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歴史系

世界最古で世界初

またその動物ですか。

はい。

 時に文政五年(一八二二年)の秋、浪華を中心に西日本は未曾有の感染症に見舞われた。


 それは尋常でない嘔吐と下痢により、急激に死亡に至る病である。三日ほどで命を落とすような凶悪な病は「三日ころり」などと呼ばれた。


 即ち、コレラのことである。


 もっとも江戸時代は三大感染症ともいうべき「天然痘、麻疹、水痘」が存在し、医者たちはこの重症化をいかに避けるかに尽力していた。そして漢方生薬の処方水準が上がったのである。

 この三大感染症は一度罹患すると生涯で二度と悩まされることがない免疫が獲得出来る。

 だが、コレラにはそれがない。


 コレラワクチンが存在する現代でも、ワクチンの有効期間は二年間ほどである。


 畢竟、三日ころりが流行した江戸時代では、漢方薬などの対症療法以外、神仏に頼るくらいしかなかった。

 細菌研究が隆盛を極め、人々がその恩恵を受けるようになるのは、これより半世紀以上後の話だ。


 さて、三日ころりという経口感染症が流行った同じ頃の話だ。

 医学の修行ため、茨城郡の小川村から江戸にやって来た、一人の青年がいた。

 意思の強そうな眉と、どこか少年のような幼さを残す、黒い瞳を持つ男。


 名を玄調(げんちょう)という。



 玄調は十七の年に原南陽(はらなんよう)に師事する。

 師となった原南陽、食うや食わずの赤貧生活から、大抜擢されて水戸藩の藩医となった医者だ。


 玄調が入門したのは、南陽の晩年であった。

 原南陽亡き後、玄調は杉田立卿(すぎたりゅうけい)華岡青洲(はなおかせいしゅう)の元で、蘭学や外科学、時には儒学までを学んだ。


 修行を積んだ玄調は、文政十一(一八二八)年に故郷に戻る。

 そして養父本間益軒(ほんまえきけん)の下で、医者としての活動を始めた、その翌年のことである。


 季節は秋。

 満月は皓々と野山を照らし、ススキの穂が夜風に揺れていた。


 そろそろ(あつもの)を食したい時候である。

 とはいえ未だ見習い医者の立場ゆえ、玄調は干芋を齧りながら、医学の書物を読んでいる。


 故郷に戻っても、玄調の向学心は尽きていない。

 幸い小川村は、三日ころりの悪辣な洗礼を受けていない。


 だが、痘瘡は繰り返し発生している。

 玄調の師の一人、シーボルトは、「種痘」という方法を用いれば痘瘡から免れると言った。

 なんとか種痘の接種を行えないだろうか。


 若き玄調の想いを後押しするかのように、月にかかる雲が流れていく。

 そんな晩である。

 


 今夜は益軒が、俳句の集いで帰って来ない。

 益軒の八代前の先祖は、松尾芭蕉と親交があったそうだ。

 先祖の血が騒ぐのか、益軒はしばしば、句会へ足を運んでいる。


 本間の邸の離れにある施術場で、玄調は本の頁を繰っていた。



 そろそろ行燈の灯を落とそうかと思った時である。

 下働きをしている弥助が障子の向こう側から玄調を呼ぶ。


「若先生。急病の者が」

「親父殿は今宵はまだか?」

「はい。おそらくは明け方まで先方様のお邸かと」


 仕方ない。

 俺が診よう。


「診立ての部屋に案内しておけ」


 作務衣を羽織り、玄調は部屋に入る。

 布団の上には若い男が横たわり、傍らには玄調の父と同じくらいの男が居た。


 傍らの男は確かこの辺の地主だろう。

 玄調の姿を認めると、地主は立ち上がり深くお辞儀をする。


「若先生。お休みのところを恐れ入ります」


 玄調は地主に病人の名と症状を訊く。


「これは当家の賄いをしている六輔と申します。一昨日から熱が出て、仕事を休ませていたのですが良くなりません。昨日はウチの婆様が祈祷したんですが、やっぱり治らずに、とうとう今日の夕刻には吐いたり下したりしたもので、ころりではないかと家人も心配し、不躾とは思いながらもここまで連れて参りました」


 恐縮する地主の話を聞きながら、玄調は六輔とやらの症状を把握する。



「何度吐いた? 腹下しは一回か?」


 横になったまま六輔は、荒い息を吐きながら答える。


「ど、どちらも、一回です」


 高熱。

 嘔吐や下痢は一回ほど。

 ならば、三日ころりではない。


 秋風が吹くころに流行り始める、感冒あたりか。




 桶の水で手を洗い、玄調は六輔の帯を解き体を探る。

 幸い発疹はない。

 しかし、腕で脈を計る時に脇の下の腫れに気付く。



 それはぽっこりと脇に実る、鶏の卵ほどの大きさの腫れだ。やや硬さもある。


 玄調の眼が、ギラっと光る。

 脳内がもの凄い速さで、回転を始めたのだ。


 一度だけ……。


 この腫れは、一度だけ診たことがある。

 確か馬喰町に往診に行った時だ。


 あの時の患者の生業は……。


「地主殿。賄い役の六輔は熱が出る前に、生の魚か獣肉を捌いたりしていないか?」


「はあ、魚の御膳は食べていないですな。獣の肉ですか」


 地主はそう言えばと切り出す。


「七日前でしょうか。罠にかかった野ウサギが獲れたので、鍋にして食いました」


 ぐったりした六輔が、顎を動かす。


「あっしが、……捌きました。肉は……食ってません」


 当たりだ。


 馬喰町の患者も、「ももんじや」の板前だった。板前の話によれば、扱った食材は、兎肉だった。


 ももんじとは獣の肉を指し、それを食することの出来る店を「ももんじや」と呼んだ。

 獣肉を忌避していた感のある江戸時代だが、熊や猪などの肉は病に効くとされ、これらの肉を売り、あるいは調理して振る舞う店が繁盛していたという。



「地主殿。六輔の病はころりではない」

「そうですか」


 地主は安堵の息を吐く。


「そうだな、強いて言うなら、『兎肉中毒』というものであろう」


「う、兎ですか! 兎は、当たることの少ない肉と聞いて育ちましたが」


 地主もこの土地に生まれ育ち、鶏肉や兎肉を食する習慣がある。


「俺もそう思っていたのだが、世の中には、まだまだ知られていない病やら、その病を引き起こす、目に見えない何かが、あるのかもしれんさ」


 玄調は自分に言い聞かせるように呟いた。


 後の天保八(一八三七)年、玄調は「瘍科秘録」の第九巻に、「食兎中毒」と記す。

 これこそが、野兎病菌によって起こる急性熱性疾患「野兎病」の、世界で最も古い記録なのである。



 さて食兎中毒に罹った六輔は、玄調の調合した薬により順調に回復した。後遺症もなくいつも通りの仕事に戻った御礼にと、地主と六輔から玄調に届けられた羹は、鳥鍋だったという。



 玄調が水戸藩の学校で医学館教授となり、やがて藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)と共に種痘の実施に踏み切るのは、天保十四(一八四三)年になってからである。


 

      

      了



【追記】


野兎病(やとびょう)とは、野兎病菌による動物由来疾患であり、人間は、この病気に感染している動物の皮を剥いだり調理したりする際に、体液等に直接触れることにより感染するという。



参考文献:大原八郎「本邦に於ける野兎病に就いて」日本伝染病学会雑誌第八巻第十二号、昭和九(一九三四)年九月

後に、福島の大原八郎博士によって、野兎病を起こす細菌が発見されました。

日本での野兎病は、あまり重症化しないそうですが、北米などではコワイ感染症です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] あの動物が出てくるはずと思いながらも、どの病気だろうかと玄調の診立てにドキドキしました。 うわー、いいものを読ませていただきました、ありがとうございました。 ウィキに華岡青洲の麻酔薬を公開…
[良い点] 良い作品です!
[良い点] キリッとした文章が、ストイックに生きる玄調に似合っていて良い雰囲気でした。 触診から玄調の頭の中でパパパッと繋がっていき診断に至る流れを息を詰めて読みました。 でも、秋の気配を感じながら…
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