三傷
次は、小学六年生の時。
そのことにはもう、お父さんとまともに話すこともなくなっていた。
母がいない生活は日常になり、居間の空気はいつも冷たかった。
「……宿題、見てくれる?」
勇気を出して声をかけても、お父さんは新聞から目を離さずに「あとでな」とだけ答える。
その「あとで」が来ることは、結局一度もなかった。
夜、眠る前に不安を口にすると、お父さんは決まって同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫だ。心配するな」
でも、そんな言葉を信用できるはずもない。
りょうにも、お母さんにも裏切られ続けており、もう他人のことを信用できなくなってしまっている。
ただ、お父さんはお母さんが家を出てからずっと、僕のことを育ててくれた。
碌な会話が無くとも、手助けしてくれなくても、その事実だけは――変わらない。
(このままじゃ、駄目だよね)
誰も信用できなくても、せめてお父さんだけは信じないと。
そう心に決めた。
父の言葉は頼りなくても、父がここにいるという事実だけは確かだった。
だから、信じるしかなかった。
実際――しばらくの間は、それでうまくいっていた。
相変わらず、学校ではひとりぼっちだったし、友達とは無縁の生活をしていたけど、夜遅くにはお父さんが家に帰ってきて、ほんの少しだけ言葉を交わす――そんな毎日。
決して楽しいとは言えない日々だったけど、それだけでも僕は充分幸せだった。
……でもね、僕は気付いていたんだよ。
お父さんが僕のことを子供としては見ていなくて、まだ家に置いてくれているのは、ただの憐れみからだって。
(僕は……居場所を与えられているだけなんだ)
そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。
おやすみの一言も、食卓に並ぶご飯も、全部が「義務」の延長にしか見えなくなる。
それでも、僕はその義務にすがるしかなかった。
憐れみでもいい。見捨てられるよりは、まだましだから。
最初の内は、少しも信じることが出来なかった「大丈夫」という言葉。
でも、今ではそれだけが唯一の支えになっていた。
学校で孤立しても、家で沈黙が続いても――夜、眠る前に「大丈夫だ」と言ってもらえるだけで、僕はかろうじて踏ん張れた。
その言葉を信じるしかなかった。
憐れみでも、義務でも、形だけでも。
「大丈夫」という響きが、僕を繋ぎ止める最後の糸だった。
……けれど、その細い糸はある夜、突然途切れた。
「あれ? お父さん、帰ってこない」
いつも、夜十一時くらいには家に帰ってくるはずなのに、その日に限って十二時を過ぎても帰ってくることは無かった。
まだ小学六年生の体で、こんな時間まで起きているのは駄目なことだとわかっているけど、どうしても眠れなかった。
時計の針が進むたびに、胸の奥がざわざわと騒ぎ出す。
「……大丈夫、だよね」
自分に言い聞かせるように呟いた。
お父さんはいつもそう言ってくれた。だから、信じようとした。
けれど、午前一時を過ぎても玄関の扉は開かなかった。
暗い居間にひとり座り続ける僕の耳に届くのは、時計の秒針の音だけ。
その音が、父の「大丈夫」という言葉を少しずつ削り取っていくように感じられた。
――そして、気付いてしまった。
最後の糸も、もう切れてしまったのだと。
それからの一週間くらいは家にある金を使って、なんとか食いつないでいた。
あいにく、僕には前世という物があったから、最低限のやり方は知っていた。
小学生の体には少し重い買い物袋を抱えて、誰にも見つからないように家へ戻る。
でも、小学生の体では、満足に物を運ぶことも出来ないし、料理することも難しい。だから、一日に食べることが出来る量が減るのも当然のことであった。
(お腹、空いたな……)
決して、お金が無くなったわけではない。
でも、いつなくなるのかわからないお金を見ていると、積極的に使うつもりにはならなくて、一日を給食と少ない夕食だけで済ましていた。
時計の針が進むたびに、空腹はじわじわと広がっていく。でも、冷蔵庫を開けても、手を伸ばすことは出来なかった。
残り少ない食材を減らすことが、未来を削るように思えて怖かったからだ。
(なんで……こんなことに、なったんだろう?)
僕は、あまり動かない頭を使って、必死に考える。
りょうと仲違い……いや、最初から仲良くなかったから、それは違うか。
その原因は、僕が楽しめていなかったから。一応、笑顔を見せてりょうに合わせていたけども、それは彼に失礼でもあり、気分を害するものだった。
もし、僕が本心から楽しめていれば……。
お母さんが、この家から出ていった理由。それはきっと、僕がお母さんの居場所になれなかったからだと思う。
お母さんが辛いとき、僕は甘えてばかりで支えることが出来ていなかった。だから、きっとお母さんは自分の居場所だと思えるところに行ったのだろう。
もし、僕がもっと強くて、頼れる子どもだったなら……。
お父さんが、この家から出ていったのは、心が壊れてしまったからだと思う。母に裏切られ、僕と二人きりになった家で、沈黙ばかりが続いて。その重さに耐えられなくなって、逃げるように出ていったんだ。
もし、僕がお父さんを救えたら、こんな結末にはならなかった。
全部、全部、僕であったから、こんなことになったんだ。もっと強くて、頼れて、他人を救えるようなボクであったなら、今頃……幸せに生きることが出来ていただろう。
今までで一番の空腹の中、僕はただ横になって、天井を見つめて、時計の秒針だけが、やけに大きな音を立てて響いている。
(僕は……誰の居場所にもなれない。でも、ボクならば――)
そう思った瞬間、胸の奥で何かがずれる音がした。
現実の僕は、空腹に耐えながらただ横たわるだけの弱い存在。
けれど、もう一人の「ボク」は違う。
強くて、頼れて、誰かを救える理想の自分。
もし、そのボクに生まれ変われるなら――。
もし、そのボクとして歩き出せるなら――。
僕は初めて、未来を夢見ることが出来るのかもしれない。
その後、何度もスーパーに一人で買い物に行く僕を不審に思った近所の人が、学校へ知らせた 。
担任の先生が家に来て、冷たい居間で横になっている僕を見て、言葉を失っていた。
数日後には、児童相談所の人が訪ねてきて、僕の生活について細かく聞いてきた。
「一人で暮らすのは難しい」と告げられたとき、僕はただ黙ってうなずくしかなかった。
そして、祖父母の家へ行くことが決まった。
父方の祖父母は、お父さんが僕を捨てて出ていったことを泣いて謝り、ずっと僕のことを大事に育ててくれた。
でも、裏切られ続けた伽藍洞の心は埋まらない。
だから僕は、祖父母の家で笑顔を見せながらも、心のどこかで距離を置いていた。
居場所を与えられても、居場所になれない自分。
その感覚だけが、ずっと僕の中に残り続けていた。
ただ、あの時に決意した理想のボク。そのためならば、僕はこの心を飲み込むことも出来た。
本来ならば、誰も信じることが出来なかった。
けれど、その弱さを抱え続けるくらいなら、消してしまえばいい。
裏切られた記憶も、居場所を失った痛みも、伽藍洞の空虚さも――全部、なかったことにしてしまえばいい。
ボクになるためには、弱さなんて必要ない。
強さだけを残して、他人を救える自分に変わればいい。
だから僕は、笑顔を作りながら心の奥を閉ざした。
弱さを消し去った僕だけが、未来へ歩いていけるのだと信じて。
そのおかげで、ある程度は人並みに生きれたと思う。
相変わらず友人は出来なかったけど、祖父母とも、中学の先生ともある程度は話すことが出来た。
でも、これは弱さを乗り越えたわけでは無く、ただ単に――心の奥底に隠しただけだったんだ。
初めての友人、ユイを始め、ニヤさん、ユイトさん、マサさん、シュウ先輩、ヒナタ先輩、ツバサ先輩、ルミナ先輩、ティア先輩……そして、癪だけど莉緒さんも。
Vtuberになって、彼女たちと出会い、初めて仲間が出来た。
配信の裏で交わす何気ない会話や、画面越しに届く笑い声。
それは、僕が閉ざしたはずの心の奥に、少しずつ響いてしまった。
本当なら、弱さなんて消し去ったはずだった。
でも、ユイの真っ直ぐな言葉や、先輩たちの温かい眼差しに触れるたびに、隠したはずの感情が揺れ動く。
ボクとして強く振る舞う僕の中で、消したはずの弱さが、再び形を持ち始めていた。
笑顔を作るだけでは誤魔化せない。
仲間の存在は、僕にとって救いであり、同時に恐怖でもあった。
――もし、また裏切られたら。
その思いが、伽藍洞の心をさらに深く震わせていき、弱さが表に出始めてしまう。
それが、怖くて、苦しくて。
……だから、僕は――逃げ出してしまったんだ。




