通り過ぎた日常
真音にとっては、全く初めての小学校だった。アパートは通学路に面していたし近くに小学校があること自体は知っていたのだが、よりによってこんな形で登校する羽目になろうとは思いもよらなかった。
ひたすら、うつむいて歩く。他の児童と目を合わせないように。近所の顔見知りの人に合わないように。
(「あなた誰?」とか聞かれたら、なんて答えればいいんだろう。大体、どのクラスに行けばいいのよ…)
涙の存在は感じられるが緊張が勝ってしまい、さらりと乾いてしまう。
(子供の声ってなんでこんなに甲高いんだろう。地面って結構小石が落ちているんだな…)
何かしら考えていないと自分が保てない。真音はついに学校の門を通過し、校舎へと吸い込まれて行った。
例の「携帯電話の画面」をクリックした真音は、いつの間にか「人材派遣会社・万屋記念館」の派遣社員の登録画面を目にしていた。
(ふーん、通信料・登録料は無料かぁ。登録は…生年月日だけ?なんだか結構適当ね…)
憂さ晴らしにも似た興味本位で、真音は登録をしていた。けれども、万が一を考えて登録上に必要な生年月日を1日ずらし、架空のものにした。
情報を送信した後、驚くことに携帯電話が鳴った。着信の画面は、万屋記念館。
(え?どうして?まだアドレスいじってないのに…。しかも、メールじゃなくて着信って一体…?)
恐る恐る、真音は電話に出た。まず最初に、相手の声を聞こうと思ってじっと耳をすませた。
「人材派遣会社、万屋記念館でございます。このたびはご登録をいただきまして誠にありがとうございます。お客様の地域で依頼がございますので、本登録を兼ねて一度お話をさせていただきたく思いお電話いたしました。もちろん…」
流れるような話し方の男性は、声がとがらず聞きとりやすい声の持ち主だった。
(…いくつくらいの人だろう。社長さんかな、事務の人かな…)
「お客様?恐れ入ります、少々お電話が遠いようなのですが…」
駅のベンチに座り風に揺れる掲示物を見ていた真音は、はっとした。
「あ、ごめんなさい。すみません。聞いてます。はい…、じゃ、今日これから…」
アパートと専門学校を往復する毎日の真音には、特別に断る理由も見つからなかったのでそう返事をしたのだった。
わりと、その道は毎日のようによく通る道だった。なのに、なぜかこの場所に人材派遣会社「万屋記念館」があったような記憶は真音にはなかった。タイル張りの雑居ビル風ではあるが、ずしりとした建物だった。分厚いガラスがはめ込まれた窓は、四隅が白く濁り築年数を物語っているかのようだった。木の手すりのついた階段は幅が狭かったので、その先にあるエレベーターはすぐに視界に入る状態だった。
「4階か…」
誰かがこのロビーにいたら、真音は帰ろうと思った。誰もいなかった。誰かがこのロビーに来たら、真音は帰ろうと思いしばらくエレベーターの前に立っていた。けれども誰も来る気配はなかった。真音はやけに飛び出したエレベーターの昇降ボタンを押して中へ入って行ったのだった。
児童達の流れに身を任せ、辿り着いた教室は4年5組だった。足は自然と机に向かった。手慣れた感じでランドセルを置き、提出物を教卓にあるかごの中に置いた。
(なにやってるんだろ、私…。なんで誰もおかしいと思わないの?)
窓側の後ろから2番目の席は居心地がよく、校庭が見渡せた。校旗が風に揺れている。児童たちがどんどん校舎へと走り寄ってくる。
チャイムが鳴った。真音の1日が始まった。
エレベーターは4階で止まった。万屋記念館の部屋らしきドアの脇には、黒い傘立てが置いてあった。ドアの上部のガラスからは、柔らかい蛍光灯の明かりが見えた。どうやら中には誰かいるらしい。ノックをしてみた。その固い感触は、弱弱しいノック音しか生みださなかったので中にいる人に届いたかどうか真音を不安にさせた。
「…失礼します…」
真音はドアを開けた。
「…御用の方は、奥へどうぞ」
パーテーション越しに女性の声。彼女は姿を見せないままで、真音は奥へと誘導される形となった。不規則に並ぶ高さも大きさもまちまちなパーテーションは事務所らしさを損なわせていた。けれども、それが却って真音にとっては楽だった。複数人の声はする。しかし、姿は見えない。床には何かの切り抜きや枯れて土も干からびた植木、ビスのようなもの、ダブルカセットデッキ、キャンディの包み紙…。パーテーションには幾重ものはがしかけのシール、タオルがかけてあったり、枠にミニカーが並べてあったりした。お世辞にも清潔で機能的な事務所とは言えなかった。
(奥って、どこまで行けばいいんだろう)
雰囲気に慣れてきた真音に、声が掛った。
「佐々木様」
その声が、塩谷だったのだ。真音はその声のするほうへと引っ張られるように歩み寄って行った。
3時間目の休み時間、真音はふと思った。
(朝、出席とったけど誰も何とも思わないなんて変よね…。さっき、算数の授業で確かに指されたけど…私はなんて呼ばれたんだったかな…)
塩谷に言われたとおり、クラスメイトの男子児童と給食当番を代わらなければならない。どの子と変わればよいのだろうか。さらに、その男子児童の代わりに女子児童が給食当番をやるのだけれど、それを奪い取らなければならないらしい。ややこしいな、と真音は思った。
いくつかのやり取りがあり、真音には断る自由もチャンスもたくさんあった。話が進行されるにつれ「上から目線」や「押しつけ」感は皆無になり、「待ち人感」とか「人選」の色が濃くなり出した。「信頼」や「秘密」や「協力」がキーワードになり始めたが、宗教的な感じは感じられなかった。塩谷は言った。
「では、最終確認です。仕事の当日は薬を飲んでください。赤いカプセルと白く小さな錠剤です。副作用はありません。朝7時に飲めば夕方4時には効果はなくなるものです。次に、指定された小学校へ行ってください。行けば仕事の内容も分かります。必要なものは佐々木様の在宅時に合わせてお送りします。お給料は、ご希望の金額になります。上限はありません。薬の効力がなくなってから、指定の用紙に書いてください。他にご質問は?」
塩谷の顔は、角度のせいかちょうどメガネが蛍光灯で光ってよく見えなかった。真音は、田舎のおばあちゃんの家で寝泊りし続けて、ゆっくりすることにも疲れ出したあのけだるさを思い起こしていた。暖房のせいか、空気が両肩にもったりとまとわりつくようだった。交錯する雑談と機械の操作音。真音は、自分が最後の書類を書き終えてボールペンを塩谷に返したところで、やっと現実に戻った感じがしたのだった。