危険人物
「国也さん、もしも私が主人と別れたら、お店に入っていただけますか?」
夕衣からのプロポーズに、頭の中が真っ白になってしまった国也。
「あ、う、うれし、いえ、ぼ、僕じゃなく、夕衣さんには、もっと大事な人がいるんじゃないですか?」
「でも、今の私には、あなたが必要なんです」
どうしよう、予想外の展開に戸惑う国也である。
「いいじゃない、結婚すれば」
突然現われて横やりを入れるのは、都代川稲荷で夕衣といた女の子だ。
「だけど、夕衣さんには・・・」
「こんなおいしい話、もうないわよ」
誘惑に負けそうな国也。
「夕衣さん、こうなったら身体ごとアタックしたらどうですか?」
「うん、そうね。国也さん、私を受け止めてください!」
国也に迫って来る夕衣。首に両手を回し、顔を接近させる。
「私のこと嫌いですか?」
「い、いえ、とても素敵な方だと・・・」
「じゃあ、お願いします。私を抱いて・・・」
その時、稲荷の女の子が、置時計を国也の耳に近づける。
「それは、僕の目覚まし・・・」
ジリリリリッ、いつもの朝の音だ。国也は、布団の中から手を伸ばし、目覚まし時計のボタンを押す。
「やっぱり夢か・・・」
ガッカリするのも半分、うれしいのも半分、いい夢のようで、そうでもない、複雑でスッキリしない気分の国也。
「夢でもあの子は、邪魔をするんだ」
名前も知らない女の子に、腹を立てている国也である。
真佐雄が、実家の呉服店に来ていた。
「夕衣の奴、いつまでも社長でいられると思うな」
社長室のソファに座り、煙草を吹かしながら、ここキトウ呉服店社長であり、真佐雄の父親でもある木頭三千彦に愚痴をこぼしている。
「社長に任せたらどうですか?」
隣に座るのは、社長の影の秘書で、呉服以外の仕事を請け負っている田之中信也だ。
「真佐雄は、まだ甘い。田之中、お前が段取りしてやれ」
社長の席に座り、こちらはマフィアのドンのように葉巻をくわえている。
「あの店が、真佐雄のものになれば、静岡の呉服業界を我一族で牛耳ることが出来るからな」
田之中は頷く。
「またそんなことを考えているのか!」
そこに現われたのは、井和田静夫である。
「誰かと思ったら、井和田じゃないか。てっきりのたれ死にしたのかと思っていたよ」
井和田は、三千彦を睨みつける。
「あんたの悪行を世間に知らせるために戻って来たんだよ」
しかし、そんな井和田の言葉にも、不敵な笑みを見せる三千彦。
「あの展示会で、あんたが盗品を紛れ込ませたことは、わかってるんだ!」
拳に力を込める井和田。
「そんな22年も前のこと憶えているものか」
鼻で笑う三千彦。
「俺たち三人の、将来ある若手呉服店店主を、何のためらいもなくどん底に落としたお前の悪事の証拠を、今まで必死に捜して来たんだ。今度は、必ずお前を地獄に落としてやる!」
三千彦が、井和田を睨む。
「その言葉をお前に返してやるよ」
三千彦の言葉に、井和田は睨み返して無言で部屋を出る。三千彦は、立ち上がり椅子を蹴飛ばす。
「田之中、あいつも酔っぱらいの事故にしてやれ!」
三千彦は、赤い顔をして指示を出す。田之中は頷き、井和田を追う。
「親父には、怖いものなんかないんだな・・・」
「自分の手を汚さず、手足になる影の人間さえいれば、何でも出来るさ」
真佐雄の向かいのソファに座り、三千彦はニヤリと笑う。その眼は、瞬きするとワニのように瞳が細くなり、葉巻を外した口から出る舌は、蛇のように先が二つに割れている。人間離れしたもう一つの顔を時々見せている。
「お前もわしの息子なら、業界のトップになるために、手段を選ぶな」
葉巻の煙が部屋に漂う。
翌朝、乃菊のアパートのドアホンを鳴らし、玄関前にいたのは、警察官だ。
「井和田静夫さんのご家族ですか?」
乃菊は、いやな予感がした。
「はい、義理の父ですが・・・」
「馬込川で男性の遺体が発見されて、持っていた免許証から、井和田静夫さんではないかと思われ、確認して頂きたいので、申し訳ないですがご足労願います」
乃菊は、力を失いしゃがみ込む。
「大丈夫ですか?他にご家族は?」
「いません」
警察官に支えられて立ち上がる。乃菊は外へ出て、アパートの前に停まっていたパトカーに乗せられ現場に向かう。
「外傷はありません。ビールの缶も落ちていたので、酔って橋の上から落下したのではないかと」
「そうだな、事件性はないようだ」
刑事が話しているところへ、警察官に連れられた乃菊がやって来る。
「井和田静夫さんの娘さんです」
「ご確認願います」
刑事が遺体に被せられたシートを捲ると、顔が見えた。
「井和田静夫さんですか?」
「はい、そうです」
刑事は、優しく乃菊の肩に手をやり言う。
「おそらく、酔って橋から落ち意識を失い、、溺れてしまったようです」
「そんな・・・」
乃菊は、それ以上言葉を続けなかった。