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最後のさよなら  作者: KEN
25/30

二〇〇〇年 マンハッタン・冬 24


 この夜、チャイナタウンでは二十棟の建物が全半焼し、十五人が焼死し、三十人が火傷を負った。その数には私が救い出した密入国をしてきた家族や、有毒ガスを吸って死亡した少年も含まれていた。少年は姉の少女と密入国する危険を冒してまでこの国にやってきて、火事に巻き込まれて死んだ。この国に来なければ、失われることはなかったかもしれない命だった。

 生き延びた不法入国者たちはニューヨーク市警から移民帰化局の職員に引き渡され、代わりに王梅鈴と黄賢が事情聴取の名目で市警に拘束された。

 警察と消防の両方から事情聴取を受け、私が警察署を出た時には朝日が上り始めていた。放火した犯人はすぐに捕まった。放火現場のすぐ周りをうろついているところを、パトロール中の警官に職務質問され、ライターやガソリン入りの瓶を持っていたために、そのまま警察署に連行されたのだ。男は南米からやってきた移民で、チャイナタウンの料理店をクビになり、店主に罵倒されたことを恨んで火を放ったと自供した。それは真実ではなかったのかも知れなかった。だが、市警は事件が簡単に幕を引けることを喜び、男の話が細部はともかく辻褄が合わない話ではないことを確認すると、その自供を信じることに決めて、私を解放した。同じ頃、FBIの特別捜査官一名とチンピラ風の若者が聖パトリック大聖堂で至近距離から射殺されているのが見つかって市警はてんやわんやの状態で、私などの相手に捜査員を割いている余裕は無かったのだ。

 私は、ジャケットが煤だらけのままで、ズボンとシャツは真っ黒になり、身体からは焦げ臭い匂いが漂って、髪の毛はチリチリに焼けていた。警察署の前で停めたタクシーの運転手は私の格好を見て乗車拒否をしようとしたが、目の前に警官が何人も立っていることに気が付き、舌打ちをしながら乗せてくれた。運転手はヒスパニック系の移民の男だった。

「チャイナタウンかね」と、男はひどい訛りのある英語で機嫌悪そうに訊いた。「それなら歩いていってくれないか。俺は忙しいんだ」

 私を見て中国人と思ったようだった。

「いや、グリニッチヴィレッジだ。ブリーカー通りまで行ってくれ」

 男は再び舌打ちをした。「燃え尽きちまえばよかったんだ、あんな町なんか」

 私は文句を言う気にもならなかった。

 アパートの前で車を停め、料金メーターのぴったりのドル札とコインを渡すと、男は不審そうな表情になった。

「チップはなしだ」私は言った。「君にやるチップは無い」

 車から私が降りると男はドアの窓を降ろし、私に向けて中指を突き立ててファックユーと罵り、車を急発進させた。

 私は泣き出したい気分だった。

 アパートの郵便受けには手紙が届いていた。分厚い封書で重量があった。差出人はサニャで、昨日の午後の消印が押されていた。心臓が高鳴り、私はその手紙をちょっとの距離の間に失わないように懐にしまい込んだ。

 廊下で寝間着のまま、ぼさぼさ頭で煙草を吸っていた隣人が、汚れた私の格好を見て目を剥き、慌てて部屋に入ってバタンとドアを閉めた。私はため息をつき、自分の部屋に入ると鍵を閉めた。

 冷蔵庫からサミュエル・アダムズを一本取って口を開け、ソファに座って手紙の封を開けた。中から手紙と写真の束が出てきて、印画紙に残った酢酸がプーンと臭った。約束通り、彼女自身が焼き付けてくれたようだった。

 手紙を手に取ると、まだ乾ききっていない印画紙がひんやりと冷たかった。写真はパラフィン紙で包まれて二つの束に分かれていた。一つの包みはインタビューで撮影したオニール議員のポートレイト写真だった。

 もう一つの束は、写真が十枚ほどあり、そこに写っていたのは四人の男が談笑している様子だった。カメラの方を向いて軍服姿のオニールとバリゴッツィがソファに腰掛けていた。カメラに背を向けて二人の男が座っていて後頭部が写っていた。どの写真も写っているのは後ろ姿か横顔程度ではあったが、私はその二人が誰だかすぐに分かった。マリオ・ロッソとファミリー幹部のモレッティだ。

 この写真はマフィア組織とオニール議員との黒い関係を示す上で、どれくらいの役に立つだろうか。まだ軍人の時代にマフィア組織に属する人間と会ったことがあるというだけに過ぎないかも知れない。伏木に渡した写真が唯一、ロッソたちとバリゴッツィを同じ画面に写しこんだものだった。

ロッソたちが写真を手に入れたがったのは、今が選挙の真っ最中だからだ。大統領選ではどんな小さなスキャンダルも命取りになりかねない。ロッソたちがオニール議員を自分たちとの関係を暴露すると脅す材料には少しは役立つかも知れない。

 だが、それでも、こんな写真のためにジョニーとサニャが殺されたのだとしたら、それはあまりにも無意味な死だった。

 私は手紙を手に取り、きれいな筆記体で書かれた文章を読んだ。


「親愛なるケイスケへ


 あなたに頼まれていた写真を現像して送りました。インタビューの写真と、ジョニーが撮影した写真です。

 あなたにはお詫びをしなければならないことがあるの。あなたを騙していました。

 あたしとジョニーが付き合っていたことを知って、イタリア人の組織から脅されていました。あなたに言いたかったけれど、しゃべったら何をされるか分からなかったので、怖くて言えなかった。連中はジョニーが撮影した写真を欲しがってました。ネガフィルムは彼らに渡します。でも、その前に現像した写真を送りました。

 彼の部屋にあなたが住んでいることも知っていました。あたしがあなたと知り合いだということは彼らは知らなかった。でも、なんとかあなたと連絡を取って写真を探す時間を作れと言われていたの。ジョニーが死んだと聞かされた時、あたしはどうしていいか分からなかった。ずっと泣いて過ごしていたわ。

 あなたが自分からお店に来た時、とてもびっくりした。でも、本当のことを言うと、とても嬉しかった。なんだか、運命のような気がした。私の友達はサラエボでたくさん死んでしまった。ジョニーも死んでしまった。だから、あなたに会えたのはとても嬉しかった。

 でも、あたしは彼らに写真を渡さなければならなかった。それに、この街で生きていくために、お金も必要だったの。だから、あなたと会った日、私は店を出る前にジャックという男に電話をかけました。あの時、銃を持った男に襲われたのは、あなたが写真を持っていると思ったからだと思う。あなたが撃たれてしまうのではないかと、とても怖かった。

 あの夜、ホントはあなたに抱いてもらいたかった。でも、あたしはあなたを裏切ってしまったから、できなかった。それがとても辛かった。


 ごめんなさい。これでお別れです。あたしはサラエボに帰ります。ジャックはお金をくれると言っています。ジョニーが死んで、あたしをこの街に連れてきた人はいなくなりました。この街で生きていくのは辛すぎます。この街は私の町ではありませんでした。でも、あたしの中には新しい命がいます。サラエボに帰って、この子と一緒に生きていきます。


 ケイスケ、いろいろ親切にありがとう。それから、ごめんなさい。あなたとはもっと早く出会いたかった。できれば、戦争や争いなどが無い世界で会いたかった。ピアノをもっと聴かせてあげられればよかった。

 さようなら

                         サニャ」


 彼女は手紙の中で何度も何度も謝っていた。そんなに謝ることがあるなら、会って謝ればよかったのだ。そうしていれば、殺されることはなかった。私は手紙を握りつぶした。

 彼女は現像した写真を入れた手紙を投函し、ネガフィルムをマフィアの連中に渡しに行き、ボロ切れのように殺されたのだ。彼女はこれですべてを終わりにしようと思っていたに違いなかった。ネガを渡しさえすれば、すべては終わると信じていたのだろう。しかし、そうはならなかった。闇に葬られたのは彼女の方だった。ジョニーの子供を身体に宿したまま、私の前から彼女は消えていなくなった。

 私はシャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。冷え切ったシーツはモルグでサニャにかけられていた白いシーツと同じで、彼女がこれから身にまとうことになる白装束を思い起こさせた。私は身体を小さく丸めて震えた。このままベッドの中に沈み込み、海の底まで落ちていってしまったら、どれほど楽だったろう。そうすれば、この冷え切った身体も寒くはないだろう。海の底は暗く冷たく、そして静かだ。人の死にも煩わされず、ただ時間の過ぎていくままに身を任せることができるのだ。

 電話が鳴った。また、村井領事か、ルイス警部、あるいは伏木あたりだ。今は出る気にはなれなかった。そのままにしておけば諦めるだろう。そう思って放っておくことにした。しかし、ベルは鳴りやまなかった。私は留守番電話をセットしなかったことを後悔した。

 十回、二十回、三十回・・・。ベルの鳴る回数を数えた。呼び出し音はいったん途切れ、再び鳴り出した。十回、二十回・・・、私は諦めて受話器を取った。留守だと言ってすぐに切ってやろう、そう思った。しかし、耳に飛び込んできたのは予想もしなかった声だった。

「おとーさん」日本にいる息子の航平だった。「もう、やっと出たぁ。待ちくたびれちゃったよぉ」

 私は虚をつかれた。「どうしたんだ。航平、おばあちゃんは?」

「おばあちゃんに電話の仕方を教えてもらったんだよ。いっぱい番号を押さなくちゃいけないから、何度も間違えちゃった」

「自分で電話したのかい?」

「だってぇ、お父さん、全然電話くれないんだもん」

「ごめんよ。忙しかったんだ」

「分かってる。おばあちゃんもそう言ってた。待ってたら、電話かかってくるから、いい子で待ってなさいって。でも、お父さんの声が聞きたかったの」

 息子の声を聞いているうちに、自然と涙があふれ出てきた。まるで、栓抜きで水道の栓を抜いてしまったようだった。シーツの端で拭っても拭っても涙は止まらなかった。白いシーツに黒い染みが広がっていった。シーツはもはや白くはなかった。

「ぼく、寂しかったんだよ。お父さんにたくさん話したいことがあったんだ」航平は言った。

「ごめんな・・・」私はやっとのことでそれだけ口にした。

 小さな命を救うことができなかった瞬間、火の海へ飛び込むことを決意した瞬間、息をしなくなった女の冷ややかな肌に触れた瞬間、銃口を見つめて死を覚悟した瞬間、焼け焦げたまま冷たい墓地に埋められていく友を見つめていた瞬間、あらゆる時間が突然よみがえった。悲哀、恐怖、空虚、喪失、絶望・・・あらゆる負の感情が私の中で破裂した。そして歓喜が底の方から小さな顔を覗かせた。

「航平・・・」私は言葉を続けることができなかった。

 電話のすぐ向こう側にいる息子を今すぐ抱きしめたかった。それはかなわないことと分かっていて、私は受話器を握りしめた。

 息子は楽しそうに、学校であった今日の出来事を話し続けていた。他愛も無いことだった。隣の席の女の子に消しゴムをぶつけたこと、給食のおかずをお代わりしたこと、算数で計算を間違えたこと。そうした他愛も無い言葉の一つ一つが私に生きる力を与えた。

 私にはまだ帰る場所があったのだ。

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