最南端を目指して
森を抜けると、風の匂いが変わった。
血と霧に濡れた冷たい空気が嘘のように引き、
草の香りと土のあたたかさが、胸の奥へやさしく触れてくる。
後ろを振り返れば、エラドの森は不気味な沈黙を湛えたまま影を落としていた。
古代の聖堂が崩れた後の残骸が、霧の中に消えていく。
あの場所で垣間見た真実の気配は、まだエリスの胸に重く残っていたが――
それでも、今は歩き出さなければならない。
深いフードを目深に被ったリュシアが隣に立った。
淡い光が差しただけで透けるような白い肌。
尖った耳は影に隠れ、長い銀髪はフードの内側で揺れている。
「……見える?」
「え?」
風でフードが少しずれて、リュシアが慌てて押さえた。
「耳、隠れてる?」
「ああ。問題ない。」
エリスは短く答えたが、内心では少しだけ微笑んでいた。
昨日まで血と恐怖に濡れていた彼女が、
今は「人間として歩くこと」を気にしている。
その変化がどこか不思議で、そして少し温かかった。
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森を抜けた街道は、丘陵地帯へ続いている。
乾いた草と小さな花が揺れ、
朝の光がゆっくりと世界を染めていた。
しばらく歩いたあと、エリスが口を開く。
「これから、どうするつもりだ。」
リュシアは立ち止まり、指先でフードの縁を握った。
ゆっくりと顔を上げ、エリスを見つめる。
「……“魔王の居場所”を探す。」
その声には、怯えも迷いもなかった。
「昔聞いたことがあるの、
“魔王はまだ死んでいない。
眠りながら、約束を守っている”って……。」
「約束?」
「……人を守る契約。
だから魔王は、人間の前から姿を消した。」
かすかに震えるリュシアの声が、朝の空気に溶けた。
「魔王は……南の果て。
“ナデル砂海”の地下神殿に封じられてる。
大勢の人間が死んだ土地。
だけど……本当は違うの。」
エリスは彼女を見つめた。
血に濡れた夜よりも、今の方がずっと脆く見える。
その胸の奥で守りたいという気持ちが、また少し強くなった。
「そこへ行くんだな。」
「ええ。」
「……なら、俺も行く。」
リュシアの目がわずかに見開かれる。
「どうして?」
「今は、その答えを探してる途中だ。」
エリスの声は淡々としていた。
その言葉が深く胸に落ちて、リュシアは静かに頷いた。
「ありがとう……エリス。」
その声は、これまでで一番、柔らかかった。
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街道の先には、次の街がある。
王都から南へ向かう冒険者が必ず立ち寄る、港と交易で賑わう大街だ。
そこからさらに南を目指せば、“ナデル砂海”へと続く。
二人は丘を下りながら、ゆっくり街道を歩いた。
風がやわらかく草を揺らし、小さな羽虫が日の光に溶けていく。
リュシアがふと横目でエリスを見た。
「ねぇ、こうやって並んで歩くの……変な感じ。」
「変か?」
「ううん、悪くない……ただ、ちょっとだけ。」
彼女は言葉を続けず、照れ隠しのようにフードを触った。
「でもね。
人の世界って……騒がしいし、怖いし……息が詰まるけど。
あなたが隣にいると、少しだけ平気になる。」
エリスは答えなかった。
ただ歩幅を少しだけ落とし、リュシアの歩調に合わせた。
街道は長く続く。
だが、旅というものは常に――
誰かと並ぶことで初めて、“始まる”。
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陽が傾き始めたころ、二人は小高い丘の下で野営することにした。
木々に囲まれ、夜風を避けられる良い場所だった。
エリスは慣れた手付きで枯れ枝を集め、火を起こす。
炎の赤が揺れ、リュシアの横顔を照らした。
その眼差しは、どこか遠い場所を見つめていた。
「……本当に、魔王に会えると思う?」
ふっと零れた声は、子供のように弱かった。
リュシアは頭巾の端をつまみ、胸元を押さえている。
「会えるさ。」
「理由は?」
「……お前がそう願ってるからだ。勇者は人々の願いを叶える」
リュシアの顔が、火に照らされて赤く染まる。
「私が”人”ね、あなたって……たまにずるいわ。」
「そうか?」
「ええ。そう思う。」
わずかに微笑み合った、そのとき――
――音が“止まった”。
エリスは即座に立ち上がり剣を抜いた。
「下がれ、リュシア。」
闇の向こうで、草がざわりと揺れる。
低い唸り声。
獣のようで、獣でない。
魔力を帯びた黒い霧が、にじり寄ってくる。
月明かりが、異形の影を照らした。
四つ足でありながら、背は異様に盛り上がり、
口は耳元まで裂けている。
牙の根元が淡く光り、空気を震わせた。
【グロウル・ファング】――
血を求める魔物。
「来るぞ。」
魔物は咆哮とともに跳躍した。
衝撃波が爆ぜ、地面が抉れる。
エリスの体が一瞬遅れて吹き飛びそうになる。
「エリス――!」
リュシアが手を向ける。
血が舞い、紅い盾が生まれる。
《ブラッド・ヴェイル:シールドフォーム》
衝撃波が砕け、火花と血の結晶が散った。
「守ったのは初めてだわ。」
「寝てろって言った。」
「嫌よ。」
二人の視線が交錯した瞬間、エリスは踏み込んだ。
《ディレクト・アクセラレーション》
世界が引き延ばされる。
夜気が千切れ、剣が奔る。
だが、魔物の皮膚は異様に硬い。
刃先が弾かれ、火花を散らす。
「……ちっ。硬いな!」
魔物は再び口を開き、空気を震わせた。
咆哮は刃のように鋭く、鼓膜を刺す。
リュシアの血盾が揺らぎ、エリスの体勢が崩れる。
魔物が狙いを定めて跳んだ――。
エリスは地を蹴り、全身で受け止めるように踏み込む。
剣を構え直し、胸元へ渾身の一閃。
だが、またも刃が弾かれる。
「だったら、これで!」
弾かれた剣を勢いのまま投げ捨て、空いた左手で腰に下げた短刀を引き抜く。
そのまま身体を捻り、
《ディレクト・アクセラレーション》
左手を加速させて威力を最大限に上げ、魔物の眼球目掛けて突き刺す。
ボンッ!と凄まじい威力で突き刺された魔物の頭部は半分爆発したように肉が裂け、黒い血が飛ぶ。
魔物の咆哮が止まった。
その瞬間――
エリスの右手の甲に、淡い光が浮かんだ。
血が脈動し、皮膚の下で何かが弾けるようにうねった。
「……これは……」
リュシアが駆け寄る。
「エリス、今の……なに?」
「ああ……どうやら、当たりを引いたらしい。」
右手が淡く光り、音が震えるような感覚に包まれる。
《サウンド・ブレイク》
――音の衝撃波を前方に解き放つ魔獣のスキル。
「使えるの?」
「わからない……だが、やってみる価値はある。」
リュシアは少し笑い、深くフードを被った。
「じゃあ……あなたの“旅の一歩”ね。」
「ああ。ここからだ。」
二人の影が焚き火の前で重なる。
夜が更け、
新しい力と、新しい決意を胸に、
エリスとリュシアは初めて“同じ方向”を見ていた。




