『血より濃い、朱』中巻
夕暮れの河川敷と、シスター
河川敷は、走る人間の呼吸がよく聞こえる場所だ。川の流れより、肺の音のほうが先に耳に入る。あの男がやってきた。
「ちりんちりん、ちりんちりん」
「なんだい」
「ジンちゃんがさ、そろそろ会長かわってくれるかなって」
「俺はやらねぇってば。ってか、口でちりんちりん言うのはやめろって!」
「最近ベルが鳴らなくてねぇ」
「整備不良だぞ」
「ジンちゃんナンパか」
「ちげえって」
「あつーは?」
「おれ? 集金、集金よ」
「気をつけてなー」
「また、ナーちゃんに会いに行くからねぇ」
「もう。くんなよ」
あつろうを見送り、俺は独り言をつぶやいた。「ハンサムなんだか、ダンディーなんだか、わかんねぇおっさんだな」。
ひかりと初めて言葉を交わしたのは、そんな夕方だった。何度か顔は見ていた。互いに声をかけないまま、距離だけが縮まっていく、そういう知り合い方。ひかりも俺も、それぞれ走っていた。ひかりは一定の速度、同じ靴、同じフォーム。数字に置き換えられる努力を、きちんと続けている身体だった。電話が鳴った。俺はベンチに腰を下ろし、煙草に火を点けた。足音が近づき、遠ざかり、また戻ってくる。
「ジン金払えよ」
「今度払いにいくってば」
「事務員雇ってからヒモが固くなってな」
「そりゃ関係ねぇじゃん」
「厳しいんだぜ」
「……確かに」
「ナオナが来てからジン変わったな」
「そうかぁ、今度いくわ」
「待ってる」
ただのぶからの請求の電話だった。ベンチから立ち上がると、ひかりが足を止めて言った。
「こんばんは」
「……こんばんは」
それだけで十分だった。河川敷では、説明が多いほど邪魔になる。
それから、ひかりは時々俺の横に座るようになった。息が落ち着くまでの数分、記録の話はしない。ただ、黙って水を飲む。沈黙が苦にならない人間は、たいてい重い問いを抱えている。ある日、彼女が言った。
「信じたいんです。でも、怖いんです」
「そうか」
「おかしいですか」
「おかしくない」
「でも、怖いのに信じたいって、矛盾してますよね」
「矛盾してない。両方、本当のことだからだ」
彼女の話は断片的だった。恋人がいること、優しいこと、応援してくれること。ただし、彼は決して並んでは走らない。レースの日にはいつも不在で、終わったあともいない。理由はいつも仕事、用事。どれも嘘ではない。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。ひかりといいます」
「俺は探偵をしている桜井だ。よろしく」
「探偵……」
「驚くか」
「少し。この辺で探偵なんて、初めて聞きました」
「どこにでもいるよ」
「桜井さん。あまりものですが、おにぎり食べません?」
「いや、嬉しいね。もらってもいいか」
「もちろんです」
食べながら、話は恋人との関係に及んだ。ホテルに行くとき、弁当を作っていっても褒めてもらったことがないという。
「妹みたいだって言われます」
「それで、どう感じる」
「……安心してほしいから、走ってるわけじゃないんですけど」
「だな」
「でも、喜んでくれるから、それでもいいかなって思ってました」
「今は」
「……今は、少し違う気がします」
俺は川を見た。水面は、何も答えない。
そうした時間が、何度も重なっていった。俺の横に座る時間が増えるにつれ、彼の名前も、特別なものではなく会話の中に混じるようになった。そうして迎えた何度目かの夕方、ひかりは言った。
「私、考えすぎなんでしょうか」
「考えている人間は、大体そう言われる。慰めじゃない。経験則だ」
「桜井さんも言われましたか」
「散々言われた」
「それでも考えるんですか」
「やめる理由がないからな。自分で考えなくて済む場所に身を置くと、人は楽になる。考えなくていい、というのが一番強い」
ひかりの指が、膝の上で止まった。要求にだけ応えていれば、彼の機嫌はいいのだという。
「問いってのはな、すぐ答えを出すためにあるもんじゃない。自分がその先を引き受けられるかどうか、そこを確かめるために残るもんだ」
「引き受ける、か」
「そうだ」
「引き受けたくないから、考えないようにしてたのかもしれないです」
「それが分かったなら、十分だ」
川の匂いが風に乗る。
「走るのは悪くない。でもな、そろそろ、伴走しないやつをそのままパートナーって呼び続けるかどうか、一度立ち止まって考える頃合いなのかもな。優しいな、お前は。でもな、成り立たない関係ってのは、最初から並んでいないんだ。相手を守るために自分の考えを止めなきゃいけないなら、それはもう、優しさとは少し違う。手入れしているつもりで、自分だけ削っていないか」
「…………」
「返事はしなくていい」
「してもいいですか」
「どうぞ」
「……削ってたと思います。削ってることに、気づかないようにしてました」
ひかりはしばらく俯いていた。泣かなかったが、呼吸だけが少し乱れた。
「私……スマイルさんとのこと、問い続けているつもりでした。でも桜井さんの話を聞いて分かりました。考えないように、考えないようにとしてきたのは、私の方だったのかもしれません。信じ続けようって自分に言い聞かせながら、一番聞いちゃいけないことだけを避ける癖が、ついていた気がします」
「それが分かったなら、もう十分だ」
俺は何も言わなかった。それ以上は毒になる。
日が落ちる頃、ひかりは立ち上がった。
「また、走ってきます」
「いってこい」
走る背中は相変わらず一人だった。問いを持ったまま走る人間の背中は、少しだけ重く、そして自由だった。……まあ、悪くねぇ顔してたな。俺は煙草を揉み消し、川の流れを見送った。
戻ると、弦太とえいたがいた。
「ジンさん、写真、バッチリ押さえましたよ」
「なになになに!」
「彼女なん?」
「ちげえって。いやー、それにしても、二人のバイク迫力あるなぁ」
「話をそらしてるんさ」
「だから、そんなんじゃねぇって」
「明日、ナーさんに写真、見せちゃいますからね」
「好きにしろ、って、暇なら事務所によってくか」
「たまにはいいっすね」
三台連なって、事務所に向かった。あいつは、まだ走っていた。




