【金狼】ベオ・オーリス
ベオ・オーリス――それは、僕が所属している事務所における一期生の名前。
チャンネル登録者五十万人を超え、この事務所の中で二番目に多い人物だ。
けれど、彼女がどんな人物なのか説明できる人は少ない。その理由は、彼女の性格がとてもつかみにくい物だからだ。
口から発する言葉には、本当のことも、嘘も、そしてそのどちらでもないものさえ混ざっている。だからこそ、誰もが彼女を理解したつもりになりながら、結局は振り回されるのだ。
ただ唯一、ファンの人たちに理解されているのは、性格がとっても悪いということだけ。
「あれれ? どうしたの、急に黙っちゃって。………さっきみたいに怒りをぶつけてきてよ。それとも、偉大なる先輩だということがわかって、怯えてしまったのかな?」
「……怯えてなんか、いません」
胸の奥で渦巻く怒りが、恐怖を押しのけていく。
今は、この怒りに感謝したい。この感情があるからこそ、人見知りの僕でも、この先輩と向き合って言葉を返せるのだ。
「そう? それならよかったよ。これ以上、失望しないでいいからね。それに、君は喜ぶべきだよ。ボクが期待しているのは、君と今のユイだけ……それ以外の人物には、全く期待していないからね」
「それは……二期生の人たちも、期待していないんですか?」
「ハハッ、いい質問だね。――そうだよ。ボクは彼らに全く期待してない。でもね、その理由は三期生とは全く違う。ただ単に、彼らとボクの期待している人物像と、タイプがかけ離れているだけなんだ。だから、ボクは彼らに期待はしていないけど、それ以上に認めているんだよ」
その言葉には、侮辱では無く敬意のようなものが含まれていた。
だからこそ、ますます莉緒のことが理解できない。彼女には独自の基準があって、それで他者を測っているのだと思っていた。
けれど、その基準から外れていても、なお高く評価する――その矛盾が、僕の頭を混乱させた。
「あなたは、いったい……」
そんな時だった。
ドアが勢いよく開き、人影が僕の前に――僕のこと庇うように立ちはだかった。
「れ、零さん?」
「また会ったね、澪ちゃん。だけど、再会の挨拶はまた後で」
それは、僕の同期――月夜ユイを演じる彼女だった。
思わず息を呑む。なぜ、彼女がここに……?
「莉緒さん……澪ちゃんに、何をしたんですか?」
「何って、ただの世間話だよ。暴力なんて振るってないし、悪口すら言ってない。ボクが責められるいわれはないよ。……むしろ、少しは感謝してほしいくらいだね。だって、アドバイスをしたくらいなんだから」
二人のやり取りは、旧知の者同士にしか見えなかった。
その事実が、僕をさらに混乱させる。
「あと、久しぶりに会ったんだから、再会の挨拶くらいあっていいんじゃないか?」
「あなたに対するいい思い出なんてありませんから」
「ああ、思い出したよ。ボクは君に嫌われているんだった。あの葬式から追い出されるくらいには」
「あれは、あなたの自業自得ですよ」
零さんの声は冷たく、迷いがなかった。
その一言に、莉緒は一瞬だけ目を細め、すぐに愉快そうに笑みを浮かべる。
「アハハッ! 確かにそうだ! アレはボクが悪い。まさか、ここまで言い返されるとは思わなかったよ! やっぱり君は予想外のことばかりしてくる。姉が生きていた頃とは大違いだ!」
「姉さんのことを……軽々しく口にしないでください!」
零さんの声が震えた。怒りか、悲しみか、僕には判別できなかった。
けれど、その一瞬で空気が張り詰め、莉緒の笑みすらも凍りついたように見えた。
「軽々しく? 違うよ。ボクは君の姉と友達だったからね。死んだと聞いた時は本当に悲しんだよ。もちろん、あの子が君のことを誰よりも大事にしていたことも知ってる。でも……いや、だからこそ――」
「莉緒」
そんな時、空いたドアから女性の声が響いた。
現れたのは、鋭い眼差しを持つ長身の女性だった。その姿を見た瞬間、莉緒の笑みがわずかに引き締まる。
「おや、冴じゃないか。アップルパイを食べるかい?」
「社長が呼んでいる。さっさと戻れ。それに、後輩をいじめるのをやめろ」
その声音には、感情の揺らぎが一切なかった。
まるで氷の刃を突きつけられたようで、僕は思わず息を呑んだ。
「相変わらず、つれないなぁ。それに、ボクは後輩のことをいじめてないよ。ね? 零」
「……」
「わぁ、とぉっても嫌われてたみたいだ」
莉緒が肩をすくめて笑う。
零さんは唇を噛みしめ、視線を逸らした。その沈黙が、かえって答えを示しているように思えた。
「……くだらない。そんなことをして何になる?」
「何になる、か……フフッ、冴ですら気付かないんだね。それなら、ボクの本音をわかる人なんて、いないってわけだ!」
「正直に答えろ!」
「正直に、か……。まぁ、それもいいけど、良い先輩ぶるのはやめたほうがいいよ。そもそも、勝手に期待して失望しているボクと、そもそも他人に期待をしない君では、どっちの方が優しいのかな?」
莉緒は口元に笑みを浮かべ、わざとらしく首を傾げた。
冴の瞳が細められる。氷のような沈黙が、部屋を支配する。
「まぁ、いいや。今日はここまで。ノア、これを持っときな」
そう言って、莉緒はくちゃくちゃにされて、丸くなった紙を僕に渡してきた。
「それは、ボクの連絡先だから、困ったことがあったら連絡してきて。先輩として、誠心誠意対応するからさ。……三期生のこととか、教えてあげるからね」
そう言って、莉緒は部屋の外へ出てく。
僕は、渡された紙を開く勇気が出ず、ただ握りしめることしかできない。
「じゃあね、ばいばい」
扉が閉まる音が響き、部屋に静寂が戻る。
冴は何も言わず、ただ鋭い視線を扉の方へ向けていた。
「もう戻ってくる気配は無いな。零、大丈夫だったか? それに……ノアも」
「はい……ありがとうございます。冴さん」
「そうか、それならいい」
そう言って、冴は部屋から出ていった。残されたのは、僕と零さんだけ、静寂の中で、握りしめた紙がやけに重く感じる。開けば何かが変わる気がして、けれど指先は動かなかった。
「……澪ちゃん」
零さんが小さく僕の名を呼んだ。
その声は震えていて、さっきまでの強さが嘘のようにかすれていた。
「さっきのこと……気にしないで。あの人は、昔からあんな感じで、他人を煽ることを趣味としていたから」
「う、うん。零さんは、大丈夫?」
「私? 私は、何回も経験したことだから……。ただちょっと休憩したいかも。近くの喫茶店でも行かない?」
零さんの声はかすれていたけれど、その瞳には僕を気遣う色があった。
僕は小さく頷き、握りしめていた紙をポケットに押し込む。
まだ開ける勇気は出ない。けれど、今は――零さんと一緒に外の空気を吸いたかった。
「……うん、行こう」
そうして、僕たちも部屋の外に出た。




