせる言葉を送りながら、男に抱き着く。
「うん、すまなかったね。ただの人間も、侮れないとあれで学んだよ」
そう言って抱きしめ返したノワールは、魔女と抱き合う形になっている。
そんな二人を冷たい視線を送りながら、彼に風音と名を与えられた黒髪の魔女、グラジオラスは二人に歩み寄りながら言葉をかけた。
「感動の再会中に申し訳ない。が、ノワール。わたしは貴様に尋ねたい事がある」
近寄ってくる風音に気が付いたのだろう。
彼はリリィの両肩を掴んで押しのけると、殺気を隠そうともしない彼女へと笑みを向けた。
「やぁ、グラジオラス。その顔はもしかして、知っちゃったのかな?」
全てを包み込むような、慈愛の笑みを浮かべているノワールを見て、風音は苛立っていた。唇を噛みしめて、腰にぶら下げている粒子剣へ手を伸ばしかけて居る。
「ああ、そうだ。わたしは、ジーク……彼から父親だと、言われた」
彼女がそう伝えると、何故か彼の笑みが消えた。
「……言われた? もしかして、確信を持っている訳ではないのかな?」
ノワールの言葉に反応して、少女が粒子剣を引き抜く。
唸るような粒子の回転音が、密封された部屋の中に響き渡り、残った魔女達が一斉に身構える。
状況的には四対一、彼も加われば五対一なのだが、その本人は手で武器を収めるよう、四人の魔女に指示を出した。
「あー、あんの口下手……納得させられなかったな」
ノワールは前髪を掻き揚げて、俯いている。
何か言葉を発したように思えたが、風音にはそれが聞き取れなかった。
「まぁ……いいか。それで、君は僕に何を聞きたいのかな?」
顔を上げた彼は一転、呆れの滲む笑みを浮かべると、少女に質問を許す。
「どうして、わたしの父が奴だと言わなかった?」
風音は、感情を隠しているつもりなのだろうが、声が怒りで震えていた。
憤怒は思考能力を奪い去る。
怒りは心すらも焼き尽くして、真っ白な灰にしてしまうから、そこに付け入るのは、ノワールにとっては容易な事だ。
別に、そんな事は知らなかったと言い張っても良かったのだが、それでは面白みにかけていた。だから、少しばかりゲームをするつもりだった。
「言っても良かったよ? だけど、言わなかったのには、それなりの理由があるんだなぁ」
怒り心頭となった人間に、話を聞かせるのは、意外に難しい。
それらに話をしっかりと聞かせたいのならば、まず、話者が語る内容に興味を抱かせる必要があった。だからこそ、彼はもったいぶったような口調で、少女を焦らせたのだ。
「それなりの理由? なんだそれは、言ってみろ」
ついっと、喉元に突き付けられた粒子の切先を見ながら、ノワールは眉尻を下げた。
まるで、風音の身を案じているかのような表情で、それは、少女に怒りへ対する不信感を抱かせる事になる。
「君は憎悪を拠り所にして、十七年を生き抜いてきた。それが突如無くなったら、君は生きていられなかったんじゃないか?」
彼が口にした言葉は、風音を気遣う言葉だった。
確かに、西条風音ことグラジオラスは、ジークを己の手で抹殺する為、彼を殺して人間になる為に生きて来た。彼女は、共和国政府に憎悪だけを植え付けられて育てられた人間である。
憎む以外に生き方を知らず、ただジークを憎悪する事だけが彼女の生きる意味だった。
ノワールの言葉を打ち砕ける程の、生きる理由や生きて来た実績も、風音にはない。
憎い仇を討つのは、人間になる為の儀式だと、少女は常に信じていたが、彼の言葉でそれは生きる理由になっていたのではないかと、考えてしまった。
こうなってしまったら、誘導は容易い。
言葉を詰まらせ、切先を下ろした風音を手を掴んで、彼は決め手となってしまう言葉を口にする。
「僕では、君の生きる理由にはならない。だからこそ、君を二百五十年後の未来まで眠らせる事にしたんだ。その理由が、死したはずの男が、君に理由を与えるまで」
どうしようもないから、誰かに託す。
ノワールの言葉はそう言っているのと同義だったが、思考を誘導された少女に、疑う術はない。
「……ノワール」
悲しそうに微笑んでいる彼を見て、風音は、まだ信じてもいいかも知れない。なんて気持ちになっていた。
「わたしには、もう、どうしたらいいか判らない」
目を伏せて、これからどうすべきかを悩む少女に対し、悪い男はこう囁くのだ。
「答えが出るまでゆっくり休めばいいさ。焦る必要なんてない、今のところは理由があるんだろう?」
彼の問いに、風音は頷いて返事をする。
「だったら、今はそれでいいじゃないか。君の父親を信じればいい」
その言葉だけで、少女は悩みを保留する事にした。
仇だと思っていた男が実は父親で、それでも仇なのも事実で、彼を斬っていいのか、悪いのか、判別がつかなくなり、酷い混乱の中にいた彼女は、そのままノワールの手に落ちる事になる。
ハートのエースは、今のところ敵の手にあった。
「後で会いに行くよ。今は部屋で休んでいるといい」
そうやって、待機していた護衛兵に部屋から連れ出された風音は、自室に行ってしまった。彼女を見送った後、ノワールはすっと目を細めると、誰にも聞こえない声で呟く。
「……親子揃ってチョロイ奴等だなぁ、全く」
さり気なく肩を竦めた彼の眼前では、一触即発の空気から解放された魔女達が談笑している。
自分達のリーダーが戻ってきたことと、一応仲間であるグラジオラスが殺されなかったことから出た、安堵感によって、ついつい気が緩んでしまったのだろう。
ノワールがそれを咎める事はない、魔女達からそっと離れて、自分が眠っていたガラス管まで歩み寄ると、映る顔を己が顔を見つめて、誰かに言った。
「待っているぞ。ジーク」
その言葉は、どこかに居る死人に届いたのだろうか。