秘密との出会い
まだ決めかねていた。快諾したとしてその後の生活リズムはどうなるのだろう。近所の目は自分にどうまとわりつくのだろう…。それらすべてが、時空を超えたその彼方にあるような気がした。
暖房の利いた、どことなく学校の特別教室にも似た人材派遣会社「万屋記念館」の一室。館内放送とパソコンの操作音が交差する中、佐々木真音は膝に乗せたバッグの縫い目のほつれをもてあそびながら椅子に腰かけていた。席を外していた担当者が戻ってきた。真音は乾ききった唇をもどかしげに緩め始めた。
「…じゃ、…じゃあ、やります。」
担当者の視線が真っすぐ真音に向けられた。彼は静かにうなずくと登録方法を説明し出し、まず名前と身分証の提示を求めてきた。彼のネームプレートが乱反射する中、担当者の手元が小気味よくパソコンのキーを叩き始めた。
真音は不思議だった。自分が言ったことの重大さを特に感じてもいなかった。ただただ驚いていた。まさか自分の口から「やります」などと言う言葉が飛び出すとは思わなかったからである。
真音は、21歳。親元を離れ専門学校へ通う学生である。専門学校と言ってもセルフディベロップメント・インストラクターなどと言う実態がよく分からないコースに滑り込んだに過ぎなかった。
真音には、いわゆるやりたいことが見つからず、メディアが映し出す同世代の生き方や友人らの生き様が流行りのゲームのように感じられて仕方がない時期があった。「将来のこと、ちゃんと考えてるの?」真音の親は顔を合わせるたびに左の眉を下げて早口でまくし立てていた。親が言う<将来>とは。こんな問題、いきなり付きつけられても単語としか受け取れなかった。そんな大事なことは広い世界を見ずに決められる訳がない…と、平静を装いつつ心の奥底で粋がっていた。
粋がると言うより、真音は逃げていたのかもしれない。つい最近、ふとそんな風に感じることが多くなった。自分は何一つ持っていない。自信も、夢も、知識も、頼れる人脈も。
高校時代は、ファッションや彼氏の話に高じる友人らをどこか軽蔑さえしていた。大学へ進学したが2年で中退。中退したわけは、音楽はこうでなければとか、スポーツをやるならこれは必須、などというどうにも無意味な部分に執着するカタマリに属し、その一部でいなければならないことがたまらなく苦痛になったからだ。今思えば、勉学から離れた部分で不器用な自分が浮き彫りになっていたことを、ただひた隠すことに全力を注いでいくことに疲れたのだろう。
真音は本心や情熱をさらけ出したりすることが得意ではなかった。何かこう、浅く薄っぺらな感覚が否めなく、さらけ出す様が人格のすべてを決定付けるものとして恐れてさえいた。真音自信、何もできないのに、自分には奥が深いものがあり、他人とは違った多才で高潔な部分があり、いつしかそれらがスポットライトを浴びるかのような錯覚さえ抱いていた。しかし、実際には自らが殻を作り殻に守られ、その殻で周囲との間に溝ができ、自分を表現することなくときが過ぎただけだった。「人生は一度きり」だなんて、とても恥ずかしくて口にできなかった。本当は、腹の底から叫びたかったはずなのに。「人生は一度きり。今この瞬間を大切にしよう」と。
人材派遣会社「万屋記念館」の噂は前から知っていた。怪しい会社で、かつての有名芸能人が内緒で登録して仕事をしているだとか、誕生日に登録すると優先的にセレブのパーティのサクラの仕事(しかも時給は3万円からで諸手当付き)が回ってくるのだとか、とにかく若い世代の他愛無い話には格好のネタであった。実際、真音の1年先輩の男子大学生がここを通じて「空き缶からDNAサンプルを採取するような仕事」をし、ルクセンブルクだったかベルギーだったか、とにかくヨーロッパへ行ったきり大学へは来なくなったなどと言う噂が、かなり現実的な趣で語り継がれていたことがあった。まあ、一言で言って「関わってはいけない会社」。真音たちは、興味と理性を互いにけん制しながら噂に夢中になっていたものだった。
携帯電話のウイルスがニュースになって月日が経ち、誰もが危機感に麻痺を生じ始めたころ、真音の携帯電話にもその画面は現れた。
『充電が残り15%になりました。充電のバックエンディスパッションを行う場合は下の画面操作に従ってください。通信料は無料です。』
(バックエンディスパッション?何これ、日本お得意の造語?それにしても何の意味?)
真音は、専門学校からの帰り道、商店街の向こうの駅へ向かいながらなんとなくそれを目にしていた。真音は普通に押してしまった。まさに自転車とすれ違いざまに、何か漠然としたものに包まれながら。それこそ、午後の講義の「職種によるストレスと現場グラフ化による四捨五入採用の決定ライン」の要点が分かりにくくて未だに頭の中で消化不良を起こしていたからかもしれない。必然的に、何も考えずに押していた。
それが、真音にとって一度きりしかない人生の、運命の瞬間だった。