追放令嬢の辺境スローライフ ~心温まる第二の人生~
「リシェル=アルトワーヌ、婚約破棄をここに言い渡す。そしてこの王都からの永久追放を命じる!」
玉座の間に響き渡る王太子アレク=レオンハルトの凍てつく声に、私はただ静かに微笑んだ。
「承知しましたわ。未練など微塵もございませんもの」
廷臣たちの視線が刺さる中、私は毅然と答え、頭を下げた。嫉妬に狂った“白百合の聖女”ミリィ=フォンティーヌが仕組んだ偽の証拠。毒入りの茶を自作自演し、その場にいた私を犯人に仕立て上げた。証拠も証言も悉く偽造。王族の寵愛を独占しようとした彼女の罠は、あまりにも完璧だった。
枢密院の判決文を手に、私は王城の大門をくぐる。錆びついた馬車一台、破れたドレスの裾を引きずりながら、振り返ることなく前を見据えた。冷たい春風が、追放令を突き刺す。だが私の心には、不思議な昂揚が満ちていた。
「さようなら、偽りの貴族社会」
私は呟き、辺境の山奥へと歩みを進めた。
ベルミア山脈の麓にたどり着くと、そこは人の気配すら希薄な村だった。古びた木造の家屋、石の橋、収穫直前の黄金色の畑。貴族の優雅な生活とは無縁の、質素で厳しい現実。初日は一瞬で終わった。斧を振れば柄が折れ、鍋を火にかければ焦げ付き、井戸のバケツは底を破り、水を一滴も汲めない。無愛想な鍛冶屋マルスが新しい斧を手渡し、女医サラが苦笑しながら包帯を渡す。私は深々とお辞儀をして、心の中で呟いた。
「これが、私の本当の挑戦なのね」
翌朝、私は小屋の扉を開けると、そこには子どもたちが待っていた。泥まみれのノートを手に、初々しい瞳を輝かせている。
「おはようございます、リシェル先生!」
「算数を教えてください!」
彼らの声に、胸がきゅんと締めつけられた。貴族令嬢として生きてきた十七年、誰かの未来を育むことなど考えもしなかった。だが今、彼らに教える言葉が私にはあった。読み書き、足し算、引き算。小さな理解の芽が芽吹くたび、子どもたちの笑顔と歓声が返ってくる。土にまみれながら、私は初めて「生きる喜び」を実感した。
日々の仕事は過酷だった。朝は鶏を放し、庭の畑に種を蒔く。汗まみれで草を抜き、鍬で土を起こし、ようやく種から芽が出る頃には真っ暗になる。昼は料理—野菜の煮込みやパン焼きに挑戦し、焦がした皿の山を前にまた挑戦する。夕方は診療所で、怪我や病に倒れた老人を手当てし、傷口に包帯を巻きながら彼らの話に耳を傾けた。失敗続きの激務で、指先は裂け、背中は痛み、何度も心が折れそうになった。だが夜、満天の星空の下で一人深呼吸すると、疲労は不思議と力に変わった。
ある日、村の畑を荒らす魔獣が現れた。大きな牙を持つ猪に似た怪物が、作物を蹂躙する。狩人リーダーのロイ=グラナートは十人の村人と共に攻撃を試みたが、返り討ちに遭いそうになる。私は咄嗟に近くの流れ矢を組み立て、魔獣の進路を限定。一本の矢を命中させ、魔獣は咆哮と共に森へ退いた。驚きと安堵の表情で、村人たちは私を見つめた。
「リシェルさん、助かった!」
ロイは無骨に笑い、私の肩を叩く。
「この村にお前がいてくれて、本当に良かった」
そんなある夜、焚火のそばでロイと並んだ。
「なあ、リシェル。都での暮らしは、どうだった?」
私は炎を見つめ、遠い記憶を手繰る。豪華な舞踏会、繊細なレースのドレス、声が届くまで聞こえるお世辞の嵐。だがそこで得たものは、虚飾と嫉妬だけだった。
「もう思い出せないわ。私にとって大切なのは、ここで過ごす時間と、あなたたちの笑顔」
ロイは静かに頷き、夜の冷気を二人で共有した。
村に平和が戻った矢先、王国の徴収軍が現れた。食糧を奪い、働き手を徴用すると言う。村人は怯え、ロイは剣を抜く。だが武力を行使すれば村ごと焼き払われかねない。私は徴収官の前に歩み出た。
「私の名はリシェル=アルトワーヌ。かつて公爵令嬢として法を学び、全条文と先例を暗記した者です」
徴収官たちは言葉を失い、私の目を見た。
「違法に穀物を持ち出した者には、王国法に基づき訴訟を起こします。覚悟はよろしいのですね?」
その場は凍りつき、彼らは畑を去った。
村人は涙を浮かべ、「先生、すごかった……」と口々に讃えた。
数日後、霧深い朝、村の入口に王城の馬車が着いた。白いマントに金糸の刺繍を纏った書記官ガブリエル=ド・シエルが降り立ち、深々と頭を垂れる。
「リシェル=アルトワーヌ様、この度は多大なるご迷惑をおかけしましたことを、王太子殿下の名において深くお詫び申し上げます」
彼が手渡した書簡には、私の名誉回復と爵位復帰、ミリィの平民降格、太子の廃嫡処分が記されていた。
ガブリエルは続けた。
「ぜひ王都へお戻りいただきたく存じます」
私はゆっくりと首を振った。
「結構ですわ。私の居場所はここにありますもの」
使者は驚き、やがて深く礼をして馬車へ戻った。村人たちが私を囲む。鍛冶屋マルスは力強く手を握り、サラは微笑みながら頷き、子どもたちは嬉しそうに抱きつく。胸が熱くなり、涙が頬を伝ったが、それは悲しみではなく幸福の証。
その夜、小さな広場で祝宴が開かれた。野菜の煮込み、香ばしいパン、蜂蜜酒が並ぶ。皆がグラスを掲げ、焚火の火花が夜空に舞う。ロイが隣で笑いながら言った。
「リシェル、これからもずっと、この村で過ごそうな」
私は頷き、満面の笑みを返した。
翌朝、私はいつものように鶏に餌をやり、畑へ向かった。薄紅色に染まる空、鳥たちのさえずりが心地いい。深呼吸すると、冷たい空気が胸いっぱいに広がった。この瞬間こそ、私が望んだ真の第二の人生の始まりだった。
――こうして、追放された元悪徳令嬢は、小さな村で人々に愛され、人を支えながら心温まる日々を送るのであった。