魔物ですか?
少女が目を覚ますと、視界に広がったのは、透き通る青だった。こめかみを抉られるような痛みに顔を歪ませながら、力の入らない身体を起こす。
「ここ何処?……頭痛いし、何なの一体」
状況を飲み込めない少女は、そこでようやく気づく。目が覚める前の記憶が、ゴッソリ抜けていることに。名前も分からない、住んでいた場所、親の顔、友人のことも全て。
「嘘でしょ……、何で?」
記憶喪失、少女の頭に過ぎる言葉は、あまりにも受け止めがたい真実だった。
流れ落ちそうな涙を、両手で拭い、なんとか立ち上がる少女は、周りを見渡して、目の前を緩やかに流れる川に足を運ぶ。
「ふー、どうしよう」
川も水を掬い顔を洗う。ぼやけていいた思考が、徐徐にはっきりしていく中で、これからの事を考える。記憶がないにも関らず、やけに達観している少女は、自分でも可笑しく感じていたのか、クスクスと笑い声を漏らす。
「あー、わたしって、もしかして馬鹿なのかな」
記憶が無いのに、何とかなると思っている辺り、少女は馬鹿何だろうが、それを言う者は誰も居ない。周りには、川と森だけがあり、頭上には青い空。
「とりあえず、誰か居ないか探さないと駄目だよね」と、少女は森に向かう。
道も分からない、食べ物、喉を潤す水も無く、容赦なく照りつける太陽が、刻々と少女の体力を奪っていく。引きずる足は段々言うことを聞かなくなり、歩くこと一時間。ついに少女の動きを止めて、その場にうずくまる。
「疲れた……、喉渇いた。お腹減った、暑い」
文句を口から零しては、ため息を吐く。喋るだけで、体力が阻害されていく状況は、精神的にも少女を追い詰めていく。
「誰か居ませんかー!!」
これが最後の力だと、言わんばかりに叫び、大の字になり地面に横たわる。
すると、背後から草木を掻き分けるような音が聞こえた。少女は起き上がり、背後に目を凝らして、後ずさる。よくよく考えたらここは森だ。魔物の一匹や二匹、居ても不思議じゃない。眠っていた魔物が、少女の叫びで目を覚まし、睡眠を妨げられた腹いせに、やって来たと考えても、これっぽっちもおかしくないじゃないか。
少女は一人、パニックになりながら、手短の木の枝を掴み構える。こんな棒切れが身を護ってくれるはずもないのに、強く握り締め前を見つめる。
「だ、誰?」
今だ草木を掻き分ける音が耳を揺らす。近づいてくる音に、幾度も身体を震わせて、幾度も棒切れを落としかけて。
やがて音は止み、少女は残り少ない体力を、惜しむことなく全身に走らせて
「いやーーーーー!!!」
と、叫びにもならない、声を上げて突っ込んだのだった。
(どうせ死ぬなら、一撃だけでもっ!!)
意気込んで振り上げた棒切れは、長い時間の緊張からの汗か、はたまた力みすぎたせいなのか、勢いよく振り上げたと同時に、すっぽ抜けていく。
「へ……?」
手を開き、また閉じる。そこにあったはずの感触が無くなっている。頭上に位置する手を凝視して、いいや何かの間違いだと、自分に言い聞かせて、再度手を見つめる。
「やっぱり無いじゃん!!何で、なんで無いの!?」
「あのー、大丈夫ですか?」
「持っていたはずの木の枝が消えるなんて……、まさか魔物の仕業?」
「すいません、聞いてますか?」
「そうだ、そうに違いない。魔物じゃなきゃ、私の手には木の枝が、存在しているはずだもの」
少女は我を忘れて、口早に言葉を発して恐怖した。獲物を持たない少女は、端的に言うなら、無防備だ。こんな格好の餌を、見逃すはすがない。
「本当に、大丈夫ですか?」
少女は覚悟を決めて目を閉じる。これが普通の人であるならば、走馬灯でも見るのかな?と、最後まで、馬鹿みたいなことを考えて。
五分くらい経った頃。いつまでもやってこない痛みに、少女はゆっくりと、怯えながら目を開けた。
「……あれ?魔物は?」
「魔物なんて、最初から居ませんよ」
少女が見たのは、凶悪な姿をした魔物ではなく、金色の髪を靡かせ、にこやかに微笑む、少女の姿だった。
「人間?」と、間抜けな声で尋ねる少女は、金色の髪を持つ少女に、無造作に抱きついた。
「えっ、あ、あのどうしました?」
「会いたかったよー」
訳がわからないままに、抱きつかれ泣きつかれた、金色の髪の少女は、落ち着かせる為に少女の背中に腕を回し、優しく抱きしめる。
第三者から見れば、愛を語らう抱擁に感じるだろう。けれど、本人達からしてみたら、ただの安らぎを求める抱擁でしかなかった。
(なんだか、変な人に出会いましたね)
背中を撫で、口元を綻ばせた金色の少女は、一人ごちたのだった。
「いきなり、すいませんでした」
「いえ、こちらこそ。びっくりさせてしまってすいません」
ようやく泣き止み、落ち着いた少女は、初めて目の前の少女を認識した。
(うわぁ、綺麗な子)
金色の髪だけが美しいのではなく、絹のような白い肌、幼さを残した、はっきりとした顔立ち。そのどれもが、目を奪う美しさだった。
「どうかしましたか?」
どうやら見惚れていたみたいだ。少女は首を横に振り、何でもないと、視線を逸らす。
「……?そうですか。わたしの名前は、リーシャ・オルビスと言います。貴方の名前を教えて貰っても、よろしいですか?」
「あ、名前……えっと、その……」
リーシャと名乗った少女。それに答えようと、口を開くが言葉が続かない。
「名乗りたくありませんか?」
しょんぼり眉毛を、ハの字に下げたリーシャに、少女は慌て出す。
「ち、違うよ!そうじゃなくて、覚えてないの。名前も住んでた場所も全部、覚えてなくって」
少女の言葉は、リーシャを驚愕させただけではなく、自身にもチクリと、鈍い痛みを胸に突き刺さした。結局のところ少女は、記憶を無くした事実を、誰かに話すことによって、はっきりと自覚したのだ。
それは、現実逃避に近いモノだったのかも知れないが、少女には分からない。無意識に受け入れを拒否した事実が、強制的に受け入れなきゃいけない、今となっては考えるだけ、無駄なことだった。
「記憶喪失みたいなんだよね。だから名前は教えたいけど、ごめんね」
「謝らないでください」
リーシャは、少女の悲痛な面持ちを見て、胸が締め付けられるような、そんな苦しみを感じた。
「なら……、ソラはどうでしょうか?」
「ソラ?って名前のこと?」
「はい、貴方の瞳、綺麗な青をしているので。それに、こんな美しい青空の下で、出会えたんですから」
両手を晴天の霹靂に掲げたリーシャは、少し恥ずかしかったのか、頬を薄っすら紅色に染めていた。
一方、もう一人の少女は、促されたかのように、視線を空に向けて、大きく息を吸う。
「うん、ありがとう、リーシャ」
少女はリーシャに笑顔を向けて、右手を差し出した。
「わたしの名前はソラ。よろしくね!」
誇り高く、一切の迷いなく宣言した自身の名前に、リーシャも花が綻ぶよりも、綺麗な笑みを添えて、差し出された右手に、手を重ねたのだった。