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浦和探偵 ジン  作者: 如月あげは


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『血より濃い、朱』下巻

運命の合流、ベイビー

 

 事務所に、請求書を持ったただのぶが来ていた。出来立てのコロッケを十個も土産に持ってきた。

「……おいジン、このジャガー、また喉鳴らしてやがるぞ。機嫌がいいのか悪いのか、お前の運転じゃサッパリだな」

「たーくんがメンテしてくれっから大丈夫だろ」

「ケッ、お前さんの大丈夫は、俺の徹夜確定なんだよ。ったく、電気自動車の無音に慣れた奴が見たら、この重低音はただの悲鳴に聞こえるんだろうな。だがまあ……この鉄の塊が震える感覚だけは、電気じゃ逆立ちしても真似できねえな」

「たーくん、いつもありがとな」

「どうしたジン! 死ぬのかぁ」

「感謝してるんだ」

「うぃ」

ただのぶが髭を撫でながら帰っていった。

 商店街は、期待と失望が同じ看板にぶら下がっている場所だった。安売りの赤と閉店の白が、同じ風に揺れる。進む人も、戻る人も、立ち止まる人もいる。

 はるなと出会ったのは、精肉店の列だった。揚げ物の油の匂いが強く、呼び込みの声だけがやけに元気な夕方だった。彼女はスマホを胸に抱え、ショーウィンドウのガラスに映る自分を見ていた。はるなは財布を出しかけ、やめた。

「今日は、いいです」

それだけ言って、少し笑う。列から外れ、独り言のように続けた。

「待つの、やめました」

 それから、はるなは俺の顔を覚えた。通りで会うとたまに声をかけてくるようになり、やがて事務所に遊びに来るようになった。

 俺は事務所で話を聞いた。ナオナが、柔らかな眼差しで珈琲を出す。深く煎った豆の香りが、静かに部屋に満ちる。

「待つのに、疲れた、と」

「はい」

「スマイルには、なかなか会えないのか」

「なかなか、というか……」

「呼べば来るか」

「来ません」

「会いに行けばいるか」

「いません」

「……なるほどな」

「どう思います?」

「いつも言ってるけど、はるながそれでもいいなら、いいんじゃねぇか」

「やなんです、もう」

はるなは泣いていなかった。ただ、呼吸が浅かった。正しく生きてきたこと。約束を守ってきたこと。スマイルは優しい。否定もしない、怒鳴らない、声を荒げない。だが、決定的な場面には現れない。指輪はくれない。未来の話はいつも避けられる。

「正しくしていれば、いつかちゃんとした場所に行けるって、一生懸命生きてきました」

「それは嘘じゃない」

「でも……」

「でも、足りなかった」

「…………そうかもしれません」

スマイルは、はるなが推しを応援することで自分を保つ生き方を、「楽しそうだね」と言って眺めているだけだった。参加もしない、否定もしない。都合のいい距離で、彼女を同じ場所に足止めさせ続けていた。

「どうしたいんだ。整理したくて来たんだろ」

「もう、何もかも待てなくて」

「スマイルも?」

「はい」

「仕事も?」

「はい」

「スマホも、ライブも?」

「全部、です」

「……臨界点か」

「止まらないメリーゴーランドだったな、そろそろ降りどきだ」

 俺は電話をかけた。

「弦ちゃん。この前の話だ。頼む」

「了解なんさ」

しばらくして現れた弦太を見て、はるなの目の奥が一瞬だけ揺れた。

「よろしく頼むぜ」

「任せといてなんさ。行こ、はるなさん」

「……はい」

「怖いん?」

「少し」

「それでいいよ。怖いの、最高なんさ」

――その言葉と同時に、エキゾーストノートが身体にぐっと突き刺さった。世界を裂くようなエンジンの振動が、はるなの体を貫く。その間、彼女は不思議と冷静でいられた。頭を整理できる、ちょうどいい贈り物を受け取ったような感覚だった。やがて、弦太の背中にしがみつく力が、静かに抜けていった。しかし、再びはるなの腕と指は無意識に弦太の腕に力を入れ、ヘルメットごとその背中に強く顔を押しつけた。内側にこもった呼吸が、少しずつ乱れていく。うまく吐けない。気づくと、息が震えていた。ヘルメットの中で、はるなは泣いていた。風が涙をさらっていく。泣いていることさえ、分からなくなる。風は、それさえ奪っていく。それでも、止まらなかった。スマイルの優しい言葉。祝福のふりをした距離。「考えなくていいよ」という免罪符。楽だった。確かに、楽だった。弦太は何も言わなかった。湾岸線の安定した区間で、片手をそっとはるなの手に添え、しばらく、ただ速度を保ったまま走らせた。

 俺はその頃、事務所にきたりょうを車に乗せていた。

「今日は少し遠回りするか」

「……どこへ」

「決めてない」

「そうですか」

「それでいいか」

「はい」

やり取りは短く、それで足りていた。走り出してしばらくして、りょうの呼吸が乱れた。俺は気づいたが、何も言わない。窓を少しだけ開け、ロックを流した。少し大きめの音量で、リズムだけが車内を満たす。アクセルを踏むたび、りょうの喉から嗚咽が漏れた。

「さよなら……さよなら……」

声にならない。誰にも見られていない車内で、りょうは子どものように泣き続けた。

 一方、ひかりは事務所の扉を開けた。

だが、俺はいなかった。代わりにナオナがいた。蒼白なひかりの顔を見た瞬間、何も聞かずに鍵を閉める。

「走るのは、今日はやめましょう。いいんです。今日はお休みにしましょ」

「……どこかへ?」

「行きましょ。行き先は決めてません。さぁさぁ」

「……はい」

ナオナは切符を買った。ひかりは理由を聞かなかった。電車に揺られる。湘南新宿ラインの車輪の振動が、体を規則正しく揺らす。窓に映る自分の顔が、知らない女みたいだった。伴走しなかった時間。来なかった日々。口だけの応援。レースの日の不在、ゴール後の空白。一つずつ、遅れて痛みになる。ナオナがそっと肩を貸す。座席で膝を抱え、声を殺せず、ひかりは泣いた。理由もなく、迷子になった子供のように、泣き続けた。「信じたかった」という言葉が、愛した時間ごと、何度も胸の中で折れた。三人は、それぞれ別の場所で、同じ名前を手放そうとしていた。誰かに呼ばれたわけじゃない。約束もしていない。ただ、止まれないまま進んだ先が、同じ方向だった。

 海が見えたのは、俺が最初だった。車を降りる。りょうが隣に立つ。しばらくして、バイクの音が重なる。弦太だった。はるなは、ヘルメットを外しても顔を上げない。さらに遅れて、ナオナとひかりが来る。電車を降りてから少し歩いたのだろう。足取りは遅い。潮の匂いが鼻をくすぐる。だが、止まってはいなかった。俺は煙草に火をつけた。三人は並ばない。ただ、それぞれの場所で立っている。泣き腫らした顔で、空を見ている。

憎しみでも、未練でもない。あの蜃気楼が、確かに自分の人生だったことを、手放す前に抱きしめているのだ。

「空は、最初から閉じてなかった」

「考えるのをやめた瞬間、人は誰でも自分じゃない何かになる」

俺は煙草をくわえたまま、ぽつりと言う。

「……追いかけるのはいいさ」

「だがな。あんまり執念深いと、エイハブ船長だ」

三人は海を見つめ、やがて叫び、笑った。三人の肩が、少しだけ落ちた。誰かが笑い、誰かが泣き、やがて声が混ざった。

俺は煙草を消し、指から離した。

「……まあ、いいさ」

三人は、まだ空を見ていた。

誰かが、ぽつりと呟いた。

「お父さん……ありがとう」

風に消えた。

弦太は軽く手を上げ、バイクにまたがる。

「じゃあなん」

エンジンが唸り、闇へ消えた。

俺はナオナを助手席に、三人を後ろに乗せる。肩を寄せ合うように、三人は収まった。

バックミラーの中で、三人は眠っていた。泣き腫らした顔のまま、それでも少し軽くなった顔で。

ナオナが、マリアのように静かに微笑む。

俺は何も言わず、車を走らせた。

空が、わずかに明るくなっていた。

潮風が、夜をさらう。

街に、光が戻る。

そして、ただ、それだけでいい。

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