魂開放ですか?
リーシャと話すうちに、ソラは心にあった、黒い塊に似たどんよりとした気持ちが、嘘みたいに晴れていくのを感じた。
手を握りあって、名前を貰った。たったそれだけの出来事が、ソラにとって大切なモノだった。
「ソラはどうしてココに居たかも、覚えてないんですよね?」
「うん。気づいたら川岸に居て、記憶無くなってて……」
まさか、川から流れてきたのだろうか?と、考えて否定する。目覚めたとき、衣服は完全に濡れてなどいなかったのだ。
「うーん、あっ!!」
何か閃いたのか、リーシャは肩からぶら下げていたカバンを漁る。
「これは覚えていますか?」
リーシャの手のひらに、真っ赤なリンゴが一つ。とても美味しそうなそれは、ソラの空腹感を掻き立て、グーっと、だらしない音を響かせた。
「良かったらどうぞ」
差し出されたリンゴを、遠慮なく受け取り、服の袖でゴシゴシ磨いて、ガブリと噛み付いた。口に広がる甘く、酸っぱい味は、自然とソラの顔に、笑顔を与える。
一連のソラの動作を、リーシャは訝しげに見つめ、客観的な意見を零す。
「リンゴは分かる。食べ方も間違ってない。もしかしたら、自分の事が分からないだけで、知識や常識は覚えているのかも知れませんね」
最もな意見にソラは、口に含んだリンゴを、ゴクリと飲み込み、納得した。
どうして、森に魔物がいるかも知れないと思ったか、リンゴを認識し食べたのか。言うまでもなく、リーシャの意見が正しいのだ。
「そうだね、うん。そうみたいだよ」
まだ少ししかない記憶に意識を集中させる。そこには、様々な知識があり、世間の常識が存在いていた。
(なんだ……、全部忘れた訳じゃ無かったんだ)
「少しだけ、安心できますね」
ソラの気持ちを察したリーシャは、自分の事みたいに喜んでいた。記憶が無い、それは絶望に近い事に、何ら変わりはないけれど、少しだけほんの少しの、蓄積されていた知識と常識は、確かにソラを喜ばせていた。大げさに言うなら、これまで生きてきた積み重ね。過去のないソラには、それぐらい大事な記憶だった。
すっかり日は暮れ、木々の間からオレンジ色が、煌びやかに二人を照らし出していた。
「帰らなくていいの?」
話の中で分かったこと。リーシャがこの国――オルビス王国の大事な、一人娘だという事。つまりは、王女様なのだ。
そんな高貴な人が、なぜこんな森に一人で居たのか。ソラが、呆れながら尋ねると、返って来た答えは『迷子』の、一言だった。
「帰りたいのですが、わたしも道がわかりません……」
「はは、仕方ないよ。こんな森なんだし」
迷子が二人、力を合わせたところで、所詮は迷子。うな垂れる二人は、大きめな木にもたれ掛かり、ため息を吐いていた。
「ねぇ、オルビス国って、どんな場所なの?」
「平和な国ですよ」
凛とした表情に、澄んだ声。短い言葉とは裏腹に、ソラはオルビス国が、愛されているんだと知った。リーシャも、心から愛しているのだと。
「ソラさえよければ、案内しますよ」
「うん、ありがとう。でも、早く帰らなきゃ、だよね」
互いにクスクスと笑いあい、当ても無く歩き始める。一人なら心細い知らない道が、二人なら楽しさに変わる。
例えるならば、小さな子供が探検をしているみたい。そんな気分に似ているのかも知れない。
歩いても歩いても出口はやってこないまま、オレンジ色に染まった森は、いつしか星の瞬きと月明かりに照らし出されていた。
時折、強い風が吹き、葉を揺らす度に、リーシャは肩を強張らせ、ソラに抱きついた。
「怖いなら、手でも繋ぐ?」余裕綽々のソラに、絶対離すもんか!と右腕を掴み、ソラを引きずるように、リーシャは歩く。
まるで、怖がっているのはソラの方ではないか。そう感じてしまうのは、リーシャの幼さに残る、子供っぽさが、僅かながらに、現れているせいだった。
引きずられるがまま、ソラは半歩先を行くリーシャを、苦笑混じりに見つめていた。
(……可愛いなー、って何だ……これ?)
強い風が吹いた直後、寒さとは違う、何かがソラの背筋を凍らせた。
「リーシャ、ちょっと待って」
呼び止められたリーシャは、腕を強く握りすぎてしっまったかと後悔するが、すぐに杞憂だったと悟る。
(心臓がドクドクする。何なのこの感じ……)
立ち止まり、目線をあちこちに向けるソラ。その額には、薄っすら汗が滲み始める。
「ソラ、大丈夫ですか?」
心配そうなリーシャは、ソラの感じる悪寒には、気づいていないようだった。
刹那、風は止み静けさが二人を包んだ。
「……っ!?リーシャ、こっち!!」
静けさと同時に、ソラはリーシャを抱き寄せ、近くの茂みに飛び込んだ。状況が理解できないリーシャは、声を上げ問おうとする。が、口元は手で塞がれていて、一言も発せられずにいた。
けれど、口元を塞ぐソラの右手は小刻みに震え、先ほどとは、比べ物にならないくらい、汗が全身に滲んでいた。
怖い、逃げたい、泣きたい。いろんな気持ちが、ソラの心をかき乱す。だが、何一つとして、実行される事はなく、さっきまで立って場所から、目を逸らせずにいた。
(あれが、魔物なの……?)
百七十ほどの背丈。顔だけみれば魚なのに、その図体は黒く、伸びる手足だけが真っ白と、明らかに人外の生物がソコに、存在していた。
昼にも魔物がいる、なんて暢気に考え、あまつさえリーシャと魔物を勘違いして、突っ込んでいった威勢のよさは、本物を前にして、馬鹿げた考えだったとソラは思い知らされた。
(震えるなっ!早く、早くどっか行ってよ!)
神に祈るか如く、心で何度も唱えるソラ。リーシャはその様子――目と鼻の先に現れた魔物を、ただ呆然と見つめ、夢なら早く覚めて下さいと、両目から涙を零していた。
「フシュー、グァァァァァ!!!!」
リーシャの涙がソラの手を濡らした。その時、魔物は醜い叫びをあげて、ゆっくり、一歩ずつ近づいてきた。
(逃げなきゃっ……!)
頭では分かりきっているのに、ソラの足は動いてはくれない。
もし、襲ってきたのが人間であるならば、情けをかけ見逃すかも知れない。そう、人間で『魔物』ではなかったら。
一メートル先までやって来た魔物。
ソラは覚悟した。自らの命がココで尽きてしまうのを。
(走馬灯すら見れないや……)
思い出す記憶が存在しない、あるとするならば、たった一つ。
「っ!!リーシャ、逃げて!!」
今まで抱きかかえていたリーシャのことだけ。
「ソ、ラ……」
震える足を無理やり立たせ、リーシャを背に隠すように、魔物と相対する。
(記憶もないし、帰る場所もない。だったら……)
「リーシャ、ありがとう」
振り返ることなく言葉を残し、ソラは走り出す。一直線に魔物に向かって。
「シャァァァァー!!!」
魔物が鋭く尖った爪を、ソラに振り下ろす。
弱者なりの精一杯の足掻き。ソラは一秒でも長く生き延びて、リーシャを護ろう、せめて逃げるだけの時間稼ぎを。命をかけて足掻きを決意した。
魔物の爪が眼前にまで迫り――パリン……、グラスが割れるような音が響いた。
肉体を抉られた痛みも無ければ感触も無い。ソラは恐る恐る目を開けて、不意に耳元を揺らす声に背中を仰け反った。
魔物の声だったからではなく。後ろに置いてきたはずの、リーシャのモノだったからだ。
「――――我が名において、魂の開放を命じる」
ソラは魔物の存在を忘れ、リーシャに魅入られた。
「――――ライトライン」
リーシャの言葉と同時、魔物との間に光の壁が立ちはだかった。
「リー、シャ?」
ソラは目を疑う。何せ魔物が、光の壁を叩き壊そうと、幾度も爪をぶつけるが、跳ね返してしまい、こちらと完全に隔離したのだ。
「っく!!あまり、長くは持ちません……!!」
意味は聞かなくても、ソラにも伝わった。恐らくこの結界――ライトラインは、リーシャの精一杯の足掻きなんだろう。
ソラが命をかけて、魔物に立ちはだかったように。
「リーシャ、でも……」
「ソラがわたしを助けたいと、思う気持ちがあるのと一緒です。ソラを置いて、逃げるなんて出来ません!!」
揺らぐことの無いリーシャの気持ちに、ソラは胸に湧き上がる、形容し難い躍動を感じた。
尚も結界を壊そうと、攻撃を繰り返す魔物。耐えるリーシャ。
ソラは、躍動を、この胸に収まりきらない程の、有り余る高揚感を、言葉に変えた。
(どうして忘れてたんだろう)
怯えきっていた自分は、もう居ない。ソラは自身に言い聞かせ、忘れていた知識を、『魔法』を呼び起こす。
「――――我が名において、魂の開放を命じる」
ソラの周囲に、真っ赤な炎が燃え盛る。
「――――悪意ある物に、灼熱の炎を――――――っ!!」
それが引き金になったのか、周囲を取り巻いていた炎が、結界を突き抜け魔物に襲い掛かる。
轟音を上げ、燃え盛る炎。魔物は痛みを感じる時間さえ、与えては貰えず、全身が焼かれ、灰となる。
呆気ない終わりだ。あれだけ怯えていてのに、魔物は灰になり、風に吹かれ姿を消してしまったのだから。
「……はは、終わった、終わったんだ。……リー、シャ助かっ……」
いい終わる前に、ソラはその場で膝を折り、意識を無くした。
「ソラ!!」と、抱きかかえながら、リーシャが顔を窺がうと、さっきまでの緊迫した空気が、嘘だったんじゃないか。と疑いたくなるほどの、あどけない寝顔があった。
「ふふ、ソラありがとう」
リーシャは、寝顔に手を添えたまま、慈しみの表情を向けた。
「でも、あれは一体……?」
ソラが魂を開放したときに、背中に浮かび上がった魔方陣。
考えようとする思考とは別に、リーシャにも睡魔がやって来る。魂を開放し、限界まで消費したんだ。身体が休息を求めるのは道理だった。
リーシャは逆らえない睡魔に瞼を閉じた。
時を同じくして、そんな二人の様子を、水晶越しに見ていた女がいた。
「思ったよりも、早かったわね」
満足そうな、悦に浸った笑みは、妖艶さと狂気を孕んでいた。
「さぁ、早く叶えてちょうだい。フハハハハハハっっ!!!」
下賤な笑い声が、光を持たない、真っ暗な部屋に響きわたる。
魔法の詳細などは、次回作中にて明かします。