十二話
*****ドーラ・キルシュ・ノールブルク
何を悩んでいるのかは知らないが、眉間に皺を寄せ随分と難しい顔をしたまま、リリィは目の前の食事に手を伸ばすそぶりさえ見せず……どれほどの時間が経過したのか。
かちゃかちゃと食器の擦れる音だけが響く食堂内。
ドーラは妻であるリリィと向かい合い、かなり遅くなってしまっ朝食兼昼食を共にしていた。
「……」
ふむ、儂の愛すべき妻は一体何を思い悩んでおるのだろう?
先ほどから、料理長が彼女の為に用意したと言っても過言ではない普段よりも色の多い料理の数々が一つ、また一つ、と上がっていた湯気を視界から消し始めても、まだ彼女は俯く顔を上げようとはしない。
「奥方様、おはようございます。遅ればせながら昨日のご無事のご帰還をお祝い申し上げます」
使用人たちも心配げにリリィへと視線を向ける中、唯一彼女へと声をかけたのは……我が屋敷自慢の腕を持つ料理長ゴンゴレス・レスレトであった。
この男、以前はより多くの料理を学ぶため研究の旅をしており、十年ほど前には黒の一族のもとへも貴重な民族料理を学ぶため足を運んだことがあると言うので……リリィの為雇用を結んだ。しかし、屋敷には儂の時代からいる使用人ばかりだったため……殆ど家から出ないリリィには料理長ほどの若い男は物珍しいのか、気が付けば距離が縮まっているような気もしないでもない。
「あ、ごん……あり、がと?」
そうだ!リリィは儂含め使用人の名は、呼びやすいように愛称をつけ呼んでいるようなのだが……料理長とは違い昼間は仕事でいないことも多い儂は最近、様々な事柄へ気を向けてしまい悩ましい限りだ。
「いいえ、感謝の言葉など必要ありません。俺は奥方様に帰って来て頂けただけで十分でございます」
儂がこうして悩んでいる時間も、料理長は彼女の隣へ滑り出ながら親交を深めておるようじゃしの……。
「しかし、いつもは俺の作った料理を幸せそうに食べて下さると言うのに……今朝はやはり体調が崩れませんか?先ほどからあまり食が進んでいらっしゃらないご様子ですか」
まぁ、言っていることはこの場に折る全ての者が思っている疑問なので黙っておる方が良いじゃろう。
「……あぁ、そうでした。おくがたさま……なにか、なやみごとでも?」
「な、やみごと……?んぅっと」
するとリリィは、ちらりちらりと料理長と儂を交互に見やりながら己の柔らかな腹をさすり始めるではないか。
「……はらぐわいでも、わるいのかの?」
もしや何かの病なのか?とその体調について問いかけるも、彼女は首を振るばかり……うむ、どうしたと言うのじゃろうか?
「ふぅむ……そうか」
「ではおなかがいっぱいなのでしょうか」
料理長やメイドたちも心配そうに彼女へ問うがやはり違う。
「「もしや、あれでは?」」
あれ……と言えばあれじゃろうが、昨夜はそんなそぶりもなかったしのう。
「うぅん?……ゆゆ?」
リリィは言葉が伝わらず、儂等は彼女の考えをくみ取ることが出来ずにお互いが困惑してしまう。しかし、暫く悩んでいたリリィは不意に彼女付きのメイドであるユーユを呼んだ。
「っはい!!」
一方、呼ばれた方へ視線を向ければ……ユーユは何故かシャンデリアを眺めていたようで、突然声をかけられ慌てて返事をしたせいか声も大きく、隣にいたマリアンなど目を細めこめかみを引くつかせておった。
「ゆゆ、ぽんぽ」
全く、この調子ではマリアンへ新人教育のマニュアルを書き直させねばならぬかもしれんなぁ、などと自らのこめかみを揉みほぐしていれば……リリィは待ちきれなかったのか、いまだよたよたと彼女へ向かい移動中のユーユへ向け両手を広げつつそう呟いた。
「あ、はい。ええっと!お勉強表ですね!?」
両手を差し出されたユーユは焦るあまり……支給品であるメイドのポケットから何やら紙くずや布切れを落とし始めた……。
日々屋敷で暮らし皆を見ていれば、使用人の質自体は下がっているわけではないのだがのぅ……ではこのユーユだけがこうなのか?
「ユーユ・ケードリン、貴方はメイドのポケットを何と思っているのですか?先ほどから出てくるのは丸められた紙や良く分からない布の切れ端。いつも身支度はしっかりするように言い聞かせて」
「……マリアン、その辺にしておけ」
……儂も、口ではこうしてマリアンを止めてはいるが、実際このようなやり取りでその怒りが収まるなどとは思ってはいない。
今現在、使用人の主人である儂とリリィおることで何とか平静を保ってはいるが、食堂から出て行けばマリアンの怒りの矛先は間違いなくユーユだろう……しかし時間の経過が長いほど周囲へ飛び火するのも長く務める者ほど、良ぅく知ることになる皆の周知の話でもある。
「……ゆゆ?」
「はい!!今すぐ!!」
休みの日くらい、リリィと二人のんびりと過ごしたいものじゃの。いっその事私室へ閉じ込めてしまえたら……とほんの少しの本心を自らの瞳へ宿らせ、最愛の彼女を見やれば。
「……」
彼女は己が悩んでいた理由が、今朝は話をしたばかりの赤ん坊の事についてだと……一生懸命に人体図やらを指さし知らせてくれた。
「……」
皆はもしや懐妊か?とほんの少しの喜びとほんの少しの疑いを眼差しへ添えて儂へ視線を向けた。
しかし、儂には分かっている。
「リリィ、儂が子を産んでくれと頼んだからじゃな……」
だから、その言葉を気にして……悩んでいたのか。なんと優しく、健気な妻じゃろうか?全く儂にはもったいない女子じゃのう。
「……どぉら」
そんなことを考えながら、儂の名を呟く彼女と見つめあい。
未来を想った……