痛みと麻酔
「は? 冗談でしょ?」
声が裏返った。
自分でも驚くほど、情けない声だった。
「……本当の、ことなんだ」
冴の声は低くて、震えていて、いつもの冷静さなんて欠片もなかった。
「嘘だ! 冴、君は、ボクがつまらない冗談が嫌いってことを知っているよね!」
叫ぶように言った。
言葉をぶつければ、冴が否定してくれると思った。
「……」
でも、冴は何も言わなかった。その沈黙が、何よりも残酷だった。
一人暮らしのアパートの部屋で寝ていると、急に冴が家に来て、美咲が事故で死亡したと言ってきた。
でも、そんなこと――信じられるわけがない。
だって、昨日まで普通に話していたんだ。零の話をして、くだらないことで笑って、いつもみたいに拳を振り上げて、ボクを殴る寸前までいって――そんな人間が、今日いきなりいないなんて、そんなの、ありえない。
(冴の冗談……じゃない。冴が嘘をつく理由なんて、どこにもない)
頭がぐちゃぐちゃになっていく。理解したくない。でも、理解してしまう。
冴の顔が、泣きそうに歪んでいた。ボクや美咲以外から見れば、いつもと変わらない表情だと思うかもしれないが、ボク達から見れば、それは見たことの無い表情だった。
「本当に、死んだんだね」
「ああ、歩道に突っ込んで来る車から、零を庇ったことで死んだらしい」
本当に、美咲らしい死に方。
常日頃から、死ぬときは零を庇って死にたいと言っていたから、その望みが叶ったことには祝福すべきなんだろう。
――そんなわけ、ない。
胸の奥が、じわりと熱くなった。
怒りなのか、悲しみなのか、混乱なのか、
自分でも分からない感情がぐちゃぐちゃに混ざって、
喉の奥にせり上がってくる。
(なんで……なんで本当に叶えるんだよ)
美咲の言葉は、いつも大げさで、冗談半分で、狂気じみていて、でも、どこかで「本気じゃない」と思っていた。
だって、あいつは強くて、明るくて、うるさくて、しぶとくて、絶対に死ぬような奴じゃなかった。
「……冴。零は?」
声が震えた。
聞きたくないのに、聞かずにはいられなかった。
冴は少しだけ目を伏せて、ゆっくりと答えた。
「……病院だ。怪我は軽い。だが……精神的には、かなり……」
言葉を濁した。
冴が言葉を濁すなんて、初めて見た。
(そりゃそうだよ……)
零は、美咲に守られて生きてきた。
美咲の愛情は重すぎて、狂っていて、でも、零にとっては、何よりも大事な姉だったんだから。
「ただ、会うことが出来ない。精神的に追い込まれているせいで、家族以外は面会できなくなっているから……」
「は? 家族って、あのゴミ共のこと?」
「ああ。病院側は家族の判断を優先すると言っている。だから、零と会えるのは……葬式だけだな」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
(……ふざけるなよ)
零は、あの家族に愛されたことなんて一度もない。
無関心か、否定か、放置か。
美咲がいなければ、あの家はとっくに崩壊していた。
(なんで……なんでこんな時に限って、ボクは何も出来ないんだよ)
拳を握る。爪が掌に食い込む。
痛みなんて感じない。
「葬式は?」
「……三日後だ」
「了解」
ボクは覚悟を決めたんだ。
三日後、葬式の日。美咲の死と、零の絶望を、この目で受け止める覚悟を。
――――――――――――――――――――――――
「憎いね。この天気は」
「……ああ、そうだな」
三日後の葬式の日、空は雲一つない快晴で、まるで世界が何も知らないまま、勝手に明るさを押しつけてくるみたいだった。
青すぎる空が腹立たしい。
太陽の光が眩しすぎて、目の奥が痛む。
「ここだな」
「そうだね、日向美咲って書いてある」
会場の前に立つと、胸の奥がぎゅっと縮むような感覚がした。遅れてしまった理由なんてどうでもよかった。
「入るぞ」
冴が先に一歩踏み出す。その背中はいつも通り冷静に見えるけれど、肩がほんの少しだけ強張っていた。
会場の扉を開けると、そこでボク達は――人の悪性を見た。
「何でお前なんかが生き残ったんだ!?」
「美咲の方が価値があることがわかんないの!?」
「お前の唯一の価値は、姉の身代わりになれるということだけだったのに、どうして無能のお前が生き残るんだ!」
「何か言いなよ! 無能のお前が、姉を殺したんだから!」
「この人殺し!!」
まだ中学生の零が、親や親族から言葉という名の暴力を浴びせられていた。零は俯いたまま、ただ立っていた。
反論もしない。
泣きもしない。
怒りもしない。
伽藍洞の人形のように、ただ立っていだけだった。
(ああ、折れたな)
それを見て、ボクの頭は冷酷な判断を下してしまう。
美咲が好きだと言っていた、零が諦めずに努力をし続けるところ。どれだけ才能がなくても、どれだけ結果が出なくても、それでも前に進もうとする、あの子の強さ。
美咲が誇りにしていた、零の芯の部分。
それが――あのゴミ共のせいで、完全に折られてしまった。
(そっか……なら、これはボクの役目だな)
「待って!」
ボクが彼らのところへ歩みを進めた時、冴がボクの手を掴んだ。いつもなら「待て」とでも言っていたはずなのに、今の声は弱々しくて、焦りしか含まれていなかった。
それもそのはずだろう。冴は、人の悪性を見たことが無い。冴は頭がいいから、あんなことをする合理性を見いだせないし、頭が良すぎるから、他人が嫉妬することさえ許さなかった。
だから、人がここまで醜くなれるという現実を、知らない。
「それは……駄目だ」
「いや、これが最善だよ。零のことは、任せたから」
でも、冴は天才だ。人の悪性を見て混乱していても、ボクが考えていることを読むことは出来る。
……そして、それがどんな結果をもたらすことが出来るのかを。
冴が手を離す。ボクのことを止められないと理解して、弱々しく、悔いがあるように。
ごめんね、冴。そして……美咲も。君の葬式、全部全部壊してしまうし……零をさらに傷つけてしまうから。
(でも、これは……巡り巡って、零のためになるはずなんだ。だから、許してほしい)
「アハハッ! 君たち、そんな無駄なことをしているの?」
出来るだけ声を張り上げて、ボクはそう口にした。明るく、楽しそうに、ゴミ共の怒りを煽っていけ。
「まっさか、自分より弱い物に怒りをぶつけるなんてことをしてないよね? アハハッ! それなら、ダサすぎるよ。大の大人ともあろう人たちが、そんなことをするなんてね」
親族たちがこちらを睨む。
怒りで顔を真っ赤にしている。もう、彼らの眼には、零の姿が映っていない。
その反応を見て、ボクはさらに笑った。
「うーん、それなら、君たちはなんでこんなことをしているのだろうか? 零を傷つけたら美咲が蘇ってくると思ってるの? アハハッ! 変な宗教みたい。あ、もしかして! 本気で零が悪いと思ってるの? それなら、頭が悪すぎるよ。美咲とは、比べ物にならないほど。……あ、自分は関係ないみたいな顔をしている美咲の母親らしき人もいるけど、いくら泣いても、あの人は帰ってこないから、やめたほうが良いよ」
ゴミ共の劣等感を煽る。
いくら美咲が天才だったとしても、所詮は二十歳そこらの小娘だ。そんな人物に追い抜かれていることに、彼らが劣等感を抱かないはずがない。
それに、表面上は何もしていなくても、見て見ぬふりをしている零の母親も、こいつらと同類であることには変わりない。
(零は……うん、冴が近くにいるから大丈夫だね)
だから、ボクは笑いながら、さらに踏み込んだ。
「ねぇ、君たち。どうしてそんなに怒ってるの? 零が生き残ったから? 美咲が死んだから?」
わざと無邪気に、首を傾げる。
「違うよね。本当は――美咲みたいになれなかった自分が許せないんだよね?」
親族たちの顔が、一瞬で強張った。
「だってさ、美咲は君たちより若くて、何より、女性だった。女なんかに俺が負けるなんて、あの女より、わたしの方が下だなんて。男女問わず、君たちはそんなことを思ってたんじゃないの?」
笑いながら、淡々と事実を突きつける。
「ねぇ、悔しかったんでしょ? 自分よりも下の人物に、すべて負けてしまって。だから、自分のプライドを守るために、美咲が一番大切にしてた零に八つ当たりをしているんだ。アハハッ! ほんと、馬鹿みたい。嘘と虚勢だけで作られたプライドに、どんな価値があるって言うの?」
だから、零。君は悪くないんだよ。全部、アレが悪いんだから。
その一言を落とした瞬間―― 親族の一人の顔が、ぐしゃりと歪んだ。
「てめぇ……」
低い声。怒鳴り声ではない。理性が壊れる直前の、獣の声。
ボクはにこりと笑った。
「どうしたの? 顔、真っ赤だよ。あ、もしかして――図星?」
「黙れッ!!」
男が怒鳴った。声が裏返っている。怒りじゃない。
羞恥と劣等感が混ざった悲鳴だ。
「美咲に負けたのがそんなに悔しかった? 若い女に全部追い抜かれて、何もできなかった自分が許せないんだよね?」
「違うッ!!」
「違わないよ。だって、零に怒ってる時点で――自分の無能さを認めてるってことだもん」
「テメェ……!」
男の拳が震えた。殴りかかる寸前の、あの独特の呼吸。周囲の親族もざわつき始める。
「お前みたいなガキが……! 何も知らないくせに……!」
「知らないよ? でも、美咲は知ってたよ。家族の中で一番まともなのは自分だけだって」
「ッッ!!」
男の目が完全に血走った。もう、零のことなんて見えていない。ボクしか見えていない。
走る、拳が近づく。でも、本当に足元がおろそかだ。
「ほら」
足を引っかけたら、すぐにこけてしまう。
上しか見なくて、下から追い上げようとしている零を見ない人たちには、ふさわしいこけ方だ。
「しっかりしないと。だから、美咲の方が結果を残すんだよ。これを機に反省して――っと」
バシッという音と共に、誰かに頬を叩かれる。
叩いた人の方を見ると、冴の手を振りほどいた零が、ボクの顔を叩いていたんだ。
「姉の……姉さんの葬式をめちゃくちゃにしないでっ!」
痛みは無い。だって、零が自分の意志で動いたんだ。喜び以外のものがあるわけない。
(よかった、ちゃんと、中身が戻ってきたね)
最初の時みたいに、空っぽで今すぐに死んでしまいそうな姿じゃない。たとえ、中に宿るのが怒りだったとしても、今の方がずっといい。
……零に拒絶された悲しさは、ない。……元から嫌われていたから、耐えられるはずだ。
「へぇ、君がそんなことを言うんだ。アハハッ! やっぱり面白いね!」
できれば、この言葉でかつての零に戻ってほしいけど、たぶん無理だよね。
全く、天才に追いつこうとしないのなら、せめて努力している人の足を引っ張らなんでくれ。
「その言葉に免じて、ボクは出ていってあげるよ。君たちも零に感謝するんだね」
そして、ボクは式場の外へと向かって行く。
「冴、後は任したよ」
「……ごめん」
ごめんなんて、らしくない。それに、冴はこういう立ち回りに適してないよ。君はみんなの前で輝くべき人物なんだから。
こんなことをするのは、ボクだけでいい。
(……ばいばい、美咲。ボクの大切で大事な友達)
そんな言葉を思いながら、ボクは式場を後にした。
……悔いは無いとは言い切れない。でも、ボクがすべきことは全部できたはずだ。友達をしっかり見送りたかったという思いは、胸の奥にくすぶっていたけど。




