偽りの祈り ― 前編
森は、静まり返っていた。
夜明け前の薄光が、霧の奥に溶けていく。
木々は黒く沈み、風は血の匂いを運ぶ。
エリスとリュシアは、朝の冷気の中を歩いていた。
まだ空は明けきらず、鳥の声すら戻らない。
ただ、踏みしめる枯れ葉の音だけが、世界の生の証だった。
リュシアは外套のフードを深く被り、息を整えながら歩く。
昨日、吸血姫としての血を使い、深い傷を癒やしたばかりだ。
体調はまだ完全ではないが、その瞳には確かな光が宿っている。
「この森の奥に……何があるの?」
「王都の記録では“魔族の残党の聖堂跡”。だが、昨日見た焼け跡が本当なら……怪しいのは人間の方だ。」
エリスの声は低く、乾いていた。
リュシアは小さく頷き、少しだけ笑う。
「あなた、疑うことを覚えたのね。」
「疑う方が、今の世界じゃ正しいらしい。」
そのやり取りが、冷えた空気に短く消えた。
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森の奥へ進むほど、空気は重くなる。
枝葉が天を覆い、光が遮られる。
鳥も獣も姿を見せず、音すら消えた。
やがて二人の前に、それは現れた。
――古代の聖堂。
黒ずんだ石造りのアーチが崩れ、
そこに刻まれた古い文字だけが、わずかな光で淡く息づいていた。
「……アーク・リュミナス。」
リュシアが小さく呟く。
指先で文字をなぞり、古の記憶をたぐるように目を細めた。
「読めるのか。」
「ええ。母から聞いたわ。“初代勇者と魔王は、血で契りを交わした”って。これはその契約文……本物。」
エリスは壁に刻まれた文を見つめる。
『神と魔、血により契られ、共に人を守る。
契約を破るは、血の誓いを冒涜することなり。』
「守る……勇者と、魔王が。」
「今は“魔王を勇者が討った”と教えられるけれど、ここに残っているのは逆の記憶。」
言葉が胸奥に棘のように刺さる。
世界の基盤が、音もなく揺らぐ。
その時――。
聖堂の外から、光が射した。
柔らかさのない、焼けるような白。
だが黄金の眩さではない。鈍い琥珀色の光が、霧を粗く切り裂いて進む。
「……来る。」
無数の足音。
鎧が擦れる音。短い祈り。
霧の向こうに、王国の紋章を掲げた討伐隊が姿を現した。
白銀の甲冑に、肩口の痣がくすんだ琥珀色にうっすらと輝く――過度に眩くはない、抑えられた光。
先頭に立つ若い男が槍を構える。ライナス・ヴェルド。かつて王都の広場でエリスを嘲った“濃痣”の一人。
「王命により、異形を捕らえる! 抵抗する者は――神敵と見なす!」
「エリス!逃げないと...」
リュシアがわずかに後ずさる。
そのとき、列の中の兵が声を上げた。
「な……人の言葉を話したぞ……!」
「魔族なのか? 亜人の成り損ないか?」
「どちらでも同じだ。異形は異形――神の敵に違いない!」
ライナスは鼻で笑い、部下へと冷ややかに言う。
「珍しい種だ。血を採れば教会への献上になる。上へ渡せば褒美が出る。」
「……お前たちは、彼女が何者かも知らないのか。」
「知る必要はない。三百年前、勇者が“魔王”とやらを滅ぼした。それで世界は回っている。」
エリスが一歩前へ出る。
「その台詞、誰に教わった。」
「神官でも、聖典でも――薄痣の意見を聞く必要はないな。」
ライナスの槍先に、鈍い琥珀色の光が集まっていく。
彼の痣も同じ色に、淡く、しかし執拗に脈打った。派手な金色ではない。燻んだ熱が、祈りの代わりに燃える。
祈りの文言が短く唱えられ、地に刻まれた聖印がじわりと発光。
空中に細い光の槍が数十本、じりじりと生えるように形を取った。
「下がれ、リュシア。」
「でも――」
「俺が行く。」
エリスは剣に手をかけ、短く息を吸う。
《ディレクト・アクセラレーション》
世界が粘る。
音が引き伸ばされ、色が沈む。
足裏が地を蹴った瞬間、視界の線がひと筋に変わる。
兵士の槍が構え終えるより早く、
エリスの刃が三度閃き、白銀の槍柄が地へ弾け飛ぶ。
「……は?」
「い、今の……見えたか?」
「こいつ、薄痣じゃ、なかったのか……!」
驚愕が隊列を走る。
“薄い痣=弱者”という前提が、最初の一合で崩された。
だが、その直後。
上空から降る槍――ライナスが唇の祈りと共に放った光の雨。
「秩序を正す――《セイクリッド・ランス》!」
鈍琥珀の輝きが、針のように降り注ぐ。
エリスは反射的に身を捻り、二手三手とすり抜ける。
一本が肩を掠め、皮膚が焼ける痛みが走った。
「神の槍は罪を裁く!」
その声に、リュシアの瞳がふるえる。
彼女は一歩前へ出て、掌を突き出した。
「血よ、形を持て。」
地に散った血、空気に混じる微かな鉄臭――それらが吸い上げられ、
赤い粒子となって集まり、透明感のある紅へと硬化していく。
《ブラッド・ヴェイル:シールドフォーム》
紅い盾が前に展開し、降り注ぐ槍を受け止める。
鈍い光が屈折し、森の陰に淡い斑点を落とした。
「血で防いだ……だと……!」
「やはり珍種か。捕らえろ!」
ライナスが苛立ち混じりに命じた瞬間、
エリスが踏み込み直す。
「まだ終わっていない。」
《ディレクト・アクセラレーション》
視界が狭まる。
槍の合間を紙一重で抜け、兵の懐へ滑る。
柄頭で喉を打ち、足を払う。斬るより速く、落とす。
規格外の速さに、兵たちの反応が遅れる。
「ど、どうなって――」
「動きが……見えない……!」
最前列が崩れた。
ライナスの顔から余裕が消える。
「薄痣のはずだろう! 何者だ、こいつは!」
「……さっき、お前が要らないと言った“事実”だ。」
彼は肩口の痛みを無視して、剣先をライナスへ向けた。
背後で、紅がもう一度形を変える。
「貸して。」とリュシア。
紅い光が、細い筋を描いてエリスの腕へ移る。
血の結晶が手甲のかたちをなぞり、彼の拳を包んだ。
《ブラッド・ガントレット》
「借りる。」
「ええ、無理はしないで。」
鈍い琥珀色の槍がもう一度、空に芽吹く。
ライナスの痣が淡く明滅する。
栄光の金ではない――だが、十分に鋭い、訓練された殺意の色。
「秩序に従え――《セイクリッド・ランス》!」
光雨が落ちる。
紅の手甲が熱を吸い、衝撃を散らす。
エリスは一瞬だけ体を沈め、地を蹴った。
《ディレクト・アクセラレーション》
彼の軌跡が、鈍光の網を裂く。
近い。槍先が頬を掠め、火花が散る。
次の瞬間、紅の拳が光の穂先を横から砕いた。
「――っ!」
ライナスの目が見開かれる。
その視線に初めて混じる恐れ。
「覚えておけ。」とエリスは低く言う。
「“薄い痣”で測れる強さも、神の名で測れる正義も、ここにはない。」
彼が踏み込む。
ライナスが歯を食いしばり、残る槍を構える。
鈍い琥珀の輝きと、透きとおる紅が、森の闇で交差した――。




