邂逅する血と光 ― 前編
王都を離れて三日。
馬車の音が遠のき、舗装された街道はいつしか荒れた土の道へと変わっていた。
灰色の雲が低く垂れ込め、風は乾き、森の端に立つ木々はどれも焼け焦げている。
エリス・ルメルは、外套の襟を上げ、北へと続く街道を黙々と歩いていた。
彼の手には、一枚の紙が握られている。
それは、王都で配られた討伐令だった。
『北方《エラドの森》に魔族の残党が潜む。確認・殲滅せよ。』
発令者の名はなく、署名も封印もない。
ただ王家の紋章が押されたそれは、人々にとって“神の意志”と同義だった。
エリスは紙を指先で弄びながら、ぼそりと呟く。
> 「勇者の血を持たぬ者が、勇者を動かす……。どんな滑稽な話だ。」
風に晒された紙が破けかけ、薄い灰が宙を舞う。
それはまるで、勇者という名の神話が朽ちていくようにも見えた。
痣の濃い者たちは既に東と西へ向かった。
“王の寵愛を受けた勇者候補”たちは、街を出る前から兵と従者を伴い、
祝福の中で旅立っていった。
だが、エリスには同行者はいなかった。
彼に割り当てられた任務は、
“北方の森の調査”――誰も行きたがらない、捨てられた道だった。
> 「……一人の方が気楽でいい。」
言葉とは裏腹に、胸の奥にわずかな痛みが走った。
孤独は慣れているはずだった。
それでも、見送る人のいない旅立ちは、想像以上に冷たいものだった。
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夕刻。
道の脇に、焼け落ちた村があった。
瓦礫の間から黒く焦げた柱が突き出し、
灰は風に運ばれ、空へと散っていく。
王都の布告では、ここも“魔の襲撃”による被害とされている。
しかし、エリスが跪いて地面を見つめた瞬間――
眉がわずかに動いた。
> 「……剣の跡だ。」
焼けた木の表面に、明らかに人の剣が通った痕。
刃の角度、抉れた形、切断の深さ――どれも人間の技。
魔物の爪では、こんな直線にはならない。
周囲を見渡せば、死体の姿はない。
血の匂いもしない。
ただ、乾いた灰と、焦げついた石壁が沈黙を守っていた。
> 「本当に……魔の仕業なのか?」
声が、崩れた屋根に反響して消える。
彼はひとつ息を吐き、腰の剣に触れた。
冷たい金属の感触が、現実へと引き戻す。
“魔王復活”の噂は、王都でも広まっていた。
痣者たちは皆、その名を倒すために旅立った。
だが、エリスには――その“魔王”すら、まだ見えない。
神話に描かれた魔王とは何なのか。
それは人を滅ぼす存在なのか、それとも……。
考えるほどに、答えは霧の中に溶けていく。
エリスは村を離れ、森の入口へと足を向けた。
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彼の右手の甲には、
戦いのたびに淡く光る黒い模様が刻まれていた。
《JOKER》――それが彼の恩恵の名だ。
殺した対象のスキルを、低確率で奪う力。
奪える確率は極めて低く、百回戦って一度あるかどうか。
しかも、奪ったとしてもその力は本来の三割程度しか再現できない。
だが、彼はひとつの特異点に気づいていた。
【同じスキルを、重ねて奪えば奪うほど――力は増す】
かつて孤島で狩り続けた魔物たちは、
「ディレクト・アクセラレーション」と呼ばれる加速のスキルを持っていた。
指定した対象を一方向に加速させる力。
そのスキルを、何十体、何百体、何千体と重ねた結果。
彼の身体は、肉眼では追えない速度を得た。
だが、その力には代償があった。
加速のたびに体の内部が焼け、筋肉が悲鳴を上げる。
使いすぎれば、骨が軋み、血管が破裂する。
「速さは、命を削る刃だ。」
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エリスは右手を握り、
手のひらの古傷を見つめた。
「それでも、戦えるなら構わない。」
静かに呟き、彼は森の闇へと足を踏み入れた。
森に入ると、空の色が変わった。
昼だというのに陽光はほとんど届かず、
頭上では枝が幾重にも重なり、
鳥の声すら聞こえない。
枯れ葉を踏みしめる音が、静寂の中でやけに大きく響く。
彼は歩調を緩めず、手を剣の柄にかけた。
“ここが、王が命じた魔族の巣か。”
それにしては、あまりに静かだった。
虫の声も、獣の息もない。
ただ風が通り抜ける音だけが、無音の森を撫でていた。
その瞬間――。
背後の茂みが、低く鳴った。
反射的に振り返り、剣を抜く。
霧の奥で、赤い目が二つ、淡く光った。
一歩、二歩。音もなく迫る影。
その輪郭は人のようでいて、形が歪んでいた。
骨のない腕がしなるように伸び、エリスの肩を狙う。
剣が閃いた。
刃が肉を裂く感触とともに、影が後ろへ弾け飛ぶ。
返す刃で首を払うが、感触が軽すぎた。
「……早いな。」
影は立ち上がり、再び突進してくる。
その速さは常人の目には追えない。
だが、エリスの眼は静かにそれを捉えていた。
右足を軸に踏み込み、低く回り込む。
体の感覚が一瞬だけ研ぎ澄まされる。
視界が歪み、世界の色が薄れる。
《ディレクト・アクセラレーション》――発動。
体の奥に宿る“奪われた加速”の力が、全身を駆け抜ける。
音が遠のき、空気が刃のように鋭くなった。
影が腕を振り下ろすよりも速く、エリスはすでにその懐にいた。
一閃。
黒い霧が吹き上がる。
肉が裂け、影が崩れ落ちた。
地に散った黒い血がじわりと染み広がり、
その匂いは、確かに“人の血”に似ていた。
「……これが、魔族か?」
倒れた死骸を見下ろす。
皮膚の一部には鎖の跡。
その腕に――小さな刻印があった。
それは、王都の兵士団が使う奴隷印だった。
エリスは息を詰めた。
足元の霧が、まるで血のように濃くなっていく。
「……やはり、人が造っているのか。」
その言葉を最後に、彼は剣を収めた。
しかし次の瞬間――、
森の奥から、かすかな声が聞こえた。
「……だれ、か……。」
それは、獣の声ではなかった。
人の、かすれた声。
エリスは剣に手をかけたまま、
音のする方へと歩き出した。
霧をかき分けた先――
倒木の影に、ひとりの少女が倒れていた。
美しい白銀の長髪が、血に濡れて地面に散っている。
肌は雪のように白く、薄い唇がわずかに震えていた。
エリスは一歩近づき、表情を固くした。
その耳が、わずかに長い。
「……魔族、か。」
しかし、彼が剣を抜こうとしたとき――
少女の唇が動いた。
「おねがい……殺さないで……。」
その声は、震えながらも確かに人の言葉だった。




