喫茶店にて3
配信が終わり、ニヤさんと少し話し終わったのは二十時ちょうど、この時間なら未成年な僕でも外に行くことが出来る。
「じゃあ、行ってきます」
僕は、誰もいない家に声をかけるようにして玄関を出た。
返事が返ってくるはずもないのに、そうしないと落ち着かなかった。
夜の空気は昼間の熱をすっかり失い、ひんやりとした風が頬を撫でる。
本当は、こんな夜に出歩くのは好きじゃないし、今すぐに家へと帰ってしまいたい。
けれど、今日を逃せば次はいつになるか分からない。
学業に追われ、配信に追われ、気付けば時間は指の隙間から零れ落ちていく。
それに、後回しにしてしまうと、きっと間に合わなくなってしまう。
「いらっしゃいませー」
そこは、電車で二十分くらいの場所にある喫茶店。
近くには、僕が所属している事務所があり、この店には一度だけ入ったことがある。
店内は落ち着いた照明に包まれていて、カウンターには常連らしき客が一人、窓際の席には数冊の本を広げた学生が座っていた。
コーヒーの香りが漂い、胸の奥にわずかな安堵をもたらす。
けれど、僕の視線はすぐに一点に吸い寄せられる。
「やあ、遅かったじゃないか」
「莉緒さん……」
その笑みは柔らかいのに、瞳の奥には相変わらず鋭い光が宿っている。
「先に来てたんですね」
「当然だよ。だって、可愛い後輩の相談なんだ。そんなもの、他の予定より優先するに決まってるよ」
「……本音っぽいのがムカつきます」
「ハハッ、それは褒め言葉として受け取っておくよ」
莉緒は肩をすくめ、カップを軽く揺らした。
氷が小さく音を立て、店内の静けさに溶けていく。
「それで、わざわざこのボクを呼んだんだ。お互いに有意義な時間にしようよ」
そうだ。これは、莉緒さんが誘ってきたからじゃない。
僕が莉緒さんを誘ったから、この喫茶店で対面しているんだ。
胸の奥がざわつく。
自分から誘っておきながら、いざ向かい合うと、言葉が喉に引っかかって出てこない。
莉緒さんはカップを置き、身を乗り出すようにして僕を見つめた。
その瞳は笑っているのに、奥底では一切の逃げ道を許さない光を放っている。
「君がこのボクを呼んだ理由――聞かせてもらえるんだろう?」
視線を逸らしたくなる。けれど、ここで逃げたら意味がない。
僕は深く息を吸い込み、テーブルの下で握りしめた拳に力を込めた。
「凄く癪なんですけど、前に莉緒さんが言っていた言葉――孤独の猫の意味がわかりました」
「うんうん、それで?」
「今回は、その意味がわかりました。でも、次も同じように気付けるとは限らない。だから――残り二つの言葉、
弱さを隠している子供と平凡な凡人について、教えてほしいんです」
言い終えた瞬間、胸の鼓動がやけに大きく響いた。
莉緒はしばらく黙ったまま、カップを指先で回していた。
氷が小さく音を立て、沈黙を際立たせる。
「……なるほどね」
やがて、莉緒は口元に笑みを浮かべた。
「いいよ、ボクが言ったことだし。でもね、そのまま言ったら面白くない。だからさ、ヒントを言うよ」
莉緒はカップを口に運び、一口だけ飲んでから、わざと間を置いた。
その沈黙が、僕の心臓をさらに早く打たせる。
「君は、狂人とは何だと思うかい?」
「狂人……ですか?」
「そう、狂人。何でもいいから、言ってみなよ」
急に投げかけられた問いに、言葉が喉でつかえる。
狂人――その響きは、どこか遠いもののようでいて、妙に身近にも感じられた。……いや、実際に身近にある。
「それは、莉緒さんのことでしょう?」
「ああ、そうだった。否定できる材料がどこにもない。でも、そういうことじゃないんだ」
莉緒はカップを置き、指先でテーブルを軽く叩いた。
そのリズムは、まるで僕の答えを待つ鼓動をなぞるかのように。
「狂人にもいろいろなタイプがある。ボクみたいな何を考えているのか、全く理解できないタイプもいれば――三期生でのコラボの時の猫塚ニヤのような、予想外の行動ばかりするタイプもある」
莉緒は愉快そうに笑っている。この話の何処に、笑える場所があるのか……。
「猫塚ニヤが狂人を演じていた理由はわかるだろ? 彼女は、自身の優秀さを隠すため――つまり、本来の自分の力を隠すために狂人を演じていた。……そういえば、三期生にはもう一人、予想外の行動ばかりするタイプの狂人がいたよね」
――近藤マサ
彼は、ニヤさんと同様……いや、それ以上に狂った行動をしていた。
もし、それが本来の自分の力を隠すためだとしたら……。
「あと、他人とは全く違う、特徴的な言動をするタイプもある。このタイプはボクに少し似ているよね。だって、内心を推し量ることが難しいんだからさ。……確か、君の同期にもいたはずだろう? 中二病のような言動をする人物が」
――黒木ユイト
彼は中二病のような言動をして、何を考えているのかよくわからないこともあった。
それが、自分のことを他者に知られたくないからだとしたら……。
「とはいえ、猫塚ニヤを含めて――これらの人物は狂人と呼ぶには正しくない。言うならば、ファッション狂人とても言うべきだよ」
「それを言うなら、莉緒さんもファッション狂人では?」
思わず口をついて出た言葉に、莉緒は目を細め――次の瞬間、声を立てて笑い出す。
「アハハッ、いいねぇ。君からそんな言葉が出るとは思わなかったよ。確かに、ボクは狂人である利点を最大限に利用している。だからこそ、あの冴ですら、ボクの本心を察することが出来ない。でもね、ボクは正真正銘、狂人なんだよ。何故なら――狂人という言葉は、行動の指針たる信念が、他者と大きく外れている人間のことを示す言葉なのだから」
「信念、ですか……?」
「そうさ、それがあるからこそ、狂人は狂人になり得る。二期生がいい例だよ。彼らは全員がそれぞれ、普通から外れた信念を持っている。だから、彼らは皆狂人なんだよ」
「それなら……莉緒さんの信念は?」
思わず、口からそんな言葉が漏れ出てしまう。
その問いに、莉緒は一瞬だけ動きを止めた。
「……ボクの信念、か」
低く呟いた声は、いつもの軽やかさを欠いていた。
けれど次の瞬間には、彼女は再び笑みを浮かべていた。
「本当に知りたいのかい?」
その声音は、冗談めかした調子を装っているのに、奥底では鋭い刃のような緊張を孕んでいて、僕は思わず息を呑む。
「……知りたいです」
自分でも驚くほど、声は震えていた。
「アハハッ! いいよ、教えてあげる。大サービスだから、聞き逃さないでよ」




