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鹿鳴館で会いましょう

作者: 嚙草
掲載日:2026/10/07

暮れて間もない内幸町のゆるい坂を登ると、急に辺りがポウと明るくなるのにお気付きでしょうか。石畳の道は両脇にガス灯が行儀良く並び、あたりは黄色く照らされています。秋の陽はみるみる落ちて、帝都の空には早くも夜が訪れています。しかしごらんなさい。坂の上には、昼とも、もちろん夜とも違う、なんともあでやかな明るい世界が広がっているのです。そこには胸をときめかせた貴賓を乗せた馬車がひっきりなしに通り、パーティの最初のセレナーデに間に合うよう、口々に御者を急かしています。皆々がいそいそと目指す先、それこそが、夜空を背景にひときわ輝く、鹿鳴の白亜の館なのです。


今宵、館の門は、パーティの客を迎えるために大きく開かれています。しかしその前ときたら、案内を待ちきれない招待客と馬車でごったがえし、かんかんがくがく、さながら深川八幡のお祭りのようです。こんな光景に、あなたはもしかすると、少し不安になるかもしれません。でもご心配は無用です。あなたは特別な招待状をお持ちですから、それを燕尾の案内人にチラリと見せるだけで、悠々と館の正面の樫の大扉をくぐることができるのです。それから迎賓の赤い絨毯が敷かれた幅広い階段を登り、目の前の白塗りの扉が開かれると、


湧き出る歓声と熱気が、一瞬であなたの心を捕らえ、虜にすることでしょう。


ようこそ、今宵のダンスパーティへ。お待ちしておりました。


***


タキシードにドレス。豪奢な衣装に身を包んだ男女の姿は大勢あるのに、シャンデリヤの輝く下は、もうずいぶん前から、一組の男女しか踊っていないのだった。


ターン! 

ステップ、ステップ、

そしてまたターン!


軽やかな六重奏に乗せて、二人はくるくると華麗に回る。目を凝らせば、女性のヒールはいかにも細く、ともすれば足を痛めてしまいそう。しかし男性の、さりげなくしかし力強いエスコートに身をゆだね、女性はまた、白いスカートを可憐にひるがえし、くるりくるりと回るのだ。


ごらん、あのお嬢さんを! あんなに顔を赤くして、なんとまあ可愛いこと!


ブロンドよりも少し濃い色をした豊かな波打つ髪は、踊りやすいようにゆるく一つにまとめられている。それが彼女の端正な白い顔をよく引き立てていて、その顔といえば、ふとしたことでほんのりとバラ色に染まるのだった。


しかし、パートナーもすばらしいね! なんとも凛凛しく、どこか威厳があるようだ。


心持ち短めにそろえ整えられた髪型は、彼の硬質な髪のせいで、毛先を無造作にあちらこちらへと跳ね上げている。しかしむしろその一種乱暴な感じが、ピシリと着こなされたタキシードの上品さと相まって、彼の精悍な気質をよくあらわしているのだった。


あのお嬢さんですか? ああ、あの方は、ラインウェーバー公爵のお嬢さんですよ。道理でたいそう品があるね。で、彼は? あの方は桂川のご子息。おお、彼があの。なるほど、よくお似合いの二人なわけだ。それでは今宵が彼の最後の独身の夜になるかもしれないね。まあ、それはどうでしょう? おや、やっかんでいるのかい。いいえ、ですがそれは、私だけの気持ちではないですわ。おやおや、男子たるもの、かくありたいね。あらあらあなたこそ、やっかんでいらっしゃる。


***


息を弾ませた二人は、火照った体に夜風を少し当てようと、テラスに出る。マリイはもうひと時も麟太郎の手を離さずにいて、手すりに寄りかかると秋の夜の涼しさに顔をほころばせた。


「ああ、リンはとてもお上手」


「いえ、マリイさんこそ」


今宵がはじめての二人なのだが、マリイは出会いの興奮を隠そうともしない。


わたくし、サムライというものを誤解しておりました。一人勝手に、粗野で武骨な男性がいらっしゃると思っていたのですが、こんな立派で男らしい方に来ていただけるなんて、まるで夢のようです。


父と亜細亜の諸国を巡る旅も、もう飽き飽きしてしまって。


いくら政治のため、国のためとはいえ、そろそろ祖国のアカシアの木の香る風が懐かしくて、心がふさいでおりましたの。


でもその苦労も、今宵のリンとの出会いのためだったのですね。本当に運命に感謝したいんです、わたくし。


マリイはそう言うと、輝く緑の瞳をひたと麟太郎の黒い瞳に向け、握る手には一層の情熱を込める。


マリイの言葉は、無論彼女の国の言葉なのだが、麟太郎の返答もまた、日本の言葉ではないのだった。


「ところでマリイさん、喉は渇きませんか」


もう!


ぷうっとふくれるマリイの表情を見たのか見ないのか、麟太郎はホールの光で影になった給仕に手を上げる。


「お飲み物はいかがですか」とグラスを渡してきた細身の給仕。その顔を確かめて、


「(ぶっ?!)」危うく麟太郎は、マリイのための白ワインのグラスを落としそうになる。


「どうかなされました、お客様?」


「い、いや…」


(こ(・)の(・)は(・)?!今夜は給仕に変装する必要なんて全然ないのに?!)


麟太郎の内心の動揺も知らず、マリイは声をあげる。


「まあ、あなた女性なのね! かわいい給仕さんだこと!」


「ありがとうございます」


こ(・)の(・)は(・)は麟太郎にだけ分かるようにギッとにらむと、マリイににっこり微笑みかけて、「ごゆっくり」すたすたとその場をあとにする。


「では、乾杯しましょう」「え、ええ」


二人は空に浮かぶ月に見えるように、グラスを高く掲げる。


「二人の出会いに」「マリイさんのお国の益々の発展に」


ちん、という軽やかな音が聞こえて、遠くから見ていたこ(・)の(・)は(・)は、またむっとする。


そして「こら、ぼんやりせずに働け!」と、ベテラン給仕の肘鉄を食らう。


テラスの二人はグラスをゆっくりと乾すと、再びホールに戻る。期待の目がまた二人に集まり、輝くシャンデリアの下、人々の目を奪うダンスが始まるのだった。


***


にわかに宴壇の方が騒がしくなって、ドレスの貴婦人達も、タキシードの紳士達も、一斉にそちらの方を見る。抱えるような大きさの樽を給仕二人が腰高の台に載せると、いったい何が始まるのだろうかという来賓たちの期待で、ホールの熱気は大きく膨らんだ。すると白髪の給仕長が晴れやかに胸を張り、高らかに告げるのだ。


みなさま、けさがた横浜の港に届いたばかりの、仏蘭西の上等なブランデイを、ぜひお試しください!


言葉に続いて、樽に取り付けられた栓がひねられる。すると艶めいた琥珀色の輝きがこぼれだすようにグラスに注がれて、それから少し遅れてフワッと、甘い芳醇な香りがホールに広がった。


さあどうぞ、さあお試しください、慌てないで、十分ご用意しておりますよ、さあどうぞ。


まあよい香り!とマリイの表情が華やいで、麟太郎はトレイにグラスを乗せた若い男性給仕に声をかけた。


「どうぞお試しください」


落ち着いた柔らかな物腰の給仕から、麟太郎はグラスを受け取る。給仕は微笑むと、マリイにも勧める。


「どうぞ、お嬢様も」


「まあありがとう、楽しみですわ」


深いグラスを細い指先でつまむように持つと、待ちきれないように朝摘みのチェリーのような唇を寄せる。すると。


すい、と麟太郎が手を伸ばし、優しく、しかしきっぱりと、グラスを持つマリイの右手を掴むのだ。


いきなりのことに、マリイの白い肌がさっと赤く色づく。「まあ突然どうしたの、リン」


麟太郎はマリイのグラスを受け取ると、シャンデリヤの明かりで確かめる。そして、「給仕君、彼女のグラスの中身は、なぜ他と色が違うのかい?」と聞いた。若い給仕はその言葉が聞こえなかったのか、軽く会釈をして下がろうとする。


「ちょっと待ちたまえ」


そう言って麟太郎がその肩に手をやると、


しゅらっ。


軽く振られた給仕の手が、肩にかけられた麟太郎の手を撫でるように払う。かすかな衣擦れのような音。給仕の手が触れるよりわずかに早く、はっとした麟太郎は自らの手を引いていた。しかしその袖は、どうやったのだろうか、ぱらりと大きく切り裂かれていたのだ。


給仕の手に薄く鋭い金属のきらめきが見えたのは一瞬で、給仕はすばやく手を戻す。それから最前とは打って変わって、ひどく狡猾な表情でニタリと笑うと、するすると歩を進めて来賓の群れにまぎれた。


「リン!その袖!」


ようやく事態の異常に気がついて、マリイが声をあげる。しかしブランデイの香りに陶然とした来賓たちは、だれも異変に気がついていないのだ。


「怪我は?」


「いや、大丈夫です。それよりマリイさん、」


麟太郎はぐるりとホールを見渡し、マリイの父親であるラインウェーバー卿が主賓席で談笑しているのを認める。


「今宵はこれで失礼いたします。お父上の席はお分かりですか」


視線の隅で怪しい給仕が裏口の方に向かうのを捉えたまま、マリイに暇を告げる。


「またお会いしましょう」


そう言って一礼すると、ようやく掴んだ敵のしっぽを逃がすまいと、急ぎ給仕の後を追おうとする。すると。


腕を力強く掴まれた麟太郎が、はっとして振り返ると、そこには瞳をきらきらと輝かせたマリイ嬢がいるのだ。


「リン、わたくしもお供いたします」


事態は急変している。麟太郎の見込みどおりの相手ならば、正体を明かされた時点で、追及を免れるために容赦ない手段がこちらに向けられるだろう。


「マリイさん、これはあなたが思うようなロマンティックなものではないのです」


失礼のないようにやんわりと、掴まれた腕からマリイの手を離そうとする。しかし。


「リン、お分かり?」


マリイのいたずらな表情は、麟太郎に主導権を渡さないのだ。


「日本国が今、喉から手が出るくらい欲しがっている、シルベスタン公国との通商条約。私を袖にしますと、手に入らないかもしれませんことよ?」


「しかし、」


公国の重鎮であるラインウェーバー卿の愛娘、マリイゴールド嬢を危険にさらすことにためらいを覚える麟太郎に、マリイはだめ押しをする。


「いかに危険になっても、最後のサムライであるリンが、守ってくれるのでしょう?」


それに、今宵は最後まで相手を務める、そのような約束でしたでしょう?


ね、わたくしの願い、断れるはず、ございませんよね? そんな風に微笑む美しい女性を前にして、麟太郎はすばやく決断する。


「それではマリイさん、決して私から離れないように」


言うなりマリイの手を強く握ると、強引と思わせるぐらいの勢いで、マリイを連れて早足で歩き始めた。


前触れもなく主導権を奪い返されて、マリイは自分のものでなくなってしまったような激しい胸の高鳴りを麟太郎に悟られないように、桃色に染まった頬を無言で伏せる。


二人はすばやく、舶来の美酒の香りに高揚したホールを後にする。


***


二階から一階へ、そして広大な庭へ。麟太郎は迷いなく歩を進め、その間ひとときもマリイを離さない。日本国の美を列強に示さんがために作りこまれた和の庭園。そこは、中秋に近い月と、眠ることを知らない鹿鳴の館の窓明かりに照らされて、光は一層明るく、闇は一層暗い。明るみを選んで足早に進む二人は、怪しい人影が高い塀に設けられた裏戸を開けようとする瞬間に、何とか間に合った。


「おい君、」


麟太郎が給仕姿の背中に声をかけると、もはや人影は逃げもせず、くるりと振り返る。そしてあからさまに、手の中の薄く鋭いナイフを二人に向けた。


いまや給仕ではないと分かった怪しい賊は、ようやく聞こえるぐらいの低い声で笑う。その酷薄な表情に、マリイははっと身を硬くする。しかし麟太郎は揺るぎもせず、マリイを背にかばうと、賊に対峙する。


瞬間。


賊のナイフが翻り、麟太郎の伸ばした腕と交錯する。そして再び両者は距離を取って向かい合う。


「リン!」


「ご心配なく」その声は落ち着いている。すると。


ギイ、ときしむ音を立てて裏戸が開かれ、黒い布で顔を隠した不詳の輩が入ってくると、ナイフの賊の隣に立った。その手には鈍く光る棍棒が握られている。ナイフの賊がまた、低い声で不敵に笑った。2対1。新手の覆面が棍棒を麟太郎に向けると、ナイフの賊と呼吸を計った。そしてチラリとマリイを見る。その顔に浮かぶ目論見は、挟撃、そしてマリイの拉致。


じりり、と覆面が足場を固める。ナイフの賊の目が、すっと細められる。


来る。麟太郎は身構える。そして刹那、


どこからともなく飛来した細長い鋲が、覆面の賊の棍棒を握る手にあやまたず刺さると、覆面は短く叫んで棍棒を取り落とした。次の瞬間、黒い細身の影が走り寄ると、麟太郎の傍らに立った。


「このは、遅いぞ!」


「しょうがないだろう、厨房が立て込んでたんだよ!」


言うなりこ(・)の(・)は(・)は、抜く手も見せず、鋲を続けざまにナイフの賊に向かって放つ。しかし鋭く急所を狙い殺到する鋲を、賊はことごとくかわすのだ。「ちっ!」賊は予想を上回る手だれのようだった。


「このは、刀を」


聞いてこ(・)の(・)は(・)は、背中に背負っていた大刀を、すばやく麟太郎に投げる。麟太郎はそれを両手で受け止めると、すらり、すばやく抜き放つ。廃刀令という事実上の武士の解体を経てもなお、欧米列強に対峙する日本の国の心の拠り所として、サムライの志の継承を唯一許された桂川家。その当代がぴたりと正眼に構えた稀代の名刀備前長船は、月光を受けて、さえざえと白く輝くのだ。


右手を押さえて後退する覆面の賊。そしてこ(・)の(・)は(・)の背後にかばわれたマリイ。それを確かめると麟太郎は、ナイフの賊に向かい合う。そしてまた、瞬間の交錯。すると賊は、かがやくナイフを足元に取り落とした。


「リン!」


マリイの安堵する声。しかしそれはすぐに、賊が懐から抜き出した黒々と光る拳銃を見て、絶望の内に途絶えた。


「時代遅れの色男さんよ」


表情に余裕を取り戻した賊が、低い声でつぶやく。


「あんたがいくら、その長いやつを振り回そうが、こいつの前では形無しだな」


賊の構える銃身の長い拳銃が、麟太郎とマリイ、こ(・)の(・)は(・)の間をゆっくりと往復する。


「予定が変わったが、シルベスタンの嬢ちゃんをもらってゆくことで良しとするか」


聞いてマリイがはっと身を硬くするのが、だれの耳にも伝わった。


「忍びの姉ちゃん、死にたくなけりゃ、嬢ちゃんをこっちによこしな」


マリイはびくっとして、麟太郎とこ(・)の(・)は(・)の顔を交互に見る。しかし二人は少しも緊張を解かず、まるで何かを待つかのように、呼吸を数えているのだ。


「聞いてるのか、おい」


じれたように賊が声をあげたその瞬間。


にわかに鹿鳴の館から、わあっという歓声が上がった。


賊が一瞬気をそらしたその機会を逃さず。


麟太郎は懐に手をやり、


はっとした賊が拳銃を構えなおすよりも早く、


繰り返される歓声に重なるように銃声が響き、


賊は右手を抱えてうずくまった。


対する麟太郎の手には、銃口からかすかに硝煙を上げるコルトがあった。


「お前、最後のも(・)の(・)の(・)ふ(・)なんだろうがっ?!」


なぜ毛唐の飛び道具を平気で使いやがる?!


敵であるにもかかわらず、賊の顔に浮かぶのは、心の拠り所を見失ったかのような戸惑いの表情。


しかし麟太郎は、銃を賊に向けたまま、諭すように言うのだ。


「お主、志の意味を履き違えている」


武士の矜持とは、刀にあるのではない。


それは思いやりであり、相手を敬い自分を高めるという決意の上に宿るのだ。


それを守るためならば、刀であれ、銃であれ、等しく手段に過ぎない。


そして、眼光炯炯として言い放つ。


おぬしらの頭目にしかと伝えよ。わが国が鹿鳴の館での、新型あ(・)へ(・)ん(・)によるよこしまな企て、即刻やめよとな!


「あへん?!」


マリイは声をあげる。自分が試そうとしたブランデイには、清国を滅ぼしたという悪の華、あへんが混ぜられていたのか!


「いいか、これから列強の中で伸びようとする日本国の足を掬おうとする邪心、そして鹿鳴の館を食い物にしようとするぬし達の悪巧み、それらを我らが野放図に看過するはずがない。断固たる力がひそやかに守護しておること、そのけしからぬ心にしかと銘記せよ!」


そしてぴたりと向けていた拳銃の狙いを、ついと足元に外す。麟太郎のその意を賊はすかさず汲み取って、麟太郎の気が変わるのを待たず、すばやく退散する。


そして裏木戸が音を立てて閉まると同時に、


「リン!」


マリイが飛びつかんばかりの勢いで駆け寄る。


麟太郎は備前長船を音もなく鞘に収めると、こ(・)の(・)は(・)に渡し、マリイに向かい合う。


「リン! なぜあいつらを逃がしてしまったの?!」


あへんを飲まされかけるという無礼な狼藉に、怒りが収まらないマリイ。しかし麟太郎は落ち着いて諭すのだ。


「マリイさん。事を荒立てたくないのだ。今夜の使命はこれで十分果たした」


欧米列強に対して日本の国の立つ位置は、未だ途上といわざるを得ない。海外に開いた迎賓の場たる鹿鳴館。そこでこのような醜聞があったと知れたら、国の信用が地に落ちる。


「さりとて、誇り高き鹿鳴の館を、欧米諸国の子女を目的とした誘拐脅迫の温床とされることが許されるはずもない」


知らず知らずの内に子女をあ(・)へ(・)ん(・)中毒にされた諸国の重鎮は、身内にあ(・)へ(・)ん(・)患者がいることをネタに脅迫され、金品を差し出したり、政治的に利用されたりと、散々な被害をこうむるのだ。


かようなよからぬ事を企む賊の一団が、いよいよ極東のこの国にも現れたようだという報告があり、桂川の先代に対策の相談があったのが、つい先日の話。そこで、来日したばかりのシルベスタン公国の来賓が此度の賊の標的であると見込んだ先代の手配によって、マリイゴールド嬢と麟太郎の引き合わせが相成ったのだ。すなわち、麟太郎に託された任務とは、鹿鳴館におけるマリイの護衛と、マリイを狙う敵に、日本の国に無比の犯罪抑止力があることをはっきり見せつけることであったのだ。


麟太郎と先代がにらむところ、犯罪の根は深く、恐らくそれを明るみに出すことで、窮地に陥る列強の国がありそうだった。それは、これから世界という大山の頂に上らんとする日本の国に、いらぬ妨害の源を生むことになる。そう考えた二人は、警告のみに済ますことが最善と結論したのだ。


このような経緯をかいつまんでマリイに伝えると、


「元々わたくしが狙いだったのですね」と言って、マリイはワナワナと震えてしまった。


「大丈夫です。あなたがこの国にいる間、あなたの美しい姿にやつらが指一本触れることすら、私が許しません」


「ああ、リン!」


思わず麟太郎の逞しい腕の中に飛び込むマリイ。どうぞ、日本だけといわず、この先ずっと、私を守ってください。何度も何度も懇願する。


震える肩を胸に抱きながら麟太郎が顔を上げると、


「べえ!」


しかめっ面のこ(・)の(・)は(・)が舌を出して、闇夜にするりと消えた。


***


急に姿が見えなくなった愛娘を探し、ラインウェーバー卿は落ち着かなく過ごしていたが、麟太郎に連れられた姿を見て、ほっとした表情を見せた。


「麟太郎君、じゃじゃ馬の相手、苦労をかけたね」


軽口をかけた卿はしかし、マリイの強張った顔を見て、二人にあった異変を感じ取った。そして、麟太郎に耳打ちされた卿は、顔色を変えたのだ。


「今宵はこれで失礼させてもらおう」


「それが賢明です、卿」


君には大きな借りができたな、そう言いながらシルベスタン公国の重鎮は、麟太郎の手をしっかりと握る。いいえ、どうぞお気になさらず、と微笑む麟太郎。


人目もはばからず、最後にもう一度と麟太郎に抱きついたマリイは、お父様、リンをわが国に招待しましょう、絶対、絶対ですよ、と一人娘の我儘を言いながら、帰途に着いたのだった。


***


夜はいよいよ深く、しかし鹿鳴館から漏れるやわらかな光は、なお色あせそうもない。喧騒はいよいよ盛んで、帝都の澄んだ夜空をいつまでも賑わせている。


壁際のテーブル席に戻った麟太郎は、ふう、と肩の力を抜く。


鹿鳴の雰囲気にほどよく酔った来賓は、今はそれぞれのことに夢中で、麟太郎は一人の孤独をようやく楽しむことができた。


元来、喧騒を愉しむ方ではない。殺伐とした厳しさの中に長く暮らした麟太郎は、鹿鳴の館を最初に訪れた時、その歓声と熱気に眩暈を覚えたほどだった。


しかし今宵。美貌の女性とのめくるめくダンスのせいか、怪しい賊との駆け引きのせいか、はたまた単に、涼げな秋風に当たりすぎたせいか。麟太郎はホールの華やかな雰囲気に包み込まれるような感覚を、いつの間にか愉しんでいる自分がいることに気づくのだった。


ふむ、こういう心持も、それはそれで悪くはないものだな。


鋭さを絶えず残していた横顔に、今ようやく柔らかな表情が訪れるのだった。


もう一口、ウイスキイを。そう思って立ち上がろうとすると、目の前に鼈甲色の輝きを湛えたグラスが差し出される。顔を上げるとそこには、なんとも目を引く漆黒のシルクのドレスで着飾った女性が微笑んで佇み、「桂川様、わたくしと踊ってくださいませんか」と上品に会釈をするのだった。


その澄んだ美貌に目を奪われながらも、「いや、俺は今夜はもう、」と言いかけた麟太郎は、しかし女性の謎めいた微笑みに気持ちを変えるのだった。


いいじゃないか、今、このひとときを愉しんでも。


明日を知れない我らだからこそ、今に酔いたいのだ。


「お嬢さん、喜んで」


麟太郎は、ぐっとグラスをあおると、黒衣の女性をエスコートして、まばゆいシャンデリヤの下へとステップを踏み出す。


ステップ、ステップ、

ターン、

そして再びターン!


踊る二人の息はぴたりと合い、

艶やかな黒いスカートは、滑らかに回り、広がって、また回った。


今またホールの目は、軽やかにステップを踏む二人に注がれている。


お前とダンスを特訓しておいて良かったよ、こ(・)の(・)は(・)。


麟太郎にそうささやかれて、こ(・)の(・)は(・)は顔を赤くする。


それにしてもこのドレス、まさか誰かから、かっぱらってきたんじゃないだろうな。


ステップ、ステップ、

ターン、

そしてもう一度ターン!


ち、違うよ、おじいが持ってきてくれたんだって。


こ(・)の(・)は(・)の整った輪郭が、あわてて麟太郎の冗談を否定する。


それからきれいな眉がひそめられる。


麟太郎は自分がも(・)て(・)る(・)の知ってるから、たちが悪いよ。


麟太郎の掲げられた手の下で、こ(・)の(・)は(・)はくるりとターンする。


ふん、それもこのような仕事には必要な資質なのだ。


ほうら、それ自分がも(・)て(・)る(・)って知ってる顔だよ。


やれやれ、と麟太郎はため息をつくと、大きく背中を反らせたこ(・)の(・)は(・)を、左手でしっかりと支える。


こ(・)の(・)は(・)がうるさいから、今日の依頼については知らせたくなかったのだがな。


そりゃあそうだよ、とこ(・)の(・)は(・)は憤慨する。


ステップ、ステップ、

ターン、

もう一度ターン!


だってさあ、自分の好きな相手が、外国のお姫様にコロンと参っちゃう可能性だって、無くはないだろう?


すると麟太郎は、ふん、とバカにしたような顔をして、こ(・)の(・)は(・)、お前の自分勝手にはほとほと愛想が尽きた、そう言いながら、泣き出しそうなその顔に、自分の顔を優しく寄せる。


鮮やかに回り続けるダンスを見守る鹿鳴館の来賓たちは、ふと止まってしまったダンスに戸惑い、


しかし女性の大きな髪飾りの影で何があったのか、確かめることはできなかった。


しかし頬を美しく染めた女性が、ちょっと目じりを押さえてから、エスコートする男性に自ら身を寄せるようにして、再びステップを踏み出したのを見て、ほっと安心した。そしてこのすばらしいダンスがいつまでも続くことを願い、拍手と喝采を惜しげもなく送るのだった。


***


こうして、不夜のにぎわいは、今宵も飽くことなく続くのです。


ご満足頂けたでしょうか。ああ、それは良かった! 鹿鳴の館は、あなた様のまたのお越しを、いつでも心よりお待ち申し上げております。


それでは、ご機嫌よう!


(おわり)

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