一九九四年 サラエボ 1
彼と初めて会った時、サラエボの街では激しい戦闘が続き、毎日、市民がボロ切れのように殺されていた。
九四年の二月が始まったばかりの寒い日のことだった。九二年春から始まったボスニア内戦は間もなく丸二年を迎えようとしていたが、未だに終息の気配すら見えなかった。サラエボは相変わらずセルビア人勢力に包囲されたままで、陸の孤島だった。誰もが先を争って逃れようとしているこの街にわざわざ訪れるのは、スタンドプレイの派手な政治家と、功名心か同義心のどちらかが強いジャーナリストくらいのものだった。
私たちはサラエボ市内で唯一営業を続けていた宿泊先のホリデーインの薄暗いロビーに集まり、国連防護軍の装甲車が到着するのを待っていた。その日も朝から激しく雪が降り続いていた。午後になってセルビア人陣地からの砲撃が収まったため、私たちは前線となっている地域に連れていってもらうことになっていたのだ。この街では装甲車両でなければ移動の安全すら確保することはできなかった。
彼は冷え切った大理石のロビーに腰を下ろし、傷だらけのニコンを大切そうに手のひらで温めていた。まるで卵を温めて孵化させようとしている母鳥のようだった。サラエボの街を歩き回る外国人ジャーナリストには防弾チョッキの着用が義務づけられており、上から着込んだ灰褐色のフライトジャケットがピチピチに弾けそうになっていた。彼は少し長く伸びすぎた黒い髪を、煩わしそうに掻き上げた。
彼の格好は日本人と変わらなかったので、私は日本語で話しかけてみた。しかし、彼はきょとんとした表情で私を見上げ、はにかんだように分からないと首を振った。
「ぼくはジョニー・リー。合衆国から来ているんだ」きれいな米国英語で自己紹介した。
私は手を差し出して、彼の手を握った。ジョニーの手は氷のように冷たかったが、私の手もきっと同じように冷え切っていたに違いない。「草薙啓介。ぼくは日本からだ」
彼は、自分が中国系アメリカ人で、ジョニーは愛称なんだよと言って中国語で本名を教えてくれたが、私には彼の中国語の発音がまるで聞き取れなかった。彼は笑って、ロビーの湿った床に漢字で李祥榮と書いて見せた。私も漢字で自分の名前を書いて見せると、分かったというように頷いた。
「すまなかった。ニコンを持っていたから、てっきり日本人かと思った」
「残念だけど、日本に行ったことはないんだ。合衆国を出たのも初めてなんだ」
「初めての海外旅行にしては、ずいぶんひどいところに来たものだね」
「仕方がないよ」彼は肩をすくめた。「仕事なんだ。ニューヨーク・タイムズで働いているんだよ。カメラマンなんだ」
「仕事だっていうのは分かっている。誰も好きこのんでこんなところに観光に来たりはしないだろうからね。ぼくは日本の雑誌の仕事で来ている」
私たちはお互い、ひどいところに来たものだと、笑いあった。
私の方はといえば「週刊トゥデイ」の取材で、一週間前にボスニアの首都であるザグレブに入り、三日前に国連防護軍機でサラエボに到着したばかりだった。ジョニーは一週間前からホリデーインに泊まっていると言った。
ザグレブからサラエボまで来る便の時刻表はまるで当てにならず、今日の午後には出発できそうだ、明日は飛べるだろうという事務官の台詞をさんざん聞かされ、待ちくたびれたジャーナリストたちがあそこに停まっている飛行機は張り子で実はエンジンが載っていないんだぜ、と真面目に噂し始めた頃になってようやくサラエボ行きの防護軍機は出発した。それはカバのようにでかい図体の輸送機で、私たちはサラエボ市民用の援助物資と一緒に胃袋のような機内に押し込められた。乗り心地はまるで脚が三本しか無いラクダの背中にまたがっているようにガタピシしたものだったが、墜落しないだけましだったし、何より文句を言える筋合いではなかった。
空港に到着した時、サラエボは激しい銃撃戦の真っ最中だった。週刊トゥデイからは年配のカメラマンが私と一緒に派遣されてきていたが、ここのあまりの凄惨さに怖じ気づき、親戚に不幸があったという連絡が入ったのをいいことに、ホテル周辺の風景を何枚か撮影しただけで予備のキヤノンと、広角と望遠のレンズを二本、それと大量のフィルムを私に押し付け、早々に帰国してしまった。
確かにそれが賢明なやり方だった。彼は妻子持ちだったのだ。
市民であろうとジャーナリストであろうと関係なく狙撃される恐れのあるこの街では、命の値段は一ドル札よりも価値が無かった。私たちの「プレス」という肩書きは市民よりも安全を保証される立場にあったが、銃口の前に出てしまえばそんな保証書は紙切れ同然だった。
ホリデーインには、欧米の新聞社やテレビのスタッフ数十人が宿泊していた。同僚が退き上げてしまった今となっては、日本人は私のほかにはいなかった。日本の新聞社やテレビ局は記者の生命を危険にさらすことを嫌って、最前線のサラエボまで記者を派遣することは滅多になかったのだ。このところセルビア人勢力の攻勢が強まっており、サラエボの街は陥落寸前との見方もあって、街から退却するジャーナリストは増えていた。日本の新聞報道は、最も戦地に近づいたとしても国連軍の庇護下にあるザグレブ発がいいところで、実際のところは欧州総局が置かれているパリやウイーン、NATO軍の拠点があるブリュッセルからの打電がほとんどだった。弾の飛び交う戦場にまで足を運ぶのはいつものようにCNNやどんな危険な場所にも入り込んで来るロイターのような通信社、スクープ写真を狙うフリーのカメラマンと私のようなルポライターくらいのものだった。
やがてガラガラと機関が壊れたような大きな音を立ててやって来た国連防護軍の装甲車に私たちは乗り込んだ。定員以上に押し込められて、中はひどく狭くて窮屈この上もなく、重油の臭いと体臭が混じり合った空気で胸がムカムカしたが、移動の足が無いよりはずっとましだ。少なくとも白タクのように法外な料金をふっかけられる心配はないのだ。流しのタクシーなどサラエボのどこを見回しても見つからなかったし、バスや路面電車さえ動いていなかったのだ。
白い塗装を施して国連のマークを貼り付けた装甲車は市街の中央を走る大通りをゆっくりとしたスピードで走っていった。瓦礫や穴だらけになって壊れた自動車が道を塞いでいるので、真っ直ぐには走れなかったのだ。
私たちと一緒に乗り込んでいたフランス軍の兵士が、下手くそな英語で、この通りにはボイボダ・ラドミル・プートニク通りという大層な名前が付いているが、内戦が始まってからはほとんどこの名前は使われていないと教えてくれた。川向こうの街のすぐ外側まで迫ってきているセルビア人の兵士が、高層ビルの窓からこの通りを駆け抜けようと試みる無鉄砲な市民や通行車両を射的の標的のように待ち構えていて多くの死者を出していた。街のこちら側からもボスニア政府の狙撃手がセルビア人兵士を狙って銃星を覗き込んでいたため、自然に付いた通称はスナイパー通りだった。この通りに面して被弾していない建物など一つも残っていなかった。
装甲車は砲弾で穴だらけになった前線を視察した後、ドイツ人記者のリクエストで以前はサッカー場として使われていたスタジアムに向かった。内戦が始まって以来、ここでサッカーの試合が行われたことは一度もなく、今では足りなくなった共同墓地の代わりになっていた。地面はすっかり掘り返され、数え切れないほどの十字架が立ち並んでいた。
夕闇が迫って相変わらず雪が降り続き、気温はどんどん低くなっていたにもかかわらず、死亡した市民の葬儀が何組も行われていた。夕刻に葬儀を行うには理由があった。昼間は砲撃や狙撃が激しくて棺桶を運び込むことすらままならなかったのだ。
朝から晩まで狙撃に精を出すセルビア人も、夕暮れが迫ればウォール街の証券マンと同じように休息を取る。戦争を行っているのは命令に忠実に従う機械ではなく、同じ血の流れた人間同士だった。街を取り囲んでいる人間も、街に取り残された人間も二年前までは隣り合わせで生活をしていた同じ国の住人だった。宗教や肌の色や言葉が違うというだけで人間はいとも簡単に殺し合いを始める生き物なのだ。
近くに掘り返された墓穴の脇で、イスラム教徒であるムスリムの家族と思われる数人が肩を寄せあって、棺桶が降ろされていくのを見守っていた。コーランの詠唱が冷風に乗って微かに聞こえて来た。子供たちが親にしがみついていたのは、悲しさと同時に寒さが厳しかったからに違いない。革の手袋をしていても、冷気が針のように指先に突き刺さってきた。
ジョニーは手袋を外して無表情にファインダーを覗き込み、葬儀の様子を撮り始めた。
「寒くないのか」私は訊いた。
「寒いさ。でも、手袋をしていては、いい写真は撮れないからね。女の子を扱うのと同じだよ。手袋をしたまま愛撫するわけにはいかないだろ」
私は苦笑して、彼が撮影を続ける様子を見守った。ジョニーは壊れやすい女性の身体に優しく触れるように、大切にニコンを扱っていた。
私は慣れない手つきで、同僚が残していったキヤノンのファインダーを覗き込み、シャッターを切った。
撮り終わったフィルムを交換しながら、ジョニーが言った。「日本人は機械を作るのが上手だね。ぴたっと手に馴染むし、写真の出来具合も人を裏切らない」
「いい女みたいだろ」
「日本人の女の子とは付き合ったことがないんだ」
「カメラと同じさ」
私がそう言うと、ジョニーは謎めいた笑みを浮かべて撮影に戻っていった。
雪は相変わらず降り続き、薄汚れた装甲車両を白く塗装し直すように覆い始めた頃になって、フランス人の兵士が短くなったジタンを投げ捨てて、そろそろ戻る時間だと宣言した。彼はまるで旅行会社のツアー・コンダクターのように退屈そうな表情をしていた。私たちは物見遊山で田舎の町から出かけてきた観光客のようだった。
装甲車は国連防護軍本部が置かれたビルにほど近いプレスセンターに寄って、通信社のスタッフを数人降ろした後、ホリデーインに戻った。ほとんどの仕事は自分の部屋でできたし、夜間外出禁止令が出ていたため、あまり遅い時間になると戻れなくなる恐れがあったので、大半の記者はホテルに戻ることを望んだのだ。
装甲車に乗り込む時、フランス兵は空を見つめながらフランス語でぼそっと言った。
雪が積もりそうだな、彼はそう言っていた。