狂狼
そうして、僕はその人物に導かれるように歩き出した。
案内されたのは、何の変哲もない部屋。白い壁と、簡素な机と椅子。窓から差し込む光も、ごく普通のものに見える。
「立ったままだと疲れるでしょ。いいよ、座って。アップルパイを持って行くから」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、妙に背筋がこわばった。ただの机と椅子、ただの白い壁。
けれど、そこに置かれるはずのない甘い香りが、部屋の空気を支配していく。アップルパイの匂いが、なぜか逃げ場を塞ぐように思えた。
「あ、聞くのを忘れていたよ。アップルパイは嫌いじゃないかい?」
首を縦に振る。
「そうか、それならよかったよ。せっかくボクが作ったんだから、食べた人には喜んでほしいからさ」
そう言って差し出された皿から、甘い香りがさらに濃く漂う。 けれど、その笑みの奥に潜む鋭さが、どうしても僕を安心させてはくれなかった。
フォークを手に取る指先が、わずかに震えているのが自分でも分かった。
「それで……話って何ですか?」
僕の問いに、彼女は小さく笑った。
「ハハッ、やっと声を出してくれた。言葉を発することが出来ないのかなと思っていたよ。――それに、話ってのはたいしたことじゃないさ」
軽く肩をすくめる仕草とは裏腹に、その瞳は鋭く僕を射抜いてくる。
「前にあった三期生とのコラボ……あれを経験して、君がどんなことを感じたのか。それを、少し聞いてみたいだけなんだよ」
軽く言い放つその声音に、僕は小さく息を呑んだ。ただの感想を求めているように聞こえるのに、瞳の奥に潜む光は、僕の心の奥底まで暴こうとしているようだった。
言葉を選ばなければならない――そんな直感が背筋を冷たくする。
「……感想、ですか」
「ああ、そうだよ。なに、簡単なことでいい。楽しかったとか、あの人はすごかったとか」
軽く言われたはずなのに、胸の奥に重石を置かれたような感覚が広がる。答えを間違えれば、すぐに見透かされてしまう――そんな予感があった。
喉がひどく乾いて、言葉を紡ぐまでに妙な間が生まれる。
「……楽しかった、とは思います。でも……正直、圧倒されました。自分との差を、嫌でも思い知らされたというか」
言葉を選びながら答えると、彼女は目を細めて微笑んだ。
その笑みが肯定なのか、嘲笑なのか、僕には判別できなかった。
「へぇ、それはどんな?」
「それは……ユイトさんやマサさんは、それぞれ揺るがない自分の世界を持っていて。ニヤさんは一見ふざけているように見えても、実際は周囲をよく見ていて、空気を崩さない。ユイさんは僕たち全員を自然にまとめてくれるし……。そういう全部が、僕には到底できないことなんです」
僕の本音。口にした瞬間、胸の奥が少し軽くなると同時に、強烈な後悔が押し寄せた。
言わなければよかったのかもしれない――そんな思いが喉元まで込み上げる。
――でも、そんな思いは、良くも悪くも一瞬で吹き飛ばされた。
「アハハッ! 面白いな。そう感じるってことは、まだ周りが見えていない証拠だ! 月夜ユイとのコラボで見せた洞察力はどこにやった? アレは一夜限りの夢だったのか? それとも、ただ単に――君が臆病で、気付いたことから目を逸らしているだけか?」
目の前の人物は、肩を震わせながら笑い続けていた。
その笑いは明るいのに、どこか冷たく、常識から外れた響きを帯びていた。
「ほんとうに、ばからしい! 初めてのコラボを見た時は、やっとボクが待ちわびていた人物が来たと思っていたんだ! だけど、まったくの期待外れだ! 勘違いも甚だしい!」
「……っ」
そう言いながらも、彼女は楽しげに笑い続けていた。
怒りではなく、愉悦。僕を突き落とすこと自体が、この人にとっては最高の遊戯であるかのように。
「期待したボクが愚かだったのかもしれないね! だって、彼らの本質は――孤独の猫に、弱さを隠している子供、平凡な凡人だと言うのに! せいぜい月夜ユイくらいだよ、前を向けて歩けているのは!」
それを聞いて、心の奥底から怒りのようなものがこみ上げて来た。胸の奥が焼けるように熱くなり、喉の奥がひりつく。
それは怒りなのか、悔しさなのか、自分でも判別できない。
ただ一つ確かなのは――このまま黙っていることだけは、耐えられなかった。
「そんなことありません! あの人たちはとっても凄い人なんですから!」
でも、目の前の人物は笑うことをやめなかった。
「いいや? 確かに、彼らは彼らだけの強みを持ち合わせている。だけどね――何一つ生かせていない。このままじゃ、その強みは土の中に埋もれたまま、二度と芽を出すことなんてないんだよ。それに、たった一回会っただけで、君は彼らの全てを理解したというのかい?」
胸の奥がざわめき、言葉が喉に詰まる。
否定したいのに、すぐには言葉が出てこなかった。
「何か言い返してみなよ」
「……貴方だって、あの人たちに会ったことがないじゃないですか」
「おお、いいじゃないか、その調子だよ。確かに、ボクは彼らと出会ったことが無い。だけどね、彼らの配信を何度も見返し、ボクの立場を最大限に活用して、オーディション記録さえ確認した。――だからこそ、君よりも彼らの本質を知っているつもりだよ」
胸の奥がさらにざわめき、拳を握りしめる。 言い返したはずなのに、またしても押し返される。悔しさと怒りが混ざり合い、喉の奥が焼けるように熱くなる。
――その時、ふと気づいた。この異様な確信、情報への執着、そして人を愉快そうに追い詰める姿勢。今までのやり取りの中で、目の前の人物が何者であるのか、ようやく理解できた。
「狂狼……」
「アハハッ、やっと気づいたんだ。だけど、その呼び方は好きじゃないんだ。ボクは【金狼】ベオ・オーリス。本名――鏡見莉緒。覚えておくといい、君がここにいる限り、ボクの名は何度でも耳にすることになる」
そうして、莉緒は立ち上がり、わざとらしく――とても優雅に頭を下げた。
「この先も、君と関わり続けることになるだろう。――どうか末永くよろしく頼むよ」




