異世界へ
第1章:異世界への扉
「……ゴホッ!」
土埃と共に目を覚ました青年は、激しく咳き込みながら上体を起こした。眩しい陽光が森の隙間から差し込み、彼の顔を照らしていた。
「ここは……どこだ?」
佐々木陽一(28歳)は、自分がいる場所を理解するのに数秒を要した。つい先ほどまで、会社の帰り道で普通にスマホを操作していたはずだった。道に迷ったので地図アプリを起動しようとした瞬間、突如として目の前が白く光り——
「事故か?」
陽一は周囲を見回した。しかし見えるのは、どこまでも続く見知らぬ森。車の音も、人の声も全く聞こえない。
「おかしいな……」
ポケットを探ると、スマホだけは無事だった。しかし、繋がるはずもない圏外表示。それでも陽一はとりあえず緊急通報を試みたが、通じる気配はない。
「まさかの……異世界転移?」
冗談めかして口に出した瞬間、陽一は自分の言葉に背筋が凍るのを感じた。漫画やアニメでよくある展開だが、まさか自分の身に降りかかるとは思っていなかった。
「まず、ここがどこか確認しないと」
陽一はゆっくりと立ち上がった。全身に痛みはなく、怪我をしている様子もない。不思議と体は軽く、むしろ健康的な感覚すらあった。
彼はスマホの画面を見つめ、バッテリー残量を確認した。90%——十分ある。だが圏外では役に立たない。試しにオフラインで使えるアプリを探していると、ふと気づいた。
「そうだ、あのAIアプリなら…」
数ヶ月前、オープンソースの軽量AIアシスタントをインストールしていたことを思い出した。オフラインでも使える簡易版で、ウェブの一部データがキャッシュされていた。
「えっと、名前なんだっけ……あぁ、ミミック」
アプリを起動すると、シンプルなインターフェースが現れた。
『こんにちは、陽一さん。お手伝いできることはありますか?』
「ミミック、今どこにいるのか分析してほしい」
『GPS信号がありませんので、現在地を特定できません。周囲の情報を教えていただけますか?』
「ええと、木々が生い茂る森で…」
説明している最中、陽一の指先から小さな火花が散った。
「痛っ!なんだ今の…」
『静電気のようですね。乾燥していますか?』
「いや、湿度は高いほうだと思うけど…」
再び指先から火花が散り、今度は少し大きめの電気が走った。恐る恐る手を見つめる陽一。
『興味深い現象です。何か特別なことが起きていますか?』
「…わからない。でも、なんだか体の中に電気が走っているような感覚がする」
陽一が集中して手のひらを見つめると、かすかに青白い電気が指先から放電した。
「うわっ!これは…魔法?」
『現実世界では魔法は科学的に実証されていません。何らかの電気現象である可能性が高いです』
そう言いながらも、陽一は自分の意志でわずかに電気を操れることに気づいていた。彼は深呼吸し、再度集中すると、今度は小さな電流を指先に集めることができた。
「これは…何かの能力だ」
陽一がその不思議な力に戸惑っていると、突然、茂みの向こうから人の気配がした。
「誰かいるのか?助けてもらえるかも…」
安堵したのも束の間、現れたのは粗末な服装の荒くれ者たちだった。手には剣や斧を持ち、目つきは明らかに敵意に満ちている。
「お!お前ら。こっちに良い獲物がいるぞ!見たところ、いい服着てるな。金貨も持ってるだろ?全部出せ!」
リーダー格らしき男が吐き捨てるように言った。その言葉は日本語ではなかったが、不思議と意味が理解できた。
「待ってくれ、俺はただの…」
「黙れ!命が惜しけりゃ大人しく荷物を置いて立ち去れ!」
剣を突きつけられ、陽一は後ずさった。相手は五人。逃げ場はない。恐怖と緊張で全身が震え、そして——
「うわああああっ!」
突如、陽一の全身から青白い雷撃が放たれた。彼の恐怖と生存本能が引き金となり、未知の能力が大暴走したのだ。
バチバチと音を立てる電撃は、リーダーを直撃。男は痙攣しながら地面に倒れ込んだ。残りの盗賊たちも腰を抜かし、恐怖に目を見開いていた。
「ひ、魔術師だ!それも高位の雷術師だ!」
「こ、こんな森の中に何してやがる…」
「逃げろ!」
盗賊たちはリーダーを置き去りにして逃走。残されたリーダーは、痙攣しながらも意識があるようだった。
陽一は震える手で顔を覆い、何が起きたのか理解しようとした。
「ミミック…さっきの、なんだった?」
『あなたの体から強力な電流が発生したようです。推測ですが、何らかの電気エネルギーを操作する能力を得られた可能性があります』
「俺が…雷を放った?」
陽一は自分の手を見つめた。まだ指先がわずかに発光している。
「お、お前…」
地面に倒れていたリーダーが弱々しく声を上げた。痛みに顔をゆがめながらも、彼は陽一を畏怖の眼差しで見上げていた。
「強い…お前は本当に強い…」
陽一は困惑したまま、倒れた男に近づいた。
「大丈夫か?わざとやったわけじゃないんだ…」
「俺の名はガジェル。黒風盗賊団の親分…いや、元親分だ」
「元?」
「俺らの間じゃ、強い者が親分になる決まりなんだ。お前は俺を倒した…つまり…」
男は苦しげに笑った。
「おめでとう…新しい親分」
陽一は唖然とした表情で立ち尽くした。盗賊団の親分?冗談にもほどがある。しかし、ガジェルの真剣な表情を見るかぎり、ここでは本当にそういう掟があるようだ。
「冗談だろ、俺は盗賊なんかじゃ…」
「逃げた連中は、すぐに仲間に話すだろう。お前が俺を倒したって」
ガジェルは身体を起こそうとして顔をしかめた。
「この森の奥に、俺たちの隠れ家がある。そこに行かないか?見たところ旅人のようだし、着いてくれば少なくとも、ここらのことを教えてやれる」
陽一は迷った。しかし今の状況では、この世界について知ることが最優先だった。
「分かった。案内してくれ」
陽一はガジェルを助け起こし、彼の肩を貸しながら歩き始めた。スマホを握りしめ、時折チラチラと画面を見る。
『どうされますか?』とミミックが表示していた。
「ミミック、これからが本番だ。何が起きるか分からないけど、頼りにしているよ」
『お任せください、陽一さん。可能な限りサポートします』
森の奥へと足を進めながら、陽一は自分がとんでもない運命に巻き込まれたことを実感していた。どうやら彼は「トレンティア王国」と呼ばれる異世界に来てしまったようだ——しかも、盗賊団の親分として。
第2章:盗賊団の新首領
黒風盗賊団の隠れ家は、険しい崖の下にある洞窟だった。外からは獣道のように見えるが、細い岩の隙間を抜けると、意外と広い空間が広がっていた。
「親分が帰ってきたぞ!」と見張りの少年が叫ぶと、中から数十人の男女が出てきた。しかし彼らの視線は、ガジェルではなく陽一に向けられた。
「あいつが本当に親分を倒したのか?」
「あんな細い腕で?嘘だろ?」
「でも、リカとかが言ってたぜ…すげえ雷だったって」
ざわめきが広がるなか、一人の大柄な男が前に出てきた。顔には傷があり、髭は無精ひげ。しかし眼光は鋭く、明らかに他の盗賊とは違う威厳を感じさせた。
「俺はロギル。この団の副親分だ」
彼は陽一を上から下まで舐めるように見た後、ガジェルに向き直った。
「本当なのか?こいつに負けたのか?」
ガジェルは悔しそうな表情を浮かべながらも、頷いた。
「ああ…雷の魔術だ。一瞬で俺を倒した」
ロギルは再び陽一を見た。彼の目には明らかな疑念が浮かんでいた。
「お前、どこの出身だ?名前は?」
「佐々木陽一だ。どこの出身かと言われても…」
陽一は言葉を選んだ。異世界から来たと言っても信じてもらえないだろう。
「遠い東の国から来た」
「東の国?シュラン帝国か?」
「もっと遠い」
ロギルは眉をひそめたが、それ以上追及はしなかった。
「親分を倒したのなら、掟によってお前が新しい親分だ。だが…」
彼は腰に下げた大剣に手をかけた。
「証明してもらおうか。本当に強いのか、俺にも見せてくれ」
周囲の盗賊たちがざわめいた。ロギルは明らかに挑戦状を叩きつけたのだ。
「待て」ガジェルが間に入った。「今日はもう遅い。まずは客人をもてなせ。明日、力を見せてもらおう」
ロギルは不満そうだったが、うなずいた。
「わかった。明日の朝、決着をつける」
その夜、陽一は盗賊団の一室に通された。粗末な寝床だったが、少なくとも雨風をしのげる場所だった。
「ミミック、大変なことになったな…」
陽一はスマホを取り出し、声をひそめて話した。
『確かに複雑な状況です。盗賊団の首領として認められるか、明日試されるようですね』
「俺なんか盗賊の親分なんてできるわけないだろ…」
『しかし、この状況では彼らの協力が必要かもしれません。この世界について情報を集め、生き抜くためには』
陽一は天井を見上げた。
「そうだな…とにかく明日を乗り切らないと。この電気の力、もっとコントロールできるようになれば…」
彼は手のひらを見つめ、集中した。かすかに青い火花が指先に現れ、ゆっくりと手の中を這うように動いた。
『興味深いです。電気エネルギーの操作能力が発現しているようです』
「魔法なのかな…」
『科学的に説明できない現象であれば、この世界ではそう呼ばれるのかもしれません』
陽一は電気を少しずつ強め、やがて手のひら全体が青白く光るようになった。
「結構…疲れるな」
力を解除すると、陽一はふっと息をついた。
『体力や精神力を消費している可能性があります。無理はなさらないでください』
「ありがとう、ミミ…」
そこで、ドアがノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、先ほど見張りをしていた少年だった。10代前半くらいだろうか。痩せた体に不釣り合いな大きな瞳が特徴的だった。
「新しい親分…です、よね?」
少年は恐る恐る言った。
「いや、まだ決まったわけじゃない…」
「僕、クリフっていいます。親分のお食事を持ってきました」
クリフが差し出したのは、木の皿に載った焼き肉と野菜、そして水が入った木製のコップだった。
「ありがとう」
陽一が礼を言うと、少年は驚いたような顔をした。
「親分が…ありがとうって」
「変か?」
「ガジェル親分は、食事を持ってきても何も言わなかったから…」
陽一は少し考え、微笑んだ。
「俺は違うんだ。手伝ってくれたら、ちゃんとお礼を言う」
クリフの目が輝いた。
「本当に雷を使えるんですか?」
「ああ…まだ上手くはないけど」
「すごい!魔法使いなんですね!」
「魔法、か…」
陽一は言葉を噛み締めた。この世界では電気操作が魔法と見なされるらしい。
「クリフ、この団のことを教えてくれないか?」
少年はうなずき、話し始めた。黒風盗賊団は約50人の中規模集団で、主に街道の商人や時々は村を襲って生計を立てていた。ガジェルは2年前に前親分を倒して地位を得たが、最近は収入が減り、団内の不満が高まっていたという。
「みんな、親分の代わりを望んでたんです。特にロギルさんは…」
「なるほど」
陽一は状況を理解し始めていた。
「それで、近くに村とかあるの?」
「はい、半日歩けばウィロー村があります。でも今は…」
クリフは顔を曇らせた。
「悪い貴族が支配していて、みんな苦しんでいます。税金が高すぎて、食べ物も足りないって…」
「悪い貴族?」
「サラマンダー卿です。半年前にこの地域を任されてから、ひどい搾取をしているんです」
陽一は考え込んだ。ここは「悪徳貴族」が実在する世界なのだ。
クリフが去った後、陽一はミミックに相談した。
「この状況、どう思う?」
『複数の課題が存在します。明日のロギルとの対決、盗賊団の掌握、そして生存戦略の構築です』
「俺は盗賊にはなりたくない。でも…」
陽一は迷っていた。この世界で一人で生きていくのは難しいだろう。かといって、罪のない人から奪う盗賊になるわけにもいかない。
「ミミック、もし俺がこの盗賊団を変えるとしたら、どうすればいい?」
『変える、とは?』
「弱い者から奪うんじゃなく…悪い奴から奪って、困っている人を助ける、みたいな」
『義賊ですね。歴史上では、ロビン・フッドのような存在が知られています』
「そう、義賊だ」
陽一は決意を固めた。もし明日のロギルとの戦いに勝てれば、盗賊団を義賊へと変える。それが、この状況で最善の選択だと思えた。
「よし、明日に備えよう。この電気の力をもっと練習しておく」
陽一は夜遅くまで、細かな電気の操作を練習した。スマホの画面を照らす青い光の中、彼の決意は固まっていった。
明けて朝。陽一は盗賊団全員の前に引き出された。洞窟の前の平地に、即席の格闘場が作られていた。
対面に立つロギルは、既に剣を抜いて構えていた。
「ルールは簡単だ。倒れた方が負け。命までは取らん…が、怪我は保証せんぞ」
陽一は深呼吸した。昨夜の練習でいくらか自信がついたが、戦闘経験のある相手に勝てるかは疑問だった。
「ミミック、アドバイスを」とポケットのスマホに小声で言った。
『相手は力と経験に勝ります。あなたの電気能力を使い、距離を取って戦うことをお勧めします』
「距離か…」
陽一は両手を軽く握りしめ、電気を集中させた。
「始めっ!」
合図と共に、ロギルが突進してきた。彼の動きは速く、重い体格からは想像できないほど軽やかだった。
「うおっ!」
陽一は慌てて後ろに跳んだが、かろうじて剣の軌道をかわせただけ。鋭い風圧が頬を掠めた。
「へっ、逃げ回るだけか?」
ロギルは嘲笑いながら、再び攻撃を仕掛けてきた。陽一は何とか距離を取ろうとするが、相手の戦闘経験は圧倒的だった。
「くっ…このままじゃ…」
背中が崖に触れ、もう下がれない。ロギルの剣が迫る。
その瞬間、陽一の中で何かが弾けた。恐怖と生存本能が、未知の力を呼び覚ましたのだ。
「はああっ!」
彼の右手から、青白い電撃が放たれた。ロギルは目を見開き、剣で受け止めようとしたが、電撃は金属を伝い、彼の体を貫いた。
「ぐあっ!」
ロギルは痙攣しながら膝をついた。剣は地面に落ち、彼の体からは煙が立ち上っていた。
場内が静まり返った。
「これは…本物の魔術だ…」
「親分が雷を操る…」
「すげえ…」
ロギルはゆっくりと顔を上げた。彼の表情には敗北の色が浮かんでいたが、同時に、何か新しい感情も混じっていた。尊敬だろうか。
「認めよう。お前が新しい親分だ」
陽一は安堵のため息をついた。勝ったのだ。しかし、これからが本当の勝負だった。
「みんな、聞いてくれ」
陽一は集まった盗賊団に向かって声を上げた。
「俺は佐々木陽一。今日から、この団の親分を務める」
ざわめきが起こったが、陽一は手を上げて静めた。
「だが、今までと同じようには続けない。これからは、弱い者からは奪わない」
「え?」聞き慣れない方針に、盗賊たちは困惑した顔を見せた。
「俺たちが狙うのは、悪い貴族や役人だけだ。クリフから聞いた。近くのウィロー村は、サラマンダー卿という貴族に苦しめられているらしい」
「ああ、あの守銭奴のことか」年配の盗賊が口を挟んだ。
「奴が来てから、この辺りの村々は皆、重税に苦しんでる」
「なら、奴から奪おう」陽一は力強く言った。「そして、苦しんでいる村人たちに分け与えよう」
盗賊たちの間に新たなざわめきが広がった。
「義賊か…」ロギルが立ち上がって言った。「悪い貴族から奪って、貧しい村人に分け与える…」
「そうだ。そうすれば、村人たちも俺たちの味方になる。隠れ家も提供してくれるかもしれない。何より…」
陽一は一呼吸置いた。
「それが、正しいことだと思うんだ」
沈黙が流れた後、意外にもロギルが最初に賛同した。
「面白そうだな。サラマンダー卿には俺も恨みがある。そいつの金庫を空にするのは、悪くない考えだ」
彼の言葉に、徐々に他の盗賊たちも頷き始めた。中には不満そうな顔もあったが、大多数は新しい方向性に興味を示したようだった。
「では決まりだ。まずは情報収集だ。サラマンダー卿の城、兵力、金庫の場所…すべて調べよう」
陽一の言葉に、盗賊団には新たな活気が生まれていた。彼らは長らく、単なる略奪者として蔑まれる存在だった。しかし今、「義賊」という新たな道が示されたのだ。
その日の夜、陽一はロギルやガジェルと共に作戦会議を開いた。ミミックからのアドバイスを基に、陽一は具体的な戦略を立てていった。
「サラマンダー卿を倒し、この地域を救う——黒風義賊団の最初の仕事だ」
こうして、異世界に転移した平凡なサラリーマン、佐々木陽一の新たな人生が幕を開けた。彼の手には古の魔法にも似た電気の力と、現代の叡智を宿したスマホ。そして、彼の周りには忠誠を誓い始めた仲間たちがいた。
トレンティア王国の歴史に、新たな一ページが刻まれようとしていた。