第5章「信頼の重なり:上位種の影」
訓練場の片隅に、乾いた風が吹き抜けた。
午前の訓練が終わり、兵士たちは三々五々と持ち場へ戻っていく。
レオンは木陰に腰を下ろし、深く息をついた。
胸の奥に、消えない熾火のような熱が沈殿している。
さっきの拒絶の残滓が、神経の端々にまで熱い脈動を伝えていた。
「レオン、大丈夫か?」
カイルが水筒を差し出してくる。
いつもの軽い調子だが、目だけは心配そうだ。
「ありがとう。平気だよ。ちょっと疲れただけ」
レオンは水を飲み、息を整えた。
本当は“疲れただけ”ではない。
だが、うまく説明できる自信もなかった。
リナが近づき、レオンの顔を覗き込む。
「顔色、少し悪いよ。無理してない?」
「無理はしてないよ。ほんとに」
レオンは笑ってみせたが、胸の奥の熱は消えない。
ガルドが腕を組んだまま言う。
「午前の魔力測定、数値が妙に高かった。気になる」
「え、そんなに?」
レオンは思わず聞き返した。
ガルドは淡々と頷く。
「普段の倍近い。原因は不明だ」
リナが眉をひそめる。
「でも、暴走とかじゃなかったよね。魔力の流れは綺麗だったし」
「そうだな。乱れはなかった」
ガルドの言葉に、レオンは少しだけ安心した。
そこへ、エリシアが歩いてきた。
いつも通りの落ち着いた表情だが、どこか考え込んでいるようにも見える。
「レオン。少し話がある。来てくれる?」
「はい、隊長」
レオンは立ち上がり、エリシアの後をついていく。
小隊の仲間たちも自然とついてきた。
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◆隊長の報告
隊舎の裏手。
人目の少ない場所で、エリシアは振り返った。
「本部から連絡があった。今日の午後、監視官が来る」
レオンは思わず息を呑んだ。
「監視官……ですか?」
カイルが顔をしかめる。
「なんでまた急に?」
エリシアは短く答えた。
「レオンの魔力の件だ。午前の測定結果が本部に送られていたらしい」
リナが不安そうに言う。
「でも、レオンは暴走なんてしてないよ?」
「そうだ。だからこそ、私たちが説明する必要がある」
エリシアはレオンをまっすぐ見た。
「レオン。今日の魔力の揺れ、何か心当たりは?」
レオンは少し考えたが、首を振る。
「……ありません。自分でもよく分からなくて」
エリシアは頷いた。
「正直に言ってくれていい。今はそれで十分だ」
カイルが言う。
「監視官って、そんなに厳しいのか?」
エリシアは少しだけ表情を曇らせた。
「厳しいというより……“冷たい”。
本部の判断をそのまま持ってくるタイプだ」
リナが小さく息を呑む。
「じゃあ……レオンが危険だって決めつけられたら……」
ガルドが低く言う。
「隔離される可能性がある」
レオンの胸が強く締めつけられた。
「……俺、そんな……」
エリシアはレオンの肩に手を置いた。
「大丈夫。私たちがいる。
本部がどう言おうと、レオンは危険じゃない。
それは私たちが一番よく知ってる」
レオンは小さく頷いた。
胸の奥の熱が、少しだけ落ち着いた気がした。
エリシアは続ける。
「監視官が来る前に、もう一度だけ魔力の状態を確認したい。
レオン、協力してくれる?」
「はい。お願いします」
エリシアは微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ準備をしよう」
その瞬間、
レオンの胸の奥で、
また小さく“熱”が脈打った。
理由は分からない。
ただ――
何かが近づいている気がした。
隊舎の作戦室は、昼前だというのに静かだった。
窓から差し込む光が机の上を照らし、紙束の影が揺れている。
レオンは椅子に座り、測定器の前で深呼吸をした。
胸の奥の熱は、さっきより少し落ち着いている。
エリシアが装置の調整を終え、レオンの前に立った。
「準備できたよ。手を置いて」
「はい」
レオンは測定器に手を乗せた。
金属の冷たさが指先に伝わる。
カイルが横から覗き込む。
「さっきみたいに変な反応が出なきゃいいけどな」
リナが小声で言う。
「変なって言わないの。レオンが緊張するでしょ」
ガルドは腕を組んだまま、装置の光を見つめていた。
「数値が安定していれば問題ない」
エリシアがスイッチを入れると、
測定器が淡い光を放ち始めた。
レオンは息を呑む。
胸の奥が、また少し熱くなる。
エリシアが数値を確認しながら言った。
「……午前より高いね。でも、流れは綺麗。乱れはない」
カイルが眉を上げる。
「高いって、どれくらい?」
「普段の一・五倍くらいかな」
リナが驚いた声を上げる。
「そんなに? でも暴走の兆候はないよね?」
「うん。むしろ安定してる」
エリシアはレオンの方を向いた。
「レオン。何か変わったことは?」
レオンは少し考えた。
「……胸の奥が、少し熱い感じはします。でも痛くはないです」
エリシアは頷いた。
「その感覚、いつから?」
「午前の訓練のあとからです」
ガルドが低く言う。
「魔力の流れが活性化している可能性がある」
カイルが首をかしげる。
「活性化って、強くなってるってことか?」
「そうだ。ただ、理由が分からない」
リナがレオンの顔を覗き込む。
「でも、レオンは普通にしてたよね? 無理もしてないし」
「うん。特に何も……」
レオンは言いかけて、少しだけ言葉を止めた。
――本当は、午前の訓練中に一瞬だけ“視界が揺れた”気がした。
でも、それをどう説明すればいいのか分からない。
エリシアはレオンの表情を見て、静かに言った。
「言いにくいことでもいいよ。気づいたことがあれば教えて」
レオンは小さく息を吸った。
「……少しだけ、視界が揺れた気がしました。でも一瞬です」
カイルが驚いた声を上げる。
「視界が? それって大丈夫なのか?」
リナが心配そうに言う。
「めまいみたいな感じ?」
「うん。そんな感じ。でもすぐ戻ったよ」
ガルドは短く言った。
「魔力の流れが変わると、身体に影響が出ることはある」
エリシアはレオンの肩に手を置いた。
「レオン。無理はしないで。少し休もう」
レオンは頷いた。
「はい。すみません」
「謝らなくていいよ」
エリシアは優しく微笑んだ。
その瞬間、
測定器の光がふっと強くなった。
レオンは驚いて手を引こうとしたが、
エリシアがそっと押さえた。
「大丈夫。痛くない?」
「はい。大丈夫です」
光はすぐに落ち着いた。
だが、エリシアの表情は少しだけ険しくなっていた。
カイルが言う。
「今の、なんだったんだ?」
リナが測定器を覗き込む。
「数値が一瞬だけ跳ね上がった……?」
ガルドは低く言った。
「魔力が……反応した?」
エリシアはレオンを見つめた。
「レオン。誰かに触れられた時とか、近づかれた時に、
胸の熱が強くなることはある?」
レオンは少し考えた。
「……あります。
エリシア隊長が手を握ってくれた時、少しだけ」
カイルが目を丸くする。
「隊長にだけ?」
リナも驚いた声を上げる。
「それって……」
ガルドは短く言った。
「魔力が“対象を選んでいる”可能性がある」
レオンは息を呑んだ。
エリシアは静かに言った。
「レオン。
午後に来る監視官には、このことは言わなくていい」
レオンは驚いた。
「え……?」
エリシアは真剣な表情で続けた。
「本部は“特異魔力”に敏感だ。
余計な情報を与えると、レオンが不利になる」
カイルが頷く。
「そうだな。あいつら、何でも大げさに扱うし」
リナも言う。
「レオンを守るためだよ」
ガルドは短く言った。
「必要なことだけ話せばいい」
レオンは胸の奥の熱を感じながら、静かに頷いた。
「……分かりました」
エリシアは微笑んだ。
「大丈夫。私たちがついてる」
その言葉に、
エリシアの体温に呼応するように、胸の奥の熱がトクンと跳ねた。
それは他者を拒むための熱ではなく、誰かを受け入れるための、柔らかな、だが強固な熱だった。
理由は分からない。
ただ――
その言葉だけは、なぜか安心できた
午後の訓練場は、いつもより静かだった。
兵士たちは持ち場に散り、広い空間には風の音だけが残っている。
レオンは中央に立ち、深呼吸をした。
胸の奥の熱は、まだ完全には消えていない。
エリシアが少し離れた位置に立ち、指示を出す。
「レオン。軽く魔力を流してみて。無理はしないで」
「はい」
レオンは手を前に出し、ゆっくりと魔力を巡らせた。
淡い光が指先に集まり、空気がわずかに揺れる。
カイルが横で見ながら言う。
「お、いい感じじゃねえか。さっきより安定してるぞ」
リナも頷く。
「うん。流れが綺麗。乱れはないよ」
ガルドは静かに観察していた。
「数値も安定している。問題はなさそうだ」
レオンはほっと息をついた。
「よかった……」
だが、その瞬間。
胸の奥が、また小さく脈打った。
レオンは思わず胸に手を当てる。
エリシアがすぐに気づいた。
「レオン。無理してない?」
「大丈夫です。ちょっとだけ……」
カイルが眉をひそめる。
「また熱くなったのか?」
「うん。でもさっきよりは弱いよ」
リナが心配そうに言う。
「でも、気になるよね。何が原因なんだろ……」
ガルドは短く言った。
「魔力の活性化だろう。だが、理由は分からない」
エリシアはレオンの前に歩み寄り、
そっと手を差し出した。
「レオン。手を」
レオンは少し戸惑いながらも、手を伸ばした。
エリシアがその手を握った瞬間――
レオンの胸の奥が、また脈打った。
だが、痛みはない。
むしろ、落ち着くような感覚だった。
カイルが目を丸くする。
「おい、今の……光、強くなったぞ」
リナも驚いた声を上げる。
「エリシア隊長が触れた時だけ……?」
ガルドは静かに言った。
「魔力が反応している。対象を選んでいる可能性がある」
レオンは驚いてエリシアを見た。
「え……選んでる……?」
エリシアはレオンの手を離し、
少し考えるように視線を落とした。
「レオン。さっきも言ったけど、
監視官にはこのことは言わない方がいい」
レオンは小さく頷いた。
「はい……」
エリシアはレオンの肩に手を置いた。
「大丈夫。君は危険じゃない。
魔力がどう変わっても、君は君だよ」
レオンの胸の奥が、また小さく脈打った。
だが、今度は不安ではなかった。
カイルが空を見上げる。
「にしても、監視官って何時に来るんだ?」
リナが答える。
「夕方って言ってたよね。あと数時間……」
ガルドは短く言った。
「準備しておいた方がいい」
エリシアはレオンを見つめた。
「レオン。
監視官が来たら、私たちが説明する。
君は心配しなくていい」
レオンは深く息を吸い、頷いた。
「……はい」
その瞬間、
胸の奥の熱が、静かに落ち着いた
夕方が近づき、駐屯地の空気が少しずつ落ち着きを失っていった。
兵士たちの動きが慌ただしくなり、どこか緊張が漂っている。
レオンは隊舎の前で深呼吸をした。
胸の奥の熱は、まだ完全には消えていない。
カイルが横に立ち、腕を組む。
「監視官って、どんなやつなんだろうな。怖いのか?」
リナが苦笑する。
「カイルの“怖い”の基準が分からないけど……
少なくとも優しくはなさそうだよね」
ガルドは淡々と言った。
「本部直属だ。現場の事情より規則を優先するタイプが多い」
レオンは少しだけ肩をすくめた。
「そんなに厳しい人なんですか?」
エリシアが隊舎から出てきて、レオンの前に立った。
「厳しいというより、判断が早い。
そして、その判断はほとんど覆らない」
カイルが顔をしかめる。
「つまり、レオンが“危険”って決められたら終わりってことか」
リナが慌てて言う。
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ!」
ガルドは短く言った。
「だが、可能性はある」
レオンは胸の奥が少し重くなるのを感じた。
エリシアはレオンの肩に手を置いた。
「大丈夫。私たちが説明する。
レオンは危険じゃない。それは私たちが一番知ってる」
レオンは小さく頷いた。
「……はい」
その瞬間、胸の奥の熱が少しだけ落ち着いた。
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◆監視官の到着
駐屯地の門の方から、兵士の声が聞こえた。
「本部監視官、到着!」
その声に、周囲の空気が一気に張りつめる。
カイルが小声で言う。
「来たぞ……」
リナは息を呑んだ。
「思ったより早い……」
ガルドは前方を見据えた。
「気をつけろ。油断するな」
エリシアはレオンの前に立ち、
静かに言った。
「レオン。後ろにいて。
何を言われても、私たちが答えるから」
レオンは頷いた。
「……はい」
門の方から、黒い軍服の男が歩いてくるのが見えた。
背は高く、細身。
歩き方は静かで、無駄がない。
カイルが小声で言う。
「なんか……雰囲気が違うな。普通の兵士じゃねえ」
リナも小さく呟く。
「冷たい感じ……」
ガルドは短く言った。
「監視官だ」
男は小隊の前で立ち止まり、
淡々と名乗った。
「本部監視官、セイル・ハーヴェン。
レオン・アーデルの監査に来た」
レオンは思わず息を呑んだ。
エリシアが一歩前に出る。
「エリシア・フォード小隊長です。
レオンの件について説明があります」
セイルはエリシアを一瞥し、
すぐにレオンへ視線を移した。
「レオン・アーデル。
君にいくつか確認したいことがある」
レオンは胸の奥が熱くなるのを感じた。
だが、逃げるわけにはいかない。
「……はい」
セイルは淡々と続けた。
「午前の魔力測定で異常値が出た。
その理由を説明してもらおう」
カイルが口を開きかけたが、
エリシアが手で制した。
「午前の訓練で、レオンは少し疲れていました。
魔力の流れは安定しており、暴走の兆候はありません」
セイルは表情を変えずに言った。
「隊長の判断は参考にする。
だが、最終判断は本部が下す」
リナが小さく息を呑む。
ガルドは静かに構えた。
レオンは胸の奥の熱が、
また小さく脈打つのを感じた。
セイルはレオンを見つめたまま言った。
「レオン・アーデル。
君の魔力は、通常の補助魔法士の範囲を超えている可能性がある。
本部はその点を重く見ている」
レオンは言葉を失った。
エリシアが一歩前に出る。
「レオンは危険ではありません。
私が保証します」
セイルは淡々と返した。
「保証は不要だ。
私は事実だけを確認する」
その瞬間、
レオンの胸の奥が、
また強く脈打った。
理由は分からない。
ただ――
この監視官に近づかれると、胸の熱が強くなる。
エリシアはレオンの様子に気づき、
そっと手を握った。
「大丈夫。落ち着いて」
レオンは小さく頷いた。
胸の熱が、少しだけ静まった。
セイルはその様子を見て、
わずかに目を細めた。
「……興味深い反応だ」
レオンは息を呑んだ。
エリシアはセイルを睨む。
「レオンに不用意に近づかないでください」
セイルは淡々と答えた。
「必要な確認だ」
その声は冷たく、
しかし揺らぎがなかった。
レオンは胸の奥の熱を感じながら、
ただ静かに立っていた。
監視官セイルが到着してから、駐屯地の空気は一気に重くなった。
セイルは無駄な動きを一切見せず、静かにレオンの前へ歩み寄る。その足音は、硬い石畳の上でもほとんど響かない。
「レオン・アーデル。午前の魔力測定について、直接確認したい」
その声は淡々としていて、感情の色がほとんどない。レオンは胸の奥が、冷たい刃を突きつけられたかのようにチリチリと熱くなるのを感じた。だが、ここで怯んではいけないと、表情には出さないように努める。
「……はい」
エリシアが即座に一歩前に出た。レオンを背中に隠すようなその背中が、今はひどく頼もしい。
「監視官。レオンは危険ではありません。魔力の流れも、私が確認した限り安定しています」
セイルはエリシアを一瞥したが、表情はピクリとも動かない。
「判断は本部が行う。私は事実を確認するだけだ」
背後でカイルが低く唸る。
「なんだよ、あの言い方……。血も涙もねえのかよ」
リナも不安そうに眉をひそめる。
「冷たいっていうか……まるで、精密な機械と喋ってるみたい」
ガルドは腕を組み、鋭い視線をセイルの指先に固定していた。
「本部の人間は、あれが普通だ。感情よりも効率と規則を優先する」
セイルはレオンの前で立ち止まり、射抜くような視線で淡々と質問を続けた。
「午前の訓練中、魔力の揺れを感じたか?」
レオンは少し考え、誤魔化しは通用しないと悟って正直に答える。
「はい。少しだけ……胸の奥が、内側から押し広げられるように熱くなりました」
「痛みは?」
「ありません。ただ、熱いだけです」
「視界の揺れは? 景色が歪んで見えたりはしなかったか」
レオンは驚いた。それは誰にも言っていないはずだった。
「……どうして、それを分かるんですか?」
セイルは表情を変えずに言った。
「魔力の急激な活性化に伴う、典型的な負荷症状だ。本部の記録にはいくつも例がある」
エリシアが再び口を挟む。
「ですが、レオンの魔力はその後すぐに落ち着いています。暴走の兆候、いわゆる『オーバーフロー』の数値には達していません」
セイルは淡々と、だが残酷な事実を告げるように返した。
「暴走だけが危険ではない。変質――つまり、魔法の性質そのものが書き換わることもまた、本部にとっては制御不能な『危険』とみなされる」
セイルがさらに一歩、レオンとの距離を詰めた。
その瞬間だった。
レオンの胸の奥が、突然、ドクンと強く脈打った。
「……っ!」
思わず胸を強く押さえ、その場に屈み込みそうになる。これまでにない、激しい拒絶の感覚だ。
エリシアがすぐに駆け寄せ、レオンの肩を抱いた。
「レオン! 大丈夫? 顔色が悪いわ」
「はい……でも、急に、胸の熱がさっきより強くなって……」
心臓の鼓動に合わせて、熱が波のように全身へ広がっていく。まるで、近づいてくるセイルを「異物」として追い出そうとしているような、本能的な感覚だった。
セイルはその様子を、睫毛一つ動かさずに観察していた。
「……反応したな。私が一定の距離まで近づいた時だけ、魔力の波形が乱れる」
カイルがセイルを睨みつける。
「お前が近づいたからだろ! レオンが苦しがってるのが見えねえのか!」
リナも叫ぶ。
「そうだよ! レオンを怖がらせないで!」
ガルドが低い声で威圧するように言った。
「監視官。一度、距離を取れ。これ以上の検分は彼の健康を害する」
だが、セイルは動かない。手にした魔力計の数値を読み取っている。
「興味深い反応だ。特定の対象――つまり私に対してのみ、魔力が能動的な『拒絶』を示している可能性がある」
レオンは息を荒らげながら、エリシアの腕の中にいた。
「拒絶……? 俺の魔力が……?」
エリシアはセイルを強く睨みつけた。
「レオンに不用意に近づかないでください。彼はあなたの実験材料ではありません」
セイルは感情の起伏がない声で、事務的に返した。
「必要な観察だ。事実に感情を混ぜるのは、隊長として感心しないな」
レオンの胸の奥が、また大きく脈打った。セイルの視線そのものが、レオンの魔力を刺激しているようだった。
だが、エリシアがレオンの手を強く握りしめた瞬間。
「落ち着いて。大丈夫、私がここにいるから」
彼女の凛とした声が耳に届くと、不思議なことが起きた。激しく暴れていた胸の熱が、スッと静まり、心地よいぬくもりに変わったのだ。
レオンは驚いて、自分の手を見つめた。
「熱が……引いていく……」
セイルはその変化を、わずかに目を細めて見逃さなかった。
「……隊長の接触で安定するのか。興味深いな。魔力が持ち主の意思とは別に、対象を選別して反応を変えている。これはもはや『魔法』ではなく、意思を持った『生命』の挙動に近い」
レオンは息を呑んだ。自分の体の中で起きていることが、自分のものではないように言われている気がして、怖くなった。
エリシアはセイルの言葉を遮るように言い放つ。
「レオンは危険ではありません。魔力の質がどう変わったとしても、彼は私たちの仲間、レオン・アーデルです」
セイルは淡々と、無慈悲な未来を告げる。
「本部は、個人の感情など考慮しない。『彼が誰であるか』ではなく、『その力が何であるか』だけを判断材料にするだろう。そして現状、この魔力は既存の分類に収まらない」
その冷たい言葉に、レオンの胸の奥がまた微かに熱くなる。
「ふざけんなよ!」
カイルが叫び、レオンの横に並ぶ。
「本部の判断なんて知るか! レオンは俺たちの仲間だ。変な理屈で連れて行こうなんて思うなよ!」
リナも続ける。
「そうだよ! レオンはずっと、自分を抑えて一生懸命やってきたんだから!」
ガルドが最後を締めくくるように言った。
「監視官。これ以上、彼を刺激することは許さん。報告書には、我々小隊全員が彼の安全を保証すると明記しておけ」
セイルは静かに言った。
「刺激しているのは私ではない。彼の内側で目覚めつつある『魔力の変質』そのものだ」
レオンは胸の熱を必死に抑えながら、自分を取り囲む仲間たちの背中を見つめていた。温かいはずの仲間の言葉が、今はどこか遠くの出来事のように感じられるほど、自分の中の「何か」がセイルに対して牙を剥き続けていた。
夕暮れが近づき、駐屯地の空気はさらに冷たくなっていた。訓練場の端では、兵士たちが遠巻きに監視官の様子を伺い、落ち着かない空気が漂っている。
レオンは隊舎の前で、乱れる呼吸を整えるように深呼吸を繰り返した。胸の奥の熱は、今も静かに、だが確実に脈打っている。
「レオン、無理はしないで。何があっても私たちが支えるから」
エリシアが隣に立ち、穏やかな、けれど芯のある声で告げる。レオンは小さく頷いた。
「はい。大丈夫です。……ただ、あの人が来ると、どうしても」
カイルが腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「あの監視官……人間の皮を被った石像か何かじゃないのか? 人の気持ちを逆なでする天才だよ」
リナも苦笑しながら同意する。
「カイルの言い方は極端だけど、確かに……あの人の前だと、自分がただの『数字』にされたみたいで怖いわ」
ガルドが低く、重みのある声で付け加えた。
「本部の人間にとって、我々はチェスの駒に過ぎん。現場の信頼関係など、彼らの報告書には一行も載らないのが常だ」
その時、またしても音もなくセイルが近づいてきた。
「うわっ、また気配ゼロかよ……」
カイルが肩を跳ねさせ、リナもひそひそ声で「ほんとに忍者みたい」と零す。ガルドは短く「監視官とはああいうものだ」と応じた。
セイルはレオンの正面で足を止め、冷徹な瞳で彼を射抜いた。
「レオン・アーデル。魔力の波形に、特筆すべき変化が現れている。追加で確認させてもらう」
エリシアが一歩前に出る。
「監視官。レオンは極度の緊張状態にあります。これ以上の接触は、彼の精神的な負担が大きすぎます」
セイルは表情を変えず、淡々と告げた。
「必要な範囲で行う。危険はない」
「いや、精神的には十分危険だろ……」とカイルがぼやくのを、リナが肘でつつく。
ガルドは静かに構えた。
「監視官。質問は簡潔に願いたい」
セイルはレオンに視線を戻した。
「胸の熱は、今この瞬間も続いているか?」
「……はい。少しだけですが、ずっと燻っています」
「私が近づくと、その熱はどう変化する」
レオンは少し考え、自分の内側に意識を向けた。
「……激しくなります。監視官が近づくと、胸の奥がざわついて、何かが外へ出ようとするような感覚があります」
セイルはわずかに目を細めた。
「やはり、私を『排除対象』として認識しているのか」
エリシアがすかさず口を挟む。
「それは本能的な警戒心です。魔力が安定している証拠でもあります」
セイルは淡々と返した。
「安定しているかどうかは、本部が客観的な数値で判断する。個人の主観は不要だ」
その言葉に、レオンの胸の奥がまた小さく、だが鋭く脈打った。
その瞬間だった。
セイルがさらに半歩、レオンとの距離を詰めた時、レオンの背後の空気が、はっきりと目に見えるほどに歪んだ。
「……っ!?」
レオンは思わず振り返る。自分の背中に、実体のある何かが張り付いているような感覚があった。
カイルが目を丸くして叫ぶ。
「おい、今の見たか! 空気が……陽炎みたいに揺れたぞ!」
リナも驚きに声を震わせる。
「魔力……? でも、魔法の詠唱も、光の放射も起きてないのに……!」
ガルドが低い声で警告する。
「魔力の外部化だ。活性化が限界点を超えようとしている」
エリシアが咄嗟にレオンの肩に手を置いた。
「レオン! 落ち着いて、深呼吸して!」
レオンは頷いたが、胸の熱は治まるどころか、さらに激しさを増していく。
「はい……でも、なんだか……自分じゃない何かが、外へ出ようとしているみたいで……」
それは言葉にしづらい、恐ろしくも神聖な感覚だった。胸の奥から溢れ出した力が、背中へ集中していく。
セイルはその様子を、食い入るようにじっと観察していた。
「……魔力が外気と干渉し、物理的な波動を起こしている。通常の補助魔法士には、生涯を通して一度も起こり得ない現象だ」
カイルがセイルを睨みつける。
「だからって、レオンを化け物みたいに言うなよ! 彼は彼だ!」
リナも必死に訴える。
「レオンはずっと、自分を抑えてみんなのために頑張ってきたんだよ!」
ガルドが短く、鋭く言った。
「監視官。それ以上の接近は刺激が強すぎる。離れろ」
だが、セイルは動じない。
「私は観測事実を述べているだけだ。彼の主観がどうあれ、その力はすでに『兵器』としての枠を超えつつある」
レオンは胸の熱を押さえながら、震える声で零した。
「……俺、本当に……壊れてしまったんでしょうか」
エリシアは即座に、力強く首を振った。
「違うわ、レオン。壊れてなんかいない。あなたの力が、あなたを助けようとして強くなっているだけ。それだけよ」
そのエリシアの言葉に、レオンは少しだけ息を吐くことができた。
胸の熱が、彼女の温もりを通じて少しだけ落ち着きを取り戻す。
だが――その直後だった。
レオンの背後で、淡い光が“ちらり”と揺れた。
ほんの一瞬。誰もが見間違いかと思うほど弱く、しかし透き通るような白金色の輝き。
カイルが呆然と呟く。「おい……今、光ったよな……?」
リナが息を呑む。「え……うそ……羽、みたいに見えた……?」
ガルドの声が、かつてないほど重く響いた。
「魔力が……『形』を成そうとしている」
エリシアはレオンの背中を、守るように抱き寄せた。
「怖がらなくていい、レオン。何が起きても、私がそばにいる」
レオンは小さく頷いた。セイルはその光景を見て、わずかに目を細め、独り言のように呟いた。
「……興味深い。本部が想定していた『暴走』とは根本的に質が違う。これは――」
淡い光の残滓が消えたあと、駐屯地は不気味なほどの静寂に包まれた。
レオンは背中に残るかすかな熱を確かめるように、そっと手を当てた。
「……今の、本当に光だったんですか?」
カイルが真っ先に、力強く答える。
「ああ、確かに見たぜ。綺麗だった。でも……なんか、ただの魔法じゃねえ感じがしたな」
ガルドは淡々と言った。
「魔力の完全な外部化だ。本来、高度な術式を用いなければ不可能な現象が、無意識に起きている」
レオンは胸の奥がざわつくのを感じた。「……俺、どうなってしまうんでしょう」
エリシアはレオンの肩を強く掴んだ。
「大丈夫。魔力がどう変わっても、あなたはあなたよ。私たちがそれを証明する」
セイルは光が消えた空間を凝視し、無機質な声で口を開いた。
「……本部の想定を遥かに超えている。魔力が自律的に動いている。これは個人の意思で制御できる段階ではない」
セイルの脳裏に、かつて王立魔法学院の地下書庫で、禁書指定された古文書の記述が鮮明に蘇っていた。 (……かつて、人智を超えた加護を与える者が帯びたとされる、白金色の光。『神使の標』。まさか、目の前の少年がその……) だが、セイルは即座にその思考を冷徹に切り捨てた。 (あり得ない。あれは数百年前に途絶えたお伽話だ。目の前で起きているのは、単なる未知の魔力変質、あるいは一種の精神疾患に伴う特異現象に過ぎない。観測事実を歪めるな) 彼は自分に言い聞かせるように、深く、重い否定を胸に刻んだ。しかし、冷徹な理屈で蓋をしてもなお、網膜に焼き付いた羽のような光の残滓だけは、毒のように彼の確信を侵食し続けていた。
彼はその揺らぎを押し殺し、理解できないものはすべて「管理すべき異常」として処理すべく、思考を機械的なルーチンへと戻した。
「監視官、何をするつもりです」
エリシアが警戒を強める。セイルは懐から、本部直通の特殊通信器を取り出した。
「報告だ。本部は『特異魔力の完全な兆候』を最優先で確認したがっている」
「待ってください!」レオンの声が震える。
カイルが叫ぶ。「おい、待てよ! レオンを勝手に異常者扱いすんな!」
リナも声を震わせる。「まだ何も、悪いことなんて起きてないのに!」
ガルドが低い声で威圧した。「監視官。軽率な報告は、一人の有能な兵士の人生を壊すことになる」
だが、セイルの指は止まらなかった。
「私は事実を報告する義務がある。判断を下すのは本部だ」
エリシアが一歩前に出た。「レオンの安全は私が保証します。報告を待ってください」
セイルはエリシアを冷徹に見つめ、淡々と告げた。
「個人の保証など、軍の組織体系においては無意味だ。本部は『事実』と『結果』だけを求めている」
通信器のランプが赤く点灯した。
レオンの胸の奥が、かつてないほど激しく脈打った。「……っ!」
エリシアがレオンの手を握る。「大丈夫、落ち着いて……!」
セイルは通信器に向かって、短く、無慈悲に告げた。
セイルは通信器に向かって、短く、無慈悲に告げた。 「――本部へ。第4駐屯地、レオン・アーデルに『魔力の完全なる自律発現』を確認。通常の補助魔法士の範疇を大きく逸脱。……特筆すべきは、その発現形態だ。既存の変質例には該当せず、極めて稀少な『古伝事象』に酷似した徴候が見られる」 セイルの手が一瞬、微かに震えた。古伝――伝説を否定したはずの自分の口が、それを報告に混ぜてしまったことに、彼はわずかな忌々しさを覚える。 「……繰り返す。追加部隊、および『特殊研究班』の緊急派遣を要請する。対象を『最重要隔離個体』として確保せよ」
その言葉に、小隊全員が凍りついた。
「……特殊研究班だと?」カイルの声が震える。
「レオンは実験道具じゃない!」リナが叫ぶ。
ガルドが低く、怒りを込めて言った。「監視官……貴様、自分が何をしたか分かっているのか」
セイルは一切動じず、通信器を懐に収めた。
「撤回はできない。明朝、追加部隊が到着するまで、レオン・アーデルの外部との接触を禁ずる。抵抗は反逆とみなす」
レオンは胸の奥の熱を押さえながら、絶望の中で立ち尽くしていた。
「……俺、どうなるんでしょう。研究班って……」
エリシアはレオンの手を、痛いほど強く握りしめた。
「レオン。君をあんな連中に渡したりしない。絶対に」
彼女の瞳には、上官としての義務を超えた、揺るぎない決意の炎が宿っていた。
「……みんな、準備して。夜が明けたら、ここを出るわよ」
レオンは小さく、だが確かな覚悟を持って頷いた。
その背後で、淡い白金色の光が、誰にも気づかれぬまま、かすかに揺れ続けていた。




