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浦和探偵事務所帖 ぱぁとわん 萬屋マイク  作者: 揚羽(ageha)


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5/12

背中が語ること

 浦和の午後の商店街で、和三盆クッキーののぼり旗が揺れていた。風はほとんどなく、遠くの出来事を伝える合図のように、かすかにたゆんでいる。探偵事務所の扉を押すと、空気が沈んだ。古い紙と珈琲の香りが重なり、誰にも触れられてこなかった時間を守っているように感じられた。時計の針だけが、足音を消すように時を刻んでいた。扉を開けたのは、菜名だった。

「……あれ? 喫茶店じゃなかったんですね」

立ち去ろうとする気配は軽かった。俺は片手を上げて制し、ソファーを指した。菜名は意味を確かめるように近づき、腰を下ろした。俺が考えを整えるあいだ、彼女は黙って待った。

「ようこそ。珈琲でいいか」

「う、うん」

静けさがほどけ、愚痴が流れ出した。

「うちの部長、ほんと使えないんです。遅いし、古いし、空気読めないし……支えてるとか言ってるのが、寒くて嫌なんです」

強い言葉の奥に、迷いと疲れがにじんでいた。

「そうか。人を切り捨てるってのは、見えないもんを見落とすこともある」

菜名は鼻で笑ったが、眉の曇りは消えなかった。珈琲を飲み干すと、疑念だけを残して帰っていった。


 ため息が室内で消えた。平穏がいちばんだと胸では思ったが、奥にざらつきが残った。使えねえ部長さんの実像を確かめる必要があった。オフィスへ向かう前、自動販売機の前に立ち、缶コーヒーのボタンに指を伸ばした。

「それね、当たりが出やすいのよ」

掃除をしていたおばちゃんが言った。

「ほんと?」

缶は落ちてきたが、当たりランプは光らなかった。

「今日はハズレの日みたいだねぇ」

おばちゃんは笑った。俺は缶を取り出し、ポケットにしまう。

「人生も似たようなもんだな」

言葉は夜気に吸い取られた。誰もいないビルの廊下。人気の消えたオフィス。掲示板に落ちる光。使えねえ部長さんは、そこで働いていた。部下の失敗を補うメールを送り、却下されるたびに提案書を作り直し、深夜の蛍光灯の下でキーボードを叩いていた。休暇中の部下のために録画マニュアルを作り、誰にも見せず、失敗を減らすために手を動かし続けていた。俺は影のように見ていた。気づかれず、評価もされず、それでも踏ん張る姿。沈黙が、言葉より雄弁だと示していた。


 翌朝、出勤前の菜名を呼び出した。

「おはようございます」

「おはよう。珈琲飲むか」

「うん」

タブレットを机に置き、言った。

「見てみろ。人は言葉だけじゃわからねえ」

映像には、深夜のオフィスで仕事を積み重ねる姿が映っていた。

「知らなかった……私、見下してた」

声は揺れていたが、迷いとは違う重さがあった。

「人はな、黙ってるときに、本当の手ざわりを見せる」

「……わかりました。何をすべきか」

「また来ます!」

菜名は勢いよく出ていった。


 昼。駅前の光が街を刻む。自動販売機の前で、菜名は上司と並んでいた。言葉は多くなかったが、動きは噛み合っていた。視線の先や手の運びが自然に重なり、仕事の流れが静かにつながっていく。数週間後、菓子折りを抱えた菜名が事務所に現れた。

「視野が広がった感じがします。周りが見えるようになりました」

「後輩も増える。少しずつお姉さんだな」

「部長さんの行動を見てると、何をしてるのか分かる気がして。私も、ちゃんと仕事しようって思えるようになりました」

「いい変化だ。だから人をよく見ろ。見下すな」

「しません。ちゃんと覚えておきます」

「惚れたのか?」

「尊敬です。必死についていくって決めました」

「……ただ、顔は好みじゃないです」

「罰があたるぞ」

散らばっていた音は、いつのまにか一つの調子にまとまり、室内に静かに残った。気づけば、俺の肩の力も抜けていた。

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