二話
最愛の妻を見つめ、儂は命を下した。
「……すまない、リリィ。荷を運び出せっ」
怯え、後ずさる黒髪の女性。一見した者にはその幼い容姿から彼女が実は成人していて、しかも既婚者だとは信じられまい。
そう……世界でも貴重な、黒を身に宿す彼女は
「ノールブルグ副団長、失礼なことをお聞きしますが……」
その時、儂の部下で数少ない医療術者のナーズ・トロアーが聞きずらそうに緑の瞳を伏せて問いかけてきた。
「構わん、続けろ」
聞かれるだろう質問にはすでに見当がついていた。と言うよりも、聞かれなくては逆におかしいだろうこの状況ゆえに儂は構わず続けるよう促し。
「……奥方はなぜ、夫である副団長を見てなお、あのように怯えられていらっしゃるので御座いましょう?」
「うむ。分からんの。検討もつかん」
そう簡潔に返事を返した。
問いかけを受けるだろうと、検討はついていても儂は彼女の嫌がるような、況してや逃げ出したくなるような環境においた覚えはない。毎日を仲睦まじく過ごし、使用人にも日々祝福され、夫婦生活は順風満帆であったはず。
ゆえに……涙の理由などは、儂が聞きたい。
リリィは、二年半前に奴隷商の穴倉を一斉包囲し摘発した際に初めて出会った。彼女は奴隷商に捕まり、長い間牢に転がされていたらしく衰弱も激しかったようで、初め王国医術院で保護されるはずが、なぜか彼女を助け抱き上げたままだった儂の服を握りしめて離さなかったため……儂の屋敷へと運び込まれた。そして定期的に王国お墨付きの医療術者が屋敷へと彼女の様子を診に足を運んでいたのだが、その容姿から以前の大戦で被害にあい絶滅したと噂されていた国境に集落を置く少数民族……黒の一族の生き残りだろうと断定され、以来王国保護指定され、国より多大な援助を受けている。
心身の疲労により深い眠りについていた彼女が目を覚ましたその時、儂等は一族の絶滅から数年の時をどう生きていたのか、少しずつでも何かを聞ければと思っていた。しかし、目が覚めた彼女は言葉を無くし、ただ身体を生かすと言う意味でだけ食事をし、風呂へ入り、深く眠った。
儂は、王宮騎士団副団長と言う重責故日々忙しく、彼女に目を向ける時間を取ろうともせずに半年が過ぎた。そして半年経ち仕事もやっと落ち着いてきた冬頃の事だったか。彼女の世話を任せていたはずのメイドたちから、彼女は保護されてから一度も笑顔を見せないのだと相談を受け。その相談をふむふむ、と大人しく聞いていた儂は最終的に何がいけなかったのか……旦那様は一度も見舞いにすら訪れずお可哀想だとはお思いになられぬのですかっ?!これではまだ年若い彼女があまりにも不憫すぎます!!と抗議まがいの説教まで受けてしまった。
……そうだ、それで儂は彼女の部屋まで出向き、何の反応も示さない彼女の能面のような表情を前に語りかけ続けた。時には幼児用の絵本を読み聞かせ、時には儂の若い頃の失敗談を、そして、いかにメイドたちが彼女を心配しているのか。
そうして二月が過ぎ、半年が過ぎ、一年が過ぎた頃……話す事が出来なかった彼女が少しずつ変わっていった。可愛らしく微笑むようになり、二人、馬で遠乗りにも出かけるまでに回復し、自然彼女との距離は縮まり、儂はこの年になって初めて宝石店で女性物の小さな指輪を買った。そして、結果……年甲斐もなく婚姻まで至ったと言うわけだ。
まぁ、リリィは儂の腰ほどしか身長もなく、夫婦として見られることもなかなか難しいが、今となっては惚気る良い話のネタだ。
「リリィ、いったい何があったと言うのだ。どうして勝手に屋敷を出て行った?」
震え、壁際のベットの端まで後退り顔を伏せ、長く艶やかな髪が愛らしい顔を隠す彼女の傍へ膝をつき、優しく声をかける。
「こ、わい……いや」
未だ片言の単語しか口にすることが出来ない彼女は小さな赤い唇を震わせて、小鳥のようにか細い声で何かに怯えているのだと儂へ告げた。
「怖い、か。ふむ……リリィ、わしはだれだ?」
彼女が屋敷を飛び出す前は、言葉遊びの様に良く口にしたものだ。
「わ、しは、だれ?わ、しは、りりぃのすきなひと」
たどたどしく、あの頃の様に言葉をなぞり問いを返す彼女に、安心するよう大げさに微笑み
「そうだ!儂はリリィの好いた男だ。儂ほど強い男はどこを探そうともそうはおらんぞ?何を不安がるのだ?」
声を張り、両腕を広げ、儂の瞳はまっすぐよそ見をせずに彼女を見つめ。
「す、きな……ひと」
リリィは儂の張られた声にびくり、と顔を上げ、そして甘い声で儂を見つめそう言葉を零した。
「帰ろう、儂等の家へ」
「い、え……にっ?」
何もかもがつたない彼女。
言葉を聞き、理解し、答えを出すにも時間のかかるリリィがころりころりと言葉を舌の上で転がしている様子を見て、儂は彼女が返事を告げる前にその小さな体を大きなシーツへ包み抱き上げた。
「ナーズ、すまないが後は頼む」
一部始終を見ていた部下のナーズはひとつため息を吐くと、軽くこめかみを抑えながらこう答えた。
「……今日付き合わされた全員を後日酒場へ連れて行くとお約束頂けるのなら」
その答えに儂はリリィを抱いた反対の手でその整えられた髪をぐしゃぐしゃと荒らし
「ちょ、ふくだんちょ!?」
ナーズの悲鳴を聞きながら、静かに妻の隠れ家を後にした。
「……ふんっ」
まったく、しっかりしとるわい。
まぁ、行方不明になった少数民族の生き残り、しかも王宮騎士団副団長の奥方の肩書を持つリリィを捜索すると言う大義名分を掲げていても、最終的は夫婦喧嘩に巻き込まれたような形になってしまったしな。部下に奢るのも上官の務めだ、致し方ないとするか。
25.8.25 手直ししました。