ジェットコースター
まるでもって、おかしい。真音は転校生として小学校に入り込んだわけでもなく、しかしながら誰も真音の存在に首をかしげるものがいなかった。下駄箱で靴を持った下校時、クラスの児童から遊びに誘われたほどに真音はその場に溶け込んでいた。真音は考えた。真音自身にもおかしなところがたくさんあった。なぜ、下駄箱の場所や自分の机の場所を知っていたのだろう。なぜ、誰かに呼びかけられたときに自分の名前を呼ばれていたであろうはずなのに、なんと呼ばれていたか思い出せないのだろう。なぜ、なぜ…。
(まあ、いいや。全部あの薬のせいだろう…)
例の女子児童が気になる。塩谷は何を言いたかったのかは、真音には想像すら付かなかった。携帯電話が気になった。塩谷へ電話してみようという思いが真音の頭をよぎった。しかし、とりあえず今から万屋記念館へ行くことになっているし、今日のことは何とか務まったことになっているはずだと思ったのでそんな必要はないだろうと一人で気持ちに整理をつけていた。どんな仕事にも、完璧はあり得ない。元々、納得ずくで引き受けた仕事ではないのだし秘密だらけのこんな体を張った危険な仕事、引き受けただけでもありがたいと思って欲しいことなのだからと真音は思った。思いながらも、まだ後ろめたさを伴う引っかかりが取れない。
信号機が黄色から赤に変わった。ここは、普段から車の交通量が少ない一方通行の道路だった。左右を見ても誰も来そうにない。自転車が見えたが向こうの路地へと曲がって行ってしまった。
(今のうちに渡っちゃえ)
ぼやけた線の横断歩道に右足を踏み出そうとしたそのとき、真音は軽い立ちくらみに襲われた。ランドセルを背負っていたので後ろに引きずられたかと思った。
(な、何?)
急に目の前がぼやけてきた。犬の散歩をしていたおじさんが声をかけてきたが、何を言われているのか理解できなかった。こみ上げる、吐き気。腰のあたりから突き上げるような猛烈な寒気。めまいが酷くなった。頭が割れるように痛んだ。
「お嬢ちゃん?」
おじさんの声を後に、真音はどこか隠れる場所を探し求めて歩きだした。気持ちが悪い。座りたい。鼓動が波打つのを感じる。額に汗をにじませた。
「えっ?」
真音の歩みがぱたと止まった。腕の、足の皮膚が小刻みに震えだしたのだ。しかも、その震えは何かが付きぬけてきそうなリズムを伴っていた。おまけに、ジェットコースターが急降下し始めた時のあの無重力感が無抵抗な真音を襲ってきた。徐々に震えのリズムは早くなり、真音を一層不安にさせた。
万屋記念館の建物が見えてきた。あの角まで行けば、中に入れる。あそこなら、きっと人の出入りも少ないから安心だろうと思った。それに、何よりこの状態を詳しく説明する義務が塩谷にはあるはずなのだから…とも思った。
(これが…、あの薬のせいでないわけがない!)
口元が吐物の痕で光る。それをぬぐったため袖口も汚れていた。もう、声にならない。寒さと突き抜けるような皮膚の躍動を気力で押さえるしかなかった。歯を食いしばってもとめどなくあふれ出す唾液。建物についた真音は背中を丸めて4階を目指すべくエレベーターに向かった。とても長い距離に感じた。エレベーターに乗り込むと、安堵と恐怖で真音は泣きだしてしまった。上へ上へ、エレベーターは上がる。4階についた。真音は倒れ込むように廊下へ躍り出た。万屋記念館の部屋の明かりが見えた。ドアまで、あと数歩だった。真音の頬が少しだけ緩んだ。
突然、張り裂けそうな痛みが真音の体を駆け抜けた。熱い。
「あ、ああっ…!」
両腕で自分の体を抱きしめ、壁伝いに身を預けながら歩き出した。あと、少しでドアだった。しかし、真音は反対方向へ歩き出した。そう、暗がりを求めていた。真音にはこれから何が起きるかは分からなかったが、真音の中に眠る「本能」のようなものが危険を察知したため身を隠す場所を欲していた。
格好の場所は薄暗く、狭かった。後で気づいたのだがそこは給湯室だった。真音はそこで膝を抱えて座り込むと、激しい吐き気と戦いながらもなぜか眠り込んでしまった。
天井には、あの蛍光灯があった。すぐ横の小さなパーテーションの向こうからは、靴音と機械の操作音、数人の雑談と笑い声…。真音は、覚えのある部屋のソファに寝かされていた。半身を起こすと、足元に置いてあった真音の荷物が崩れ落ちた。誰かが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
声の主は、パーテーションの向こうから姿を見せずにこちらをうかがう素振りで言った。
「…あ、大丈夫、です」
真音は答えた。答えながら足元に落ちた荷物を拾い上げると、その中には真音が今まで来ていた子供服があった。
(あれ?)
真音は見たこともないワンピースを着ていた。体が、元の佐々木真音の体に戻っていた。手も指も、足の大きさも。あまりの驚きに、真音は言葉が出なかった。と、同時に吐き気と鼓動のあの出来事が頭をよぎった。
「塩谷さん!」
靴を履きながら真音は叫んだ。
「ここにいます」
塩谷がコーヒーを片手に現れた。
「落ち着きましたか?」
そう言いながら、椅子をソファの近くに置いて塩谷は座った。
塩谷のコーヒーのおかげで、真音はなんとか落ち着きを取り戻した。通学路や教室でバレやしないか怖かったこと、誰も真音の存在を不思議に思わないことが戸惑いを通り越して恐怖だったことなど、真音は思いつくままにまくし立てた。塩谷は黙って聞いていた。塩谷はずっと真音を見つめて聞いていた。
「それから、電話が途中で聞こえなくなって、塩谷さんがなんて言ってるのか分からなかったんだけど!」
「ああ、あれは女子児童が給食当番の白衣のポケットの中に忘れ物をしたので…」
と塩谷は言った。そして、壁にかけてある時計に目をやり、こう言った。
「そうか、まだ間に合う。急いであの子を追いかけてくれませんか?」
「なんでですか?」
もう二度と同じ思いはするものか、固い決心をあらわにした真音は冷めきったコーヒーを一口すすった。
「嫌ですよ。もうやりません。今だってまだ全部説明されてないことばっかりだし、納得もしてないし…」
と、真音は塩谷を真っすぐ見て言った。
言いにくそうに、しかしはっきりとした口調で塩谷は言った。
「仕事を簡潔に終わらせていただかないと、報酬はでませんが。それに…」
思いがけず口走ってしまったとでも言うように、塩谷は言葉を打ち切った。
「それに、何なんですか?」
真音は聞いた。
「…あの女子児童は、今日の放課後は児童会の仕事を頼まれていて4時ころまで学校にいるのですがね」
と塩谷は言うのだが、なんだか歯切れが悪い感じだった。
「だから?」
真音はその話しの続きを促した。言いながら、なぜ塩谷はそんなことを知っているのかと、ちらっと考えたために言葉は軽々しくなった。それが功を奏したのか、塩谷の重い口を開かせた。
「…その、女子児童は…学校に戻るのですが…。その…白衣のポケットの中身を取りに行くのですが…」
塩谷は、メガネを触ったのか目頭を触ったのか、うつむいてしまった。さすがに真音は言葉をのんだ。そして、ゆっくり顔を上げると塩谷は言った。
「…彼女を、…彼女を、助けて欲しいんです」
そう言うと、塩谷は真音の返事も待たずにゆっくりと席を立ってパーテーションの向こうへと行ってしまった。