お母さん
「おかあさん、なにつくってるの?」
まだ幼かった僕は、台所で何かを作っているお母さんの背中を見上げていた。
甘く、やさしい匂いが鼻をくすぐり、食欲を刺激してくる。
「アップルパイだよ。今日のおやつにしようと思ってね」
お母さんは振り返りもせずに、リンゴを切りながら軽やかに答えた。
包丁の刃がまな板に当たるたび、コトン、コトンと小気味よい音が響く。その音に合わせるように、甘酸っぱい香りがふわりと広がって、僕のお腹はぐうと鳴った。
「ぼくも手伝っていい?」
思わず声を弾ませると、お母さんは肩越しにちらりと笑みを見せた。
「手伝ってくれるの? じゃあ、このリンゴを鍋に入れてくれる?」
「うん!」
お母さんは、僕の足元に台を置いて、そこに乗るように促した。
少し背伸びをすると、ようやく鍋の中が見える。
「ここに入れるの?」
「そうだよ。こぼさないように、そっと入れてね」
「わかった!」
僕は両手でリンゴを抱えるように持ち、慎重に鍋へと入れた。
「いれたよ!」
「よし。それじゃあ、今から火をかけるね」
母がコンロのつまみを回すと、カチリと音がして、すぐに青い炎が揺れた。
鍋の中のリンゴがじゅっと音を立て、甘酸っぱい香りが一気に広がる。
僕は思わず深呼吸をして、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「いいにおい!」
「焦げないように、ベラでゆっくりかき混ぜてみて」
お母さんから、木べらを受け取り、両手でしっかり握りしめて、鍋の中のリンゴをぐるりと回した。
じゅっと音がして、湯気がふわりと立ちのぼる。
けれど、うまく混ぜられなくてガタガタ音を立ててしまう。
その時、お母さんが背後からそっと支えてくれた。
大きな手が僕の小さな手に重なり、木べらの動きがゆっくりと整えられていく。
その手が温かくて、胸の奥までじんわりと広がっていった。
「ほら、うまくできてるよ」
「ほんとに?」
「うん、ちゃんとできてるよ。澪は凄いね」
実際は、下手で全くうまくできていないかもしれないけれど、お母さんが褒めてくれるというだけで、胸の奥がぽかぽかと満たされていった。
その言葉は、甘い匂いよりも強く、僕の心を幸せでいっぱいにさせてくれる。
「ぼく、もっとがんばる!」
「ふふ、じゃあ次はお砂糖を入れてみようか」
そうして、僕は鍋の中の水分がなくなるまで、混ぜていった。
「次は、パイシートに包んでみようか」
お母さんが、クッキングシートの上にパイシートを引いていく。
さらりとした冷たい感触に、僕は思わず指先で触れてしまう。
その上に、黄金色に煮詰まったリンゴをそっとのせると、甘い香りがさらに強くなった。
「端っこを折りたたんで、ぎゅっと押さえてみて」
「こう?」
「うん、いい感じ」
不器用に押さえる僕の手に、母がまたそっと添えてくれる。
その温もりと匂いが重なって、胸の奥が幸せでいっぱいになった。
「よし、これでオーブンに入れよう」
扉を閉めると、静かな台所にタイマーの音が響いた。
「おいしくできるかな?」
「きっとおいしいよ。だって、澪が心を込めて作ったんだから」
お母さんが、優しく頭を撫でてくれる。
そうしてくれるだけで、、胸の奥がぽかぽかと満たされていった。
タイマーの針が進む音さえ、僕にはわくわくのリズムに聞こえる。
「焼き上がるまで、ちょっと待っててね」
「うん!」
オーブンの中で、パイが少しずつ膨らんでいく。
甘い匂いが広がるたびに、僕は椅子の上で足をぶらぶらさせながら、待ちきれない気持ちを抑えようとした。
そして、チンと甲高い音が鳴って、オーブンの扉がゆっくりと開いた。
黄金色に焼き上がったパイから、甘い匂いが一気に広がる。
湯気の向こうで、リンゴがとろりと輝いていて、僕は思わず目を丸くした。
「わあ……!」
「熱いから気をつけてね。少し冷ましてから食べよう」
お母さんが切り分けてくれた一切れを口に運ぶと、サクッとした生地と甘酸っぱいリンゴが広がって、今まで食べて来た物の中でも、一二を争うほどにおいしかった。
「おいふぃ」
「ふふっ、おいしいのはわかったから、ちゃんと飲み込んでからしゃべろうね」
「んん!」
口いっぱいに頬張りながらうなずくと、母は楽しそうに笑った。
甘い匂いと温かな味が、一生忘れられない味になって、脳裏に焼きついた。
「澪が手伝ってくれたから、特別においしくなったんだよ」
「ほんと?」
「ほんと。だって、お母さんが作った時よりおいしいから」
お母さんも、アップルパイを頬張って、目を細めた。
「やっぱりおいしいよ。澪と一緒に作ったからだね」
その笑顔を見ているだけで、僕の胸はさらに温かくなった。
甘い匂いとサクサクの食感、そして母の笑顔――全部が重なって、僕の心に深く刻まれていく。
「じゃあ、おおきくなったら、ぼくがおかあさんにつくってあげる!」
「ほんとに?」
「うん、やくそくする!」
僕の言葉に、お母さんは少し驚いたように目を丸くしてから、やわらかく微笑んだ。
「楽しみにしてるね。その時は、澪のアップルパイを一番に食べさせてもらうよ」
この時のお母さんの笑顔は、今でも覚えている。優しくて、温かくて、僕の大切なお母さんの笑顔。
――けれど、この約束が叶うことは無かった。
「いい加減にして! いっつも仕事だからって家族のことをほったらかしにしてる! あなたにとって、家族と仕事のどっちが大事なの!」
「……」
「黙ってないで、何かしゃべってよ!」
僕が大きくなった時には、僕の唯一の居場所だった家は、喧騒が絶えない家になっていて、笑顔になることすら出来なかった。
もう、アップルパイを作るというような空気じゃなくて、両親が僕に求めていたのは、ただ静かに勉強をすることだけ。
この言い争いを止めることも、宥めることも出来やしない。
「それを言うなら、お前は普段何をしているんだ? パートもしないで、澪が学校に行っている間、何もすることは無いはずだろ」
「は? あなたは知らないかもしれないけどね、家事ってものがあるの! それを暇だと決めつけて、ほんと馬鹿なんじゃないの!」
「じゃあ、この金はどこにやったんだよ! この金は、澪の将来のために貯金するって約束だっただろ!」
「それは……」
もし、僕に前世という物が無ければ、どれほど楽だったのだろうか?
前世が無ければ、たくさんの友達を作って今頃友達の家に避難できたかもしれないし――何より、両親が話している言葉の意味がわからなかったはずだ。
でも、現実はそうではない。僕の居場所は、この家以外に無く、両親の間にある問題――そして、最悪の想像もしてしまってる。
昔は、両親の仲が良くて、この家は温かかったはずなのに。
僕は、いったい何を信じたらいいの?
お父さんも、お母さんも……全部、信じられない。




