朝霧
「んっ……うぅ。ゆめ、だったの……?」
重たいまぶたをゆっくりと開けると、見慣れた天井が目に入った。
心臓の鼓動がまだ速く、夢の余韻が身体の奥に残っている。
布団の温もりが現実を引き戻してくれるけれど、胸のざわめきは消えない。
「……どうして、今になって思い出すんだろう」
澪は布団の中で小さく呟いた。
窓の外から差し込む朝の光が、現実を告げているのに、心はまだ夢の中に囚われている。
過去の記憶は、目覚めてもなお、僕のことを縛り続けていた。
「まぁいいや。学校に行こう」
そうして、僕は布団から身体を起こした。
Vtuberになったとしても、学業は決して無視することは出来ず、毎日同じように制服に袖を通す。
聞いた話によれば、先輩方や同期のほとんどはしっかりと大学に通っていて、活動と学業を両立させているらしい。
だからこそ、僕も怠けるわけにはいかない。
……ニヤさんは、単位が足りないって焦っていたけど。
「学業に、配信……それに、ニヤさんに追くって目標もあるし、ゆっくりする時間はないね」
ニヤさんに追いつこうって気持ちは僕の本心だから、毎日努力し続けなければならないし、配信は楽しいから苦しい努力だって続けられる。
画面の向こうで笑ってくれる人がいる――その事実が、僕を支えてくれる。
「それに、ユイさんもいるしね」
冷凍ご飯を電子レンジに入れた。冷凍ご飯は、電子レンジの中でクルクルと回っていて、周りから暖かい光を浴びている。
温め終わった音が響くまで、ぼんやりとスマホの画面を眺める。
配信のコメント欄には、昨日のアーカイブに残された「楽しかった」「また見たい」という言葉が並んでいた。
「よかった。昨日も、みんなを笑顔にできていたんだ」
そうして、僕は朝ご飯として納豆ご飯を食べ終わり、食器を片付けた後、リュックを背負って玄関の方へ歩いて行った。
五月になったはずなのに、その道には冷たい空気が満ちている。
まるで、心の奥に残る夢の影が現実にまで染み出しているようだった。
「それじゃあ、いってきます」
誰もいない家に別れを告げた後、僕は玄関の扉を開いた。
――――――――――――――――――――
僕は一人、通学路を歩いていく。
友達なんていないから、誰にも話しかけられることは無く、ただ靴音だけが静かな朝に響いていく。
『ノアちゃん、何で一人でいるの。一緒に歩こうよ」
このにユイがいてくれたら、そんなことを言ってくれるだろう。
『にゃーっと一緒に、歩こうにゃよ! 一人でいるより、二人でいた方が楽しいのにゃから』
ニヤさんがいれば、こんなことを言っただろう。
『ノア、何か面白いことをしようぜ!』
『フン、我と共に歩む名誉を与えよう』
マサさんや、ユイトさんなら、きっとそんなふうに声をかけてくれる。
頭の中に響く仲間たちの言葉は、現実の静けさを少しだけ和らげてくれる。
けれど、振り返ってもそこには誰もいない。
ただ、朝の冷たい風が頬を撫でるだけだった。
Vtuberになって、初めて仲間が出来た。
友情も、憧憬も、目標も、絆も、今までの僕では手に入れることが出来なかった物を、たくさん貰っている。
それは、とてもありがたいことで、嬉しいこと。
でも……。
――何故か、胸の中がまだ空っぽのような気がする。
仲間の声を思い出すたびに温かさは確かにあるのに、その温かさはどこか外側から差し込んでくる光のようで、僕自身の奥底までは届かない。
笑顔を返すことはできる。感謝を伝えることもできる。
けれど、その中心にいるはずの「僕」という存在が、まだ形を持っていない気がするのだ。
どうすれば、形になってくれるのかわからない。
いや……どっちを選ぶべきかもわかっていない。
僕も、ボクも、どちらも等しく「僕」であり、そこに宿った気持ちに違いはない。
苦しみも、悲しみも、嬉しさも、憧憬も、全て本物――なのに、なんで……。
このままだと、僕はユイさん達の隣に立てない。
もっと明るく、もっとみんなを笑顔にできる存在にならないと。
そう思えば思うほど、胸の奥の空洞は広がっていく。
理想のボクを追いかけるはずなのに、足元はまだ夢の影に囚われたままだ。
校舎が近づくにつれて、ざわめきが耳に届く。
笑い声、呼びかけ、教室へ急ぐ足音――そのどれもが、僕には遠い世界の音に聞こえた。
もし、このまま何も変われなかったら……。
「……いや、変わらなきゃ」
小さく呟いて、僕は歩幅を少しだけ速めた。
冷たい風が背中を押すように吹き抜けていく。
その痛みすら、僕にとっては前へ進むための合図だった。




