一話:新しい拠点
灰色の鉄筋コンクリートに、色気のない蛍光灯が反射している。
ゆっくりと体を起こすと、陽子が寝ていた、放浪者の街とは比べ物にならない位清潔なベッドが見えるが、これもどこか味気ないと彼女は思った。
周囲を見渡しても、誰もいない。
それもそうだ。
ベッドだけがぽつんと置かれた、八畳程度の部屋に、彼女だけが寝ているのだから、色気なく感じるし、少しばかりの違和感だって感じる。
「……んー」
陽子は大きく体を伸ばすと、ベッドから降りて寝間着から普段着へと着替える事にした。
鏡はまだないから、さっさと着替えて、洗面セットを持って洗面台のあるトイレにでも行かなくてはならない。
綺麗な拠点だが、前の家の方が、好きだったかも知れないと陽子は思った。
Tシャツにハーフパンツと言った、部屋着感溢れる普段着ではあるが、他に着れる服も無し、ぼんやりした頭で着替えて、洗面セットを持ってトイレに向かう。
トイレに向かう最中、サイハテと出会った。
「おはよう」
彼はちっとも眠くなさそうな表情で、そう挨拶をしてくれたが、対する陽子は目を半開きにしたまま、左右にふらふらしている。
「……おはよー」
大きなあくびをかみ殺す事もなく、少女は挨拶をした。
昨日まで、ずっと歩きっぱなしだったのだ。疲れていても仕方のない側面がある。
「眠そうだな」
同じく、洗面セットを持ってトイレに向かっている最中だったのだろう。サイハテは歯ブラシやシェービングクリームの入った桶を小脇に抱え、苦笑する。
「……んー」
そう言われても、陽子の脳みそは半分ほど夢の中だった。
左右にふらふらしており、どこかで転んでしまいそうな程、夢現と言った様子だ。
そんな彼女の様子を見て、彼は困ったように顎を掻く。無精髭が生えてきた顎は、少しばかり不快な感触を指に残す。
「……仕方ない」
これも陽子を起こす為だと、サイハテは彼女の胸を優しく掴む。
「……ほう?」
掴んだ先で、ある事実に気が付いた。
「何すんのよ!!」
突如として覚醒した陽子に頬を叩かれたが、そこは重要な部分ではない。むしろご褒美であるから、そこは無視して、陽子に嬉しい報告をしてやる。
「よかったな。一センチと二ミリ程、サイズが上がっている。触った感じから、太った訳ではないから、安心するといい」
「……嬉しいけど、あんたの口から聞きたくなかったわ」
半眼でサイハテを睨む。
彼女にとって、喜ばしい報告ではあるが、他人の口からは知りたくない事実の一つだと、陽子は今確信する。
トイレに着くと、二人並んで朝の身支度を整えた。
分厚いサバイバルナイフで髭を剃るサイハテの横で、陽子は髪を梳る。
長い髪は自慢だが、手間がかかる事だけが難点だった。好きでやっているので、そこまで苦ではないが、面倒くさいものは面倒くさい。
「後頭部、まだ跳ねてるぞ」
「あ、うん。ありがとう」
サイハテにブラシをひょいと取られて、髪を梳られる。
概ね出来ない事はないらしく、プロ顔負けの腕で髪を整えられてしまった。
「あんた、美容師でも食っていけるんじゃないの?」
「その気になれば、なんだってなれる」
相変わらず凄まじい人間である。
なれるのに、やらないのはそう言った職業に魅力を感じないかららしく、なろうと思えば何にだってなれるらしい。
鏡を見ると、自分でやったときより綺麗に整っており、おまけにかかる時間も半分程度だった。
「綺麗になったわ。ありがとうね、サイハ……」
もう一度礼を言おうと思って振り向いたら、言葉に詰まってしまう。
振り向いた先には、誰もいなかった。
先程まで会話していたのに、サイハテは痕跡すら存在せずに消えてしまっている。
取り上げられたはずのブラシは手に戻っているし、彼が使っていたはずの洗面台には、水滴すら残っていなかった。
「……まだ、寝ぼけているのかしら?」
目を擦り、陽子はそう呟く。
返事が返ってくるとは思っていなかった。
「いいや?」
びくりと体を硬直させる陽子。
恐る恐る顔を上げると、先程までいなかったはずのサイハテがそこに、無表情で突っ立っている。背筋に氷でも流し込まれたかのように、少女は震えた。
「……あんた、どこに隠れてたの?」
「隠れていないぞ。俺はずっと傍に居た」
では、巨体のサイハテを見逃したのはどういう訳だろうか。
そんな疑問をぶつけようとしたら、彼が先にネタばらしをしてしまう。
「隠れる技術の極み、その一つだ。君には見せておこうと思ってな」
すっと腕を組んだサイハテが、また視界から消える。
慌てて周囲を見渡すが、物音一つ無く、影一つない。
「俺はずっと、君の死角に居る。ちょっとしたゲームだ、俺を見つけてみろ。見つけ出せたら……そうだな。なんでも一つだけ、言う事を聞こう」
「……それは嬉しいけど、これになんの意味があるの?」
「何、君は俺の事をよく心配するからな。心配なんてないって事を、一つ見せてやる」
つまりはだ。
万が一にも陽子がサイハテを見つけ出せたならば、彼もあまり無茶をする事がなくなるのではないかと、ひらめく。
「ふーん、じゃあ絶対に見つける!」
サイハテからこう言ったゲームを持ちかけられるのは珍しいし、ならば少しだけ楽しんでみようとゲームに乗ることにした。