グァテマラの後味
選挙ポスターの候補人がこちらに微笑みかけ、いつまでも目が合う。雲の切れ間に青空が見え、お昼ころにはこの湿ったアスファルトも乾くのだろう。安っぽくて薄っぺらなゴム底の靴の跳ねる音、それと連動するかのような笑い声。朝の通学路は学年色別の帽子がにぎやかに彩る。今日はゴミの収集日なのだろう。ゴミ置き場のカラスよけネットを面倒くさそうにめくるサンダル履きのおばさんがいる。
空色の学年帽を目深にかぶった一人の少女が、足取り重く彩りの中に流れてゆく。
真音はその朝、担当者に電話をかけた。担当者の名前はあの日は確認できなかったので、その電話で初めて聞いた。彼は「塩谷」と言った。
塩谷は、真音のその乱れた息遣いと異常なほどの丁寧な言葉遣いで、ついに来るべき瞬間が来たと察知した。彼には、真音が引き受けた仕事を十分にサポートするという使命があったのでーいやそれよりも、「ここで後戻りされては困るため」なのかー真音のそれに飲み込まれることなくごく静かに対応した。塩谷の言葉の端々には、ぴりりとした緊張やときに含み笑いすら感じられたほどだったが、それは決して嫌味にはとれず、逆に淡々とした語り口調のなかにも何かこう…まさに「真相」を語られているとするかのような臨場感が、真音にはやがて「信頼」として変換されていった。
そう、真音はその時点で「こと」を理解するのは不可能だった。「事実」でさえ、納得するのが厄介だった。真音の住むアパートの部屋は1階の角部屋だが、プロパンガスを設置する狭い通路をはさんだ隣家は兼業農家の一軒家だった。その家のおじいさんは、朝からラジオを大音量で聞く癖に、何かにつけて近所からのちょっとした騒音にたてつくタイプだった。お嫁さんが聞こえよがしに愚痴っぽく言うのが時折聞こえたものだった。なので、真音もいつもは音には気をつけていた。が、この日ばかりは違っていた。
「それでですね、だって、なんで…!なんで肝心なこと言わなかったんですか、おっしゃらなかったて言うか、私、説明していただいてませんよね?」
真音は髪をかき上げながら早口にそう言った。塩谷は答えた。
「そうですか、肝心なことですか…。ことらとしましては、まず薬を飲んでいただくことと…」
「ええ、赤いカプセルと白い錠剤ね、飲んだわよ。飲んだから電話してるんでしょ!」
塩谷の声を真音がふさいだ。折りたたみテーブルの淵を指先で小刻みにタップしながら続けた。
「ああ、もう…」
塩谷から渡されていた大きな段ボール箱の中をあらためながら、真音はすでにあきらめ始めた。そして、ゆっくりと時計を見た。TVに映るアナウンサーは、今日も女性アナウンサーに気さくな一言を投げかけていた。白々しい、真音はそう思った。
「…どうして服が入ってるんだろうって思ってた。なるほど、よく見たら子供用だ」
真音は誰に言うでもなくつぶやいた。
「学校に行けってことなのね」
塩谷は黙って電話の向こうでうなずいた。
「しかも、小学校…。」
今日の仕事で「小学校」へ行くことは分かっていた。やることは2つ頼まれていた。それだけしか聞かされていなかった。真音はカジュアルスーツを着ていたのだが、それはすでに用をなさなくなっていた。
だぶついたジャケットを脱ぎ、ピアスを外した。ストッキングはつま先から引きずるようにあり余っていた。
「やだ、給食袋まで入ってるんだ…」
真音は段ボール箱から着替えのための服を探しながら、懐かしの眼でふと笑った。
「よろしくお願いします」
塩谷が言った。
「ばれたら、どうすればいいの?私、免許証とかケータイは置いて行ったほうがいいですよね」
ティッシュオフタイプのクレンジングでメイクを落としながら真音は電話を持ちかえた。ため息がとまらない。
「ばれないようにお願いしますね。大丈夫です、ばれたら私が保護者として迎えに行きますから。あ、携帯電話は持っていってください。見つかったら、そうですね…へし折りますか、大丈夫弁償します」
塩谷の口調は柔らかくなった。
「弁償だけですむと思わないでくださいよね、そうだなぁ…、アグリル・マーラの靴が欲しかったんだわ。あと…」
ねだる経験のないことは、抑揚のありすぎる言い回しでよく分かった。塩谷は優しく笑った。
「急がないと、遅れますよ」
反射的に真音は言った。
「いけない、行かなくちゃ。…行ってきます」
「…気をつけて行ってらっしゃい」、塩谷の声が届く前に通話はすでに終わっていた。
真音は背伸びをし、鏡を見ながら段ボール箱に入っていた空色の帽子をかぶった。真音は、この日に飲んだ薬のおかげで小学生の体になっていた。赤と白のその薬は、身長162センチの真音の体を小学4年生の体に変えてしまったのだ。
真音は、部屋を見つめた。脱ぎ捨てられたスーツ、ゴミ箱の中に捨てられた、ぬぐい取った口紅やゴールドのアイカラーが付いたティッシュ。中学生時代を思い出した。
友達と約束して、色つきのリップクリームではなく、初めて口紅をつけて街まで行ったっけ。流行りのキャラクターのノートを買いに行ったのだけど、帰りが遅くなって自転車で猛ダッシュ。夕食のいいにおいが立ち込める頃、親にばれないように家に入り込んで部屋の中へ。ドアを閉める音がとても大きく聞こえたっけ。口元を右手で力任せにぬぐった後、何食わぬ顔で食卓についた真音はなぜかいつもより口数が多くてかえって親に怪しまれたりもした。後日、母親から言われた。
「お母さんの口紅、知らない?」
忘れていた、鏡台の引き出しにこっそり返すことを。「知るわけないじゃん」、なんてわざと怒って見せたっけ。
後味が酸っぱい感じ。よく例えに出る「ほろ苦い思い出」とはちょっと遠い。そう、なぜか後を引く。
「グァテマラ…」
ぽつりと真音は言った。
真音が高校生の頃に夢中になった、地元の大学生のアマチュアバンド。ボーカルをしていた「ヤス」のバイト先は、隣町の小さな喫茶店だった。真音と友達は、その日来るかも分からない彼を一目見るために、コーヒー1杯で2時間半もねばった。その日、ヤスは来なかったが、ヤスが目にする店内を満喫できて真音らは満足だった。その時注文した「グァテマラ」は、背伸びして注文したものだった。メニューの上のほうにあるものではなんとなくありがちな気がしたので、あえて知ってるふうを装って「グァテマラ」を注文したのだった。友達は少し驚いたふうだった。その瞬間、真音はほんの少し優越感を覚えた。でも、運ばれてくるまで不安で仕方がなかった。ヤスに、グァテマラを手にする自分を見てもらえたらという淡い期待もあった。
それにしても、高校生の真音にはグァテマラは酸味がきつかった。慌てて砂糖を入れたのだが…これには砂糖は似つかわしくなく、さらに飲めないものへと変貌してしまった。友達はともかく、コーヒー1杯でねばった真音は、ねばったというよりも飲めないコーヒーを相手にし、対処に困って居座り続けた、が正しかったのだと思う。
真音にとってはグァテマラは背伸びの味、失策の味。そして、自分のなかの未知なる部分の味だった。TVを消し、ランドセルを背負った。
ドアは重く、けれどすみやかに開いた。ドアが閉まるとそこにはどこから見ても全く普通の小学生の女の子が立っていた。
「行ってきます」
履き慣れていないスニーカーのつま先でトントンと音を立てると、小さな真音は逃げるように駆けだして行った。