出会い
次の休日、僕は事務所の前までやって来ていた。
「うぅ、なんでこんなことになったんだろう?」
思い出されるのは、あの日の記憶。
『ねぇ、せっかくの初コラボだから、インパクトを出していこうよ。例えば、オフコラボとか』
『えぇ……でも、』
『ダメかな?』
『……い、いいですよ』
あの時のユイの誘いを断ることが出来なかった。文字上ではあったけど、二人だけで会話するのは初めてのことだったし、普段から視聴者や母親以外とは、ほとんど会話することが無かったので、うまく押し切られてしまった。
もう少し冷静になることが出来れいれば、断ることが出来たのかもしれないが、過去はもう変わらないし、オフコラボをすると告知してしまったから、ドタキャンすることは許されていない。はぁ、どうしてこうなったんだろうか。
覚悟を決めて、事務所の中に入って行く。自動ドアが開くと、冷房の効いたひんやりとした空気が頬を撫でて、緊張で熱くなった身体を冷やしていく。 冷たい空気に包まれた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた気がした。けれど、足は重く、心臓の鼓動はますます速くなる。
そんな時、後ろから声が投げかけられた。
「ノアちゃん?」
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。長い黒髪が肩に流れ、涼しげな瞳がまっすぐこちらを見つめている。
見覚えはないはずなのに、その声だけは何度も耳にしてきた。
「……ゆ、ユイさん?」
思わず名前を呼ぶと、彼女はふっと微笑んだ。
画面越しで見るよりも、ずっと柔らかい笑顔だった。
「あ、もうバレちゃった。そうだよ、私が月夜ユイ――本名は、日向零。今日は、そしてこれからもよろしくね」
あまりにも自然に告げられたその言葉に、僕は一瞬、返事を忘れてしまった。
本名。画面の向こうでは決して触れられないはずの名前を、彼女はあっさりと口にした。
「……えっ、本名……?」
思わず聞き返すと、ユイ――いや、日向零は小さく肩をすくめて笑った。
「うん。せっかく直接会うんだし、隠してても仕方ないでしょ? それに、マネージャーさんが、身バレ防止のために配信以外では本名で呼び合うようにって言ってたから。ノアちゃんは聞いて無いの?」
そう言えば、そんなことを言っていたような気がする。てっきり、同期と直接会うのは、数か月も先だと思っていたせいで、すっかり記憶から抜け落ちていた。
「あ……そ、そうだったかも……すみません、僕、緊張してて……」
情けない言い訳のように口から漏れる。
けれど零さんは、気にした様子もなく首を横に振った。
「いいんだよ。私も最初はびっくりしたし。……あと、ノアちゃんの本名を教えてもらえないと」
零さんの瞳がまっすぐに僕を見つめる。
逃げ場を失ったような気持ちになって、喉がひりついた。
「ぼ、僕の……本名……」
言葉が喉に引っかかる。
配信では絶対に口にしない名前。ボクではない、僕の名前。
でも、ここで黙っていたら、彼女との距離は縮まらない。
「僕は……氷室澪です。これから、よろしくお願いします」
「氷室澪……」
零さんはその名前をゆっくりと口にして、確かめるように繰り返した。
そして、ふっと目を細めて微笑む。
「うん、いい名前だね。発音は違うけど、漢字はそっくりだ」
零さんは楽しそうにそう言って、まるで小さな秘密を共有するみたいに笑った。
僕は思わず視線を逸らす。こんなにもぐいぎと近づいてくる人は、人見知りの僕にとって、正直、息苦しいくらいだった。
ただ、零は悪意を持ってこんなことをしている訳じゃないことは、彼女の目を見たら理解できた。 からかうでもなく、試すでもなく、ただ純粋に僕を知ろうとしてくれている、そんな眼差しだった。
――一つ、付け加えるならば、その目の奥に、影のような物が見えたが、それが何なのかはわからない。
気のせいかもしれない。
けれど、あの一瞬の揺らぎが、妙に心に引っかかった。
「自己紹介も終わったことだし、配信部屋に行こうか。私のマネージャーに、どこで配信をするのか聞いてあるから、安心して着いてきて」
「……はい」
小さく返事をして、僕は零さんの後ろを歩き出した。
廊下は静かで、足音だけが響く。
その一歩ごとに、胸の鼓動が速くなっていくのを感じた。
零さんは振り返りもせず、軽やかな足取りで進んでいく。
その背中は頼もしく見えるのに、さっき垣間見えた影が頭から離れなかった。
――本当に、気のせいだったのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
けれど、今は立ち止まるわけにはいかない。
「ここだよ」
零さんが立ち止まり、扉を指さした。
そこには、配信部屋と書かれたプレートが掛かっている。
いよいよ始まる。
僕と零さん、二人だけのオフコラボ配信が――。




