表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク  作者: 揚羽(ageha)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/12

ジャガーとねこちゃん

 昼下がりの浦和は、相変わらず淡々としていた。太陽だけが機嫌よく、ジャガーXJのボンネットにためらいのない光を落とす。磨いた黒に空が二つ映り、それを眺めていると、胸の奥の重さが少し抜けた。そのとき、事務所の前で杖をついた老女が足を止めた。よた、よたと近づき、エンブレムを見つめて目を細める。

「まあ……かわいいねぇ。このねこちゃん」

そう言って指先でなぞり、商店街へ向かっていった。こういう触れられ方をする日は、だいたい悪くない。胸の奥に、あたたかいものが残った。


 その少し前の話だ。充希は商店街を歩いていた。買い物袋を下げた手に力が入り、運転のことを考えると呼吸が浅くなる。免許は取ったが、ハンドルを握ると体が固まる。八百屋の前で足が止まり、店主に声をかけられた。

「車、こわいんだって?」

うなずくと、

「あんたなら大丈夫。考えすぎるくらい、ちゃんとしてる」

落ち着いて話を聞いてくれる人を探している、と充希が口にすると、角の細道にある俺の事務所の名が出た。文房具屋でも同じ名を聞いたという。

「聞き上手で、急かさない」

それだけで、足は前に出たらしい。


 事務所の前で、充希は一度立ち止まり、息を整えてからノックした。

「……すみません。車のことで相談があって」

扉がきしみ、俺は顔を出した。道路に出ると頭が真っ白になるという話を、遮らずに聞く。俺はうなずき、

「じゃあ乗ってみるか。ねこちゃんに」

と言った。助手席に乗せ、浦和の外れへ向かって走り出す。流れを急がせない。だが、赤信号のたび、充希の肩はわずかに跳ねた。前を見る目が定まらず、標識や対向車を追いきれない。

ブレーキを踏む間。ウィンカーを出す呼吸。右折で読む相手の気配。それらが一度に押し寄せ、彼女の中で絡まっているのがわかる。

「……見てるだけなのに、苦しいです」

「最初はそうだ。情報が多すぎる」

その一言で、張りつめていた背中が少し沈んだ。広い駐車場に入り、車を止めると、充希は小さく息を吐いた。

「……向いてないのかもしれません」

「向いてない人は、怖がらないぜ」

俺はそう言って、ハンドルを差し出した。

「震えていい。止まってもいい」

充希はしばらく黙り込み、それから、意を決したように手を伸ばした。シートに深く腰を落とし、両手でハンドルを握る。十時十分よりも、少し下。力が入りすぎて、指先が白くなる。

「……重いですね」

「車じゃない。責任だ」

ギアをDに入れる音が、やけに大きく響いた。アクセルに触れた途端、足が引っ込む。

「今のは失敗じゃない。確認だよ」

もう一度、踏む。ほんのわずか。車体が、息をするように前へ出た。

「……動いた」

「動かしたんだ」

数メートル進んで、止まる。ブレーキが強すぎて、体が前に揺れた。

「ごめんなさい」

「誰にだ?」

答えられず、充希は唇を噛んだ。

「ブレーキは逃げ道じゃない。安心を作る道具だ」

再び、前へ。今度は速度が出なさすぎて、エンジンが不満そうに低く唸った。

「遅くて、迷惑じゃ……」

「ここは練習場だ。誰にも迷惑じゃない」

円を描くように走らせる。右に切りすぎ、戻しすぎ、蛇行する。

「視線が足元に落ちてる」

「こわくて……」

「だからこそ、先を見る」

言われた通り、遠くを見る。不思議と、ハンドルの揺れが小さくなった。白線をまたぎ、止まり、やり直す。何度も, 何度も。失敗のたび、呼吸が浅くなり、目が潤んだ。それでも充希は、ハンドルから手を離さなかった。

「もう一回、いいですか」

「もちのろん」

アクセル。ブレーキ。曲がる前に、心で決める。今度は、きれいに止まった。街灯がすべて灯るころ、充希はハンドルに額をつけ、長い息を静かにこぼした。

「……できないと思ってました」

「できてないのは、怖がらないことだけだ」

彼女は、泣きそうな顔で、でも少しだけ笑った。

「よく頑張ったな」

「……ありがとうございました」


 帰り道、表情はすっかりやわらいでいた。

「車って、こわいだけじゃないんですね」

自由と責任の話をすると、はにかんだ。

「ねこちゃんって呼んでいいですか」

「好きにしな。名前より中身が大事だぜ」

慣れても安全運転だと釘をさすと、素直な返事が返ってきた。群青の空をXJは静かに走る。不安は消えないが、前に進むきっかけにはなっただろう。送り届けたあと、俺は事務所へ向けてハンドルを切った。いつもより、少しだけやわらいだ走りだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ