UA七万人突破記念:眼鏡と体臭と変態と
暇だったので、食堂に来てみたらサイハテがコーヒーを飲みつつ、新聞を読んでいた。
その新聞は二百五十年程前の古い物で、どこの国が亡くなって、大量の難民が発生したとか、その難民を受け入れる為に急遽山の開拓を開始したとか、書かれている。
陽子はこっそり彼の隣に腰掛けると、真剣な表情で新聞を読んでいる彼の横顔を見つめてみた。
「……眼鏡?」
そこで彼が眼鏡をかけている事に気が付いてしまう。
今は眼帯を外して、白く濁った眼を露出させているが、確かに眼鏡をかけている。サイハテの色が違う目玉がぎょろりと動き、陽子を見据えた。
「似合うか?」
気難しそうな表情から一転、どこかドヤ顔っぽい笑みを見せた彼は、そう尋ねてくる。
「うん、似合ってるけど、それ、どうしたの?」
白い瞳と、アジア人らしい黒い瞳。
痛々しいが、片方は治療用ナノマシンを使っても治らなかったのだから仕方ない。それを見つめながら、聞いてみた。
「レアから貰った。十二年式多目的眼鏡、と言うらしい」
「多目的眼鏡? 何それ」
陽子の時代でも、機械化眼鏡はあったのだが、あくまでも視力の自動補正機能しかついていない簡素な物である。
「視力の自動補正に、視界を広げてくれる機能。望遠、暗視、熱源探知に一万カンデラ以上の光を防いでくれる機能もついているぞ」
「カンデラって何?」
「光度の値だ。太陽光が五千カンデラ位らしい」
つまりは、視界の喪失を防ぐ機能だと、少女は理解した。
読み終わった新聞を畳んでいるサイハテをしばらく見つめて、そーっと、彼の眼鏡に手を伸ばしてみると、その手を握られてしまう。
「かけてみたいのか?」
相変わらずの不機嫌そうな表情なので、一瞬だけ怒らせてしまったのかと考えたが、声色から推察するに、今日の彼は機嫌がいいらしい。
「ううん、そうじゃないんだけど……」
「だけど?」
「うーん、わからない。かな」
機嫌がいいならと、手を握り返して微笑んでおく。
サイハテはそんな陽子をじっと見つめ、
「そうか」
とだけ返事をしてコーヒーを啜る作業へと戻ってしまう。
手が振り払われることはなく、片手で器用に新聞を畳む彼の横顔を見つめていると、ある事に気が付いた。
こそっとサイハテの肩口に顔を寄せて、匂いを嗅いでみる。
「……臭くないわね」
彼はそこそこ汗を掻く仕事をしているはずなのに、すっぱい臭いとか、そう言った汗臭さは感じなかった。と言うより、無臭と言った方がいいだろうか、洗濯に使っている洗剤の匂いと、お日様の香り以外はしなかった。
「……いきなり、何をしている?」
そう問いかけられて、陽子は顔を上げる。
ついつい夢中になって、肩に顔を埋めてしまったので、頬を朱に染めて取り繕う。誤魔化すように髪を弄って、目を反らした。
「いやね。ほら、サイハテって汗掻く仕事をしているじゃない? だから臭いのかなーって」
「……………………俺は時折、君の事がわからなくなるよ」
サイハテがこれ以上ない位、困惑した表情を浮かべているのに気づき、少女は照れ臭そうに笑う。
「褒めていないからな?」
「でも、ミステリアスな女性って素敵じゃない?」
「俺は神秘的な、と言う意味では言ってない」
それならばどういう意味なのだろうと、陽子が首を傾げると、彼は間髪入れずに返答した。
「珍妙」
「ちょっと!?」
あんまりな評価に、少女は抗議の声を上げた。しばらく、彼女の抗議を聞いていたが、あまり喚かれるとよくない物を呼びつけてしまう。ニックとか、ネイトとか、グレイスとか。
その三者に手をつないだままの姿でも見られたら、落ち着いた休暇が騒がしい休暇になってしまう。
「だいたい珍妙ってなによ! 確かに私は考えた事をすぐ実行する癖があるけど、そんなのサイハテだけにであってねぇ……!」
もう少しましな評価だとか、こういう事をするのは貴方だけとか、口説かれているのか怒られているのかわからない状況にもなってきた訳だし、やるかと変態は覚悟を決める。
腕を引いて、自分の胸板に引き寄せると、サイハテは少女の細い首筋に顔を埋めた。
「ちょっ……!?」
当然ながら、陽子は驚愕する。抱きしめられるような形で、男が首筋に顔を埋めているなど、初体験だからだ。
それでも、落ち着かない訳ではない。
力強く抱きしめられれば、普通は嫌悪感を抱く所だが、彼女は彼が力でどうこうしてくるような存在ではないと、知っているからだ。
「……何? どうしたの?」
さり気なく、男の背に手を回して、抱きしめ返す形になると、優しい声色で声をかけた。
陽子は、彼にこうされるのも嫌いではない。むしろ、落ち着いた気持ちになる位だ。
「何、君の体臭はどうなのかと、気になってな」
首筋に、サイハテの温かい息が当たる。
彼が口を開く度に、首筋は僅かな湿りと熱を湛えて、少しだけくすぐったい。
「ふーん?」
そう言いながら、お返しとばかりに彼の首筋に、顔を埋めてみる陽子。
「……やっぱり、サイハテは匂いがしないわね」
深めに息を吸って、匂いを嗅いでみたが体臭はなく、少しだけ残念だった。
「君はいい匂いだな。腹が減ってくる」
ロマンスの欠片もない物言いも、彼らしいと思わず笑ってしまう。
「そう、どんな匂い?」
頬をサイハテに擦り付けるようにして、尋ねると、彼は聞き捨てならない事を言った。
「昼飯の匂い」
そこでふと気が付いてしまう。
今日のお昼ご飯は、気分が乗ったので、中華を作った。そして、館山要塞のキッチンに備え付けられた焜炉の性能は非常に良好で、家庭ではできない調理法も可能であったので、ついつい大火力で鉄鍋を振って、炒め物なんかを作った記憶がある。
そんな火力の前は熱い、それはもう、汗だくになる位の温度だった。
「ちょちょ、ちょっと離して」
乾いても、汗の匂いと言う物は消え去る訳でない。
むしろ、乾く前より臭くなるのが道理だ。
「……もう少しだけ、このままで居たい」
よっぽど気に入ったのか、サイハテは離してくれなかった。今で無ければ嬉しい言葉だが、ここは乙女の尊厳にかかわる部分である。
「待って待って! 私一杯汗掻いたの! 多分臭いから、離れて!!」
「ああ、だからこんなに焼き飯の匂いが染みついているのか。美味しそうだぞ」
「ヤダ、嗅がないで!」
彼を突き離そうと両手で押してみるが、鍛え上げられた首は頑強だった。ビクともしない。
「確かに、汗の臭いもするが……これで臭いと言ったら世の中の女性は全てシュールストレミングだぞ?」
やだやだと喚いていたら、やっとサイハテが顔を遠ざけて、そう言った。
「そんな訳ないでしょうよ! 今日の私は一杯汗掻いたのよ!? 臭いに決まっているじゃない!」
「汗を掻いても臭くない人間だって居る」
「どこにいるのよ!」
「俺」
そう言われてしまえば、ぐうの音も出ない。
味わい深い複雑な表情を浮かべたまま、陽子は思考の海に埋没し、彼はようやっと、嫌がっていた少女から手を放した。
腕を組んで考える陽子が、答えを出すまで見守る事にしたらしい。
「……ねぇ」
二分程、埋没していた彼女は顔を出し、覚悟を決めて彼に問う。
「私本当に臭くない?」
女にとって、好いた男性からの臭いと言う言葉は死刑宣告に似た単語になるだろうに、陽子は尋ねてきた。
「臭くない」
そして、サイハテも無意味な嘘を吐く変態ではないので、正直に返答する。
すると、途端に安堵の表情を浮かべた少女は、軽く息を吐き、
「そっかぁ。よかった……」
と、小声で安心した。
後は、いつも通り談笑をして時間を潰す、いつもの流れに移ったのだが、唐突に彼が深刻そうな表情になる。まるで、忘れ物をした子供のような表情だったと、陽子は評する。
「なぁ、陽子。一つ問うてもいいか?」
「ん? いいわよ。大事な事?」
質問に質問を返すのはいけない事だが、あまりにも深刻そうなので、尋ねざるを得なかった。彼はこれまた深刻そうな声で返事をすると、その疑問を口にし始めるのだ。
「最近の俺は紳士すぎやしないか?」
「…………はぁ? あんた変態でしょ、何言ってるのよ」
「そうだ、俺は変態だ。ありとあらゆるレディに興奮する。救いようのない男、それが俺だ。なのに……」
サイハテは額に手を当てると嘆息する。
「最近の俺と言ったら、父親になれるかどうか悩むわ、ちょっと君達を見守るポジションに居るわ、君達に振り回されるわ……これじゃあまるでまともみたいじゃないか!!」
「……いいんじゃないの、それって」
「良くない!!」
彼は一気にコーヒーを飲み干してから、勢いよく立ち上がると、気勢を上げた。
「変態じゃない俺なんて、存在してはいけない! ここは最早、原点回帰しかないだろう!!」
「ふーん? じゃ、すれば。変態」
気合一杯のサイハテと比べて、陽子の反応は蛋白である。
彼女は椅子から立つと、彼の傍により、ついっとスカートをたくし上げた。
「ほーら、好きにしなさいよ変態。こう言うのが望みなんでしょ? だったら望むままに行動すれば?」
冷たい目で見据えながら、陽子は言い放つ。
だが、真正の変態は嫌がる女性の姿にも興奮するわけで、そして、その冷たい目線にも興奮するのが変態である。
そして、変態は挑発に乗りやすい、売り文句に買い言葉だ。
「ならば、望むままに行動するとしよう」
一瞬で服を脱ぎ去る変態。
鍛え上げられた筋肉と、先程の冷たい目線で戦闘体勢に入ったサイハテのサイハテが白昼の元に晒される。
レア曰く、裂けちゃうサイズのアレが、天を突くかの如く強直していた。
陽子が、裂けちゃうアレを見て、頬を赤くする。
「……ねぇ、なんで勃ってるの?」
「君の視線と、鼠径部に興奮したからだっ!!」
「ふ、ふぅ~ん? そ、そうなんだぁ~?」
裂けるアレから目を反らして、返事をした陽子は、今、物凄く逃げたい気分だった。手を出してくる事はないと分かっていても、巨大な凶器が目の前でゆらゆら揺れていれば、誰だって逃げたくなる。
そして、興奮したと言われて、ちょっと喜んでいる自分が嫌だった。
このままなし崩しに色々されるのでは、と、期待半分恐怖半分の気持ちになる陽子だが、変態は突如として何かを考えると、ゆっくり口を開く。
「……なんか違うな」
そう言って、変態は服を着てしまう。
スカートをたくし上げると言う、実は精一杯の行動をしている陽子を尻目に、サイハテは空になったコーヒーカップを持つと、おかわりを淹れて食堂から出ていった。
「…………………………えっ?」
ついついあっけに取られて、彼を見送ってしまった少女は唖然としつつ、スカートから手を放す。ふわりと、重力に引かれて落ちるスカートとは対照的に、陽子の顔は、下から上へと赤く染まり始める。
先程までは勢いでなんとかなっていたが、その勢いがなくなってしまえば、冷静さを取り戻してしまう。
「……私、何してるの!?」
そうなると、最早、両手で顔を覆って、その場に座り込むしか出来なくなっていた。
しばらく、この羞恥は脳裏から消えることはないだろう。そして、サイハテの食事はしばらくTKGになるだろう。
勢いだけで行動してはならないと、南雲陽子は深く胸に刻むのだ。
据え膳にも手を出さない変態の恥