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最後のさよなら  作者: KEN
15/30

二〇〇〇年 マンハッタン・冬 14

 その日のマンハッタンは鈍色の雲にすっぽりと覆われ、朝方には粉雪が舞う寒さだった。二月も下旬に入っていたが、ニューヨークは寒気団に覆われ、冷凍庫に投げ込まれたマグロのように凍り付いていた。

 私は地下鉄に乗って、チャイナタウンに向かった。街のあちこちには中国の旧正月である春節の赤や金色の提灯や漢字の書かれたモールの飾りが外されずに残ったままになっていた。通りを一本隔てた向こう側のリトルイタリーは先日事件があったせいか何人も警官が出ていて、物々しい雰囲気だったが、チャイナタウン側はいつもとまるで変わらない様子で、多くの中国人が日常の買い物に市場に繰り出していた。

 私は記憶を掘り起こしながら、メインストリートから細い路地に抜けて九龍飯店を見つけ出した。

 昼食前の店のドアには「準備中」と書かれた看板が提げられていた。ドアを引いて、まだ暗い店の中に入ると、ドアベルがチリンチリンと可愛らしい音を奏でた。

「まだランチタイムじゃあないよ」

 襟が高いマオカラーの青い服を着た店員が奥から出てきた。

 まだ二十代の若い男で、髪を短めに刈り上げていた。私の姿を見て中国語で何か話しかけてきたが、何を言っているのか分からず私は首を振った。

「店の主人に会いたい。女性のはずなんだが」私は英語で言った。

 男は明らかに警戒したような表情で身構えた。「何の用だ。警察か」

「そんな大層なものじゃあない。ジョニー・リーの友人だ。この店の主人が彼と親しいと聞いたんだ」

 ジョニーの名前を出せばすぐに話が通じると思ったが、ますます警戒をするような表情で男は言った。「そこで待っていろ。奥様に今聞いてくる。そこから動くんじゃあないぞ」

 男が店の奥に入っていくのを見てから、私は円卓の下に収められた椅子を引き出して腰を下ろした。

 店は少々古くなりかけていたが、チャイナタウンのほかの中華料理店が赤や金の塗装をふんだんに使って独特の派手な色調で飾り立てているのと比べると、木目をそのまま生かした落ち着いた色合いでまとめられていた。壁には天に昇っていく龍を描いた壁紙が貼られ、色褪せた水墨画の色紙が飾られていた。

「あなたなの、祥榮のお友達の方って」

 気が付くと、テーブルの向かい側の椅子に女性が座っていた。

 長い黒髪を後ろで束ね、黒いシルク生地に青い花をあしらったチャイナドレスを着た美しい女性だった。若そうに見えたが、憂いを含んだ表情には人生に疲れたような翳りが見られ、私と変わらないくらいの年齢のようにも思えた。

「ケイスケ・クサナギといいます。ジョニーとはサラエボ以来の友人でした」

 彼女の表情が険しくなった。「あなただったのね。祥榮からあなたのことは聞かされたわ」

「良い噂だったらいいんですが」

「どうかしらね」

 彼女の表情を見ていて、私はどこかで彼女に会ったことがあるような気がしてきた。「どこかでお会いしたことがありませんか」

「女性には誰にでもそうやって言ってるでしょ」彼女はニコリともせずに言った。

「ジョニーと結婚していたそうですね」

「そんなことを話しに来たの?」

「そうじゃありません。少し教えてもらいたいことがあった」

「祥榮のこと? もう彼と私は何の関係もないのよ」

「ずいぶん冷たいんですね。彼とは結婚していた仲だったんでしょ」

「あなたに答えることではないわ。彼はもう死んでしまったわ」

 どうにも取り付く島もなかった。

「彼は事故で死んだんじゃない。爆弾で噴き飛ばされたんです。ぼくはなぜ彼が殺されたのかを知りたいと思っている」

「あなたが関わるべきことではないわ。なぜあなたが彼のことを詮索するの」

「ぼくはジョニーの友達だ。友達が殺された理由を知りたいと思うのは不自然ですか」

「あなた、日本人ね。祥榮があなたと友達になりたがった理由が分かる気がするわ」

「どういう意味ですか」

「あの人はいつだって、この街から出ていきたかったのよ。いつか成功してやる、それがあの人の口癖だったわ」

 きっと百歳まで生きてピュリッツァー賞を取るんだよ、サラエボでジョニー・リーはそう言っていた。その夢はかなわなかったが、ビジネスの世界では成功した。そして、こんなに美しく聡明な女性を妻にした。いったい何が不満だったのだろうか。

 私はようやく彼女がジョニー・リーの葬儀に出席していた女性の一人であることに気が付いた。王老人が歩くのを助けていた女性だ。

「彼と関係ないと言うなら、なぜ彼の葬儀に出席していたんですか?」私は聞いた。

「それは・・・」彼女は口ごもった。

「だいたい、まだあなたの名前を聞いていなかった。何とお呼びすればよいですか」

「マダム・ウォンだ」

 声の方向に目をやると、先ほど私が来たことを告げに奥に入っていった若い男が店の奥の方から現れて、私を睨んでいた。

「王よ。王梅鈴」彼女は言った。

「メイリンでいいかな、それともマダム・ウォン?」私は男の方を見ながら言った。

「どちらでもかまわないわ。あなたはそれで祥榮の何が知りたいの?」

「彼のビジネスの相手。彼はどんなビジネスをしていたんですか」

「そんなことも知らなかったの?」驚いたような表情で梅鈴が言った。「あなたは祥榮と一緒に仕事をしていたのかと思った」

「いいえ。ただの友達です。サラエボで一緒だったと言ったはずだ」

「仕事仲間なのかと思った」

「カメラマンということですか? いいえ、ぼくは写真を撮るのは得意じゃあない。ただのルポライターだ」

「そういうことじゃあないわ。ブリュッセルには行かなかったの?」

「どういうことですか」

 いったいジョニーは何の仕事をしていたのだ。

「知らないならいいわ。もうあの人はいなくなってしまったんだし」

「教えてください」

「ろくでなしのオニール議員に聞いてみるといいわ。あの男は祥榮を利用して私服を肥やして政治家に成り上がって、彼を裏切ったのよ。あのろくでなしのせいで彼は死んだんだわ」

「オニール? オニール上院議員のことですか? いったい、彼とどんな関係が・・・。あの時の葬式にも顔を出していましたね」

 私は身を乗り出した。

「しつこいぞ」

 私を睨んでいた若い男が近寄ってきて、つかみかかろうとした。

「お止めなさい、黄賢」鋭い叱咤だった。

 命令することに慣れた者にしか身に付かない威厳を備えていた。貢賢と呼ばれた男はビクッと身体を震わせ、凍り付いた。

「もういいでしょう。お帰りなさい。私から教えて差し上げられることはもうないわ。この店にはもう来ないで。その方があなたのためよ」

「マダム・・・メイリン・・・」

「マダム・ウォンよ。たいていの人はそう呼ぶわ」梅鈴は寂しそうな表情を浮かべた。

「マダム・・・そろそろ出かける時間です」黄賢が英語でそう言い、彼女の耳許で中国語で何かを囁いた。

 梅鈴も何事かを中国語で返した。

 黄賢はその返答に不服そうに見えた。

「疲れたわ。出かけるのは夜にします。今日はその方がいいでしょう。さあ、ミスター・クサナギ、もうお引き取りください」

 私は椅子から立ち上がった。

 梅鈴も椅子から立ち上がった。背が高くすらっとした肢体に飾り気の無い黒いチャイナドレスをまとった姿はひどく艶やかに見えた。しかし、美しい顔立ちには笑顔は無く、表情はひどく悲しげではかなく見えた。さっきは私よりはるかに若いように思えたが、今はすっかり老婆のように年老いて疲れて見えた。

「あの人のことを探るのは止めてちょうだい」梅鈴がポツリとそう言った。

 黄賢が睨み付けているのを痛いほど感じながら、私は彼女を残して店を出た。



 私は一度アパートに戻って、黒のジーンズと色の暗いジャケットに着替えてからレンタカーを借り出し、日が暮れるのを待った。軽く食事を済ませて緑のフォード車で再びチャイナタウンに戻った時には気温はかなり下がっていた。

 チャイナタウンの狭い道と、車道の真ん中を堂々と歩いている人並みに辟易しながら、九龍飯店の裏口を確認できる場所に駐車した。

 私はいったいここで何をしているのだろうか。梅鈴のことを調べても、おそらく何か意味あるものは見つけ出せないだろう。しかし、私は彼女の態度や振る舞いがなぜか気になっていた。

 夜十時を過ぎ、チャイナタウンの店がそろそろ店を閉め始めていた。ヘッドライトを消し、ストールしないようにエンジンを切ったままにしておいたため車内はかなり冷え込んだ。私は近くの料理店で夜食を買い込み、脂ぎった中華風スナックを中国茶で胃の中に流し込んだ。胸焼けしそうになってリトルイタリーのコーヒーショップに暖かい飲み物でも買いに出かけようかと思っていた矢先に九龍飯店の裏口がギギッと音を立てて開き、さっきのチャイナドレスとは打って変わって黒いジーンズに革ジャンパーというラフな格好の梅鈴と作業着姿の黄賢が現れ、裏口を閉めるのが見えた。

 私は二人に見つからないようにフォードの中で身体を運転席の下に沈み落とした。

 二人は何事かを話しながら、店の近くの駐車場に向かっていった。私はエンジンをかけ、スモールライトを付けてフォードを少し動かして二人の様子を見守った。

 二人は駐車場の奥に停めてあった白くて大きなメルセデス・ベンツに乗り込んだ。数倍は馬力があるあの車にスピードを上げられたら、この非力なフォード車では追いつけないだろう。しかし、あまりスピードが出せないマンハッタン近郊ならなんとか尾いていける可能性はあった。

 駐車場からベンツが出てきて、何台か車をやり過ごして少し間を空けてから私はフォードを動かし、二人を見逃さないように後を追った。向こうは黄賢が運転しているようだった。白のベンツはチャイナタウンを出ると、マリリン・モンローと結婚していたヤンキースの名センターの名前がついたハイウエイを北に上がり、リンカーン・トンネルを抜けてニュージャージー側に渡った。

 梅鈴を乗せているためか、黄賢は前の車を追い抜くこともなく危なげのない走りをしていて、後を尾けるのはたやすかったが、深夜に近い時間帯で交通量が少なく、前を行くベンツに気取られないようにするのは、なかなか大変なことだった。

 ベンツはしばらくニュージャージーの住宅街を北上していき、やがて街並みが寂れてきたところで右に折れてハドソン川添いの波止場に入っていった。そこには今はまるで使われていないと思える古めかしい煉瓦造りの倉庫がいくつか立ち並んでいて、倉庫の奥の方では七十年代頃の大型車が何百台も鉄屑の山を作っていた。車道に一本立っている電灯の灯りを頼りに観察すると、倉庫の一部が焼け焦げて煤だらけになっていた。どうやら以前はスクラップになった自動車からクズ鉄を拾い出して南米などに輸出するために使われていたが、火事か何かの原因で放棄されたままになってしまった波止場らしかった。

 私は前のベンツが倉庫の影に入るのを待ってから、ヘッドライトを消して彼らの死角になる場所にフォードを停めて車から降りた。

 中華料理店の女主人が深夜にやって来るにはあまり似つかわしくない場所だった。いくらウォーターフロントのレストランが流行りだからといって、こんなに寂れた場所に中華レストランを開くはずもなかろうし、まさか料理に使うための青梗菜や香菜を栽培しているわけでもなかろう。こんなところで栽培するのにふさわしいのは大麻草のような代物くらいだ。

 二人はベンツから降りると、軍用懐中電灯の灯りを点け、波止場の奥にある古びた倉庫の一つの南京錠を外すと、大きな鉄の引き戸を開いて中に入っていった。二人の後を追っていった私は危うく彼らと鉢合わせするところだった。倉庫の中を覗こうとした時、彼らがこちらに戻ってくる足音を聞こえ、慌てて建物の影に隠れた。

 二人は倉庫から出ると今度は波止場の先にある桟橋の方に歩いていった。私は転んだり砂利で音を立てないように足下に注意をしながら、二人の百メートルほど後ろを建物にへばりつくような格好で追った。後ろから私が尾けていることなど、全く気が付いていないようだった。もちろん、そうでなくてはこちらが困っているところだったが。

 ハドソン川に突き出したコンクリート製の桟橋は潮で腐食し、中の鉄杭の一部が顔を覗かせていて赤茶けた錆が浮き出ていた。河口から吹き上がる海風が氷のナイフのように顔や手に突き刺さった。川の向こうにはマンハッタン島の灯りが電飾のように瞬いていた。

 二人は桟橋の先で何かを待っているかのように、じっと立ちつくしていた。私は寒さのせいで歯がカチカチ鳴るのをなんとか抑えながら、両手をこすり合わせて、手袋をアパートに忘れてきたことを心の底から後悔した。

 震えが止まらずに、さすがにそろそろ車に戻ろうかと考え始めた頃だった。時間は深夜零時を大きく回っていた。河口の方から釣り船のような中型の船が船首をこちらに向けて進んでくるのがマンハッタンの灯りに映し出された。重油を燃やすボッボッという音と黒い煙が風に乗って私のところからでも微かに判別できた。

 黄賢と思われる黒いシルエットが桟橋の先で懐中電灯を何度か船に向けて振った。船はゆっくりとした速度で桟橋に向かってきた。その船を遠目に見て、何か奇妙に感じたが、それが何なのか、咄嗟には思い至らなかった。

 背後にザッという何かが石を踏む音を聞いた時には手遅れだった。ゴツンと私の後頭部が音を立てた。目の前に日本の漫画のような火花が飛び散った瞬間、私の頭脳は百分の数秒ほど急に冴え渡り、違和感を感じたのはその船の喫水線があまりにも低かったことであることに気が付いた。船は今にも沈みそうなくらい荷物を満載していたのだった。

 しかし、それに気が付いたからといって、何かの役に立ったわけではなかった。私の意識はそんなものは何の用も成さない遠い闇の世界に旅立っていってしまったのだから。

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