星の下で2
「はい、お汁粉。遠慮しないでいいから」
「あ、ありがとうございます」
器から立ちのぼる湯気が、夜気の冷たさを押し返すように広がっていく。
甘い匂いが鼻をくすぐり、胸の奥にまでじんわりと染み込んでくる気がした。
ひと口すすると、熱さに舌が驚いた。
けれど、その熱はすぐに喉を通り、冷え切った身体の隅々まで広がっていく。
「……あったかい」
思わず漏れた言葉に、莉緒は小さく笑った。
「でしょ? 夜の街で泣いてるより、こうして甘いもの食べてる方がずっとマシだよ。ま、ボクは甘い物が好きじゃないんだけどね」
「……じゃあ、なんでいつもスイーツを作ってるんですか?」
問いかけると、莉緒は肩をすくめて笑った。
「簡単だよ。ボクは食べるより、人が食べてる顔を見るのが好きなんだ。……それに、昔ある人がボクの作ったスイーツをおいしいて言ってくれたんだよ」
莉緒は少し遠くを見るように目を細めた。
「その一言が、なんだか忘れられなくてさ。ボクにとっては味よりも、その笑顔の方がずっと価値があるんだよ」
器を握る僕の手が、自然と強くなった。
甘い匂いと温もりが、胸の奥で別の意味を持ち始める。
誰かのために、スイーツを作る。それは……お母さんとの約束にそっくりだ。
「それで……雑談って何を話すんですか?」
「うーん、何にしようかな? そうだ。星について話そうよ」
「星について……?」
思わず聞き返すと、莉緒は夜空を見上げた。
都会の光にかき消されて、数えるほどしか見えない星。
それでも彼女の瞳には、確かに輝きが映っていた。
「君は星に堕ちてきてほしいって言ったけど、ボクはそれに案外賛成なんだ。だって、ボクは星のことが本当に嫌いで、憎んでいるんだから」
「……莉緒さんも、星が嫌いなんですか?」
問い返すと、莉緒は肩をすくめて笑った。
「うん。だって星って、すごく傲慢でしょ。手が届かない所から見下してきて、手が届くのなら撃ち落としてしまいたい。その光も、高さも、在り方も、全部が全部、大っ嫌い」
莉緒さんは、空に向かって手を伸ばし、指先で星を掴もうとするように握りしめた。
けれど当然、何も掴めはしない。
その手は夜気を切り裂くだけで、ただ虚しく震えていた。
「ほら、届かないでしょ。だから嫌いなんだ」
吐き捨てるような声なのに、どこか楽しげでもあった。
僕はその横顔を見つめながら、胸の奥がざわつくのを止められなかった。
憎んでいるはずなのに、彼女の瞳には確かに星の光が映っていたからだ。
「……でもね」
莉緒は手を下ろし、こちらを振り返った。
「星のことを嫌いだって言えるのは、君がまだ生きてるからなんだよ」
その言葉に、息が詰まった。
夜気よりも冷たいものが胸を締めつける。
「本題に入ろうか。――君は、本当はどうしたいの?」
「……なんで、そんなことを聞くんですか?」
莉緒さんにとって、僕は気にする必要も無い小物のはずだ。
彼女が準備していた企画を潰した僕が、気にかけてもらう理由なんて、どこにもない。
「忘れてたかもしれないけど、前にお詫びをするって約束したからね。もちろん、ボクは嘘を吐くし、誤魔化したりするけど、約束だけは必ず守るって決めてるんだ」
そんなこと、あったっけ?
僕は記憶を探ろうとしたが、頭の中は空白ばかりで、何も掴めなかった。
思い出せないことが、余計に胸を締めつける。
「……覚えてないです」
かすれた声で答えると、莉緒は肩をすくめて笑った。
「まあ、忘れるのは君の自由だよ。でも、ボクは忘れない。約束っていうのは、そういうものだから」
その言葉に、心臓が強く跳ねた。
約束……それは、裏切られた過去のせいで、嫌いになってしまった物だけど、莉緒の口から出ると、まるで別の意味を持つように響いた。
「……僕は、約束なんて信じられないです」
吐き出すように言うと、莉緒は首を傾げて笑った。
「信じなくてもいいよ。でも、ボクは守る。君がどう思ってても関係ないし、興味も無い。だって、約束っていうのは、相手のためじゃなくて、自分のためにするものだから」
それは、僕には無い視点だった。
約束とは、誰かに裏切られるもの。そう思い込んでいた僕にとって、莉緒の言葉はあまりに異質で、理解できないほどだった。
「……自分のために?」
思わず問い返すと、莉緒は夜空を見上げたまま、軽く笑った。
「そう。約束っていうのは、自分がどう生きたいかを決めるための目印みたいなもの。相手が守るかどうかなんて関係ない。ボクが守るって決めたから、守る。それだけ」
その声は夜気よりも澄んでいて、胸の奥に突き刺さる。
僕は欄干を握る手に力を込めながら、言葉を失っていた。
約束を嫌っていたはずなのに、今はその響きが、なぜか少しだけ温かく感じられた。
「それで、これからどうしたいのか話してくれるよね?」
問いかけられた瞬間、喉が詰まった。
言葉が浮かんでは消え、胸の奥で渦を巻くだけで形にならない。
「……わからないんです。みんなから逃げて、作り上げようとしたものを壊したのに、今さら何を望んでいいのか、わからないんです」
声は震えて、夜気に溶けていった。
何もない空っぽの心が、何故か痛みを訴えてくる。
「弱さを消せたと思ってたのに、実際は少しも消せてなくて……。ユイたちはあれだけ強いのに、僕はこんなにもちっぽけで、間違えてばかりで、隣に立つ権利なんて、どこにもなかったんですよ」
吐き出した途端、胸の奥がさらに重く沈んでいく。
自分で自分を突き放す言葉なのに、痛みは消えなかった。
「違う。それは違う。君は大きな勘違いをしている」
莉緒の声は夜気を切り裂くように鋭かった。
僕は思わず顔を上げる。
「弱さってものは消すべきものじゃない。ユイたちも、ボクも、あの冴ですら、皆弱さを抱えてる。弱さの無い人間なんて、この世にはいなくて、もしそんな人物がいるならば、それはもはや人間とは別種の生物だ」
莉緒の言葉は鋭く、けれど不思議と温かかった。
僕は息を呑み、視線を逸らすことができなかった。
「弱さってのはね、抱えるべきものなんだよ。隠したり、消すような物じゃなくて、むしろ君が君である証拠なんだ。強さっていうのは、弱さを持ったまま歩くこと。転んでも、間違えても、それでも立ち上がること。ユイも冴も、みんなそうやって強く見えてるだけなんだよ」
その言葉は、夜気よりも澄んでいて、胸の奥に染み込んでいく。
僕は欄干を握る手に力を込めながら、視線を落とした。
「それに間違えてばかりって言ったよね? それは当然のことだよ。間違えることはAIですらまねることのできない人間の機能なんだから」
莉緒は夜空を見上げたまま、淡々と続けた。
「当然でしょ。だって、人間は毎日を全力で生きてるんだから。間違えることくらい何度もあるし、だからこそ美しい生物なんだ」
それは、僕には無かった視点で、僕のことを肯定してくれている言葉だった。
肯定されるなんて一ミリたちとも思ってなくて、どう受け止めていいのかわからない。
「ほんとうに、そうなんですか?」
「さぁね。信じるか信じないかは、君次第だよ。それに……ボクの役目はここまでだから。じゃあね――後は任せたよ」
そうして、莉緒さんは欄干から手を離し、背を向けた。
夜風に髪が揺れ、都会の光に溶けていくように歩き出す。
そして、背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには……。
「やっと見つけたよ。ノア……澪ちゃん」
「もちろん、にゃーもいるにゃよ」
ユイとニヤさんが立っていた。




