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崩壊

 頭の中が五月蝿い。原因はいつも通りの寝不足だと分かっているが睡魔が来る気配はなかった。眠りたいと心の奥底がため息をつく。疲れたと吐き出したのは脳ミソか。開けっぱなしの両目がじりじりと乾きを訴え始めた。

 泣けたらよかったのに。

 突然そんな気にもなった。泣く理由は特に見当たらないのにだ。泣けたらよかったと思う。

 そうすれば眠れる気でもしてるのだろう。たぶん、知らないけれど、きっとそうなのだろうと思う。けれど泣くのも疲れるから面倒だった。感情を動かすのも億劫である。なら、あぁ勝手に流れ出るままにすれぱいいのか。それも、めんどうか。

 だらだらと思考を回す。心は空っぽだった。

「胡蝶」

 呼ばれた名が意味を為さない。

「胡蝶、」

 鼓膜が音に揺れるだけで脳まで届かないのだ。

「胡蝶、おいで」

 おいで。それがようやく言葉と成った。それをきっかけにゆっくりと感覚が外へと繋がっていく。

 まず目玉が世界にピントを合わせた。それから瞬きをひとつ、ふたつ。のろのろと黒目を動かし声の主を映し込み、くっついた口唇を上下に剥がした。――うるせぇ。しゃがれた声が悪態をつく。

「イヌネコみたいに呼ぶな」

 乾ききった唇の皮が剥けている。食んで千切ればじわりと血が滲み出た。

「似たようなもんだろ。いいから、おいで、胡蝶」

 行かねぇ。反抗的な鼻先はそっぽを向いた。五月蝿い頭の中はその間も騒いでいた。寝ぐずりかと笑う声は既に遠い。全身を覆う気だるさが心まで蝕んでいた。

 世界の全てが遠くなる。その中で店の引き戸が開く音が聞こえてきた。

「おや、いらっしゃい」

 店主はいつになく柔らかな声音で迎えた。赤子のぐずった声も聞こえている。子連れの母親でも来たのだろう。そう思ったのも束の間、再度聞こえた「おいで」との言葉に緩慢に視線を向けた。

 子どもだ。六、七歳くらいだろうか。男の子が赤ん坊を抱えて店内と後ろの景色を見比べている。自宅のいずれかの戸を開けた結果ここへ繋がったということだろう。ぼやけた、外ではない景色を背景に立つその表情は驚きと不安をたっぷりにこちらを見上げていた。

 気力はここで尽きた。興味もさほどなかったので意識を向けもしない。けれど他にやることもない両耳は聞こえてくる二人のやり取りを拾い続ける。子どもには優しいのだな。柔らかな夢屋の声に思った。

「大丈夫、取って食ったりなんかしないから。ほら戸を閉めて。泣き声が聞こえてしまうよ」

「おじさん、だれ? なんでオレの家にいんの」

「俺は夢売りだよ。あと、ここは君の家じゃあない。俺の店だ」

「でも、ここ、オレの家だよ。だって、ほら」

「そっちはね」

「……魔法使い?」

「いいや、違う。夢売りだ。ほら、こっちにおいで。欲しいものがあるんだろう?」

 そんな説明で納得するとでも思っているのだろうか。案の定ますます警戒心を強めた男の子の腕の中で、その心情を感じ取った赤子が大声で泣き出した。鼓膜に突き刺さる。痛みを覚えるほどの音量が脳を刺激した。

 手慣れていないにも程があると思うが、夢屋はそんな有り様でなお子どもをこちらへと招いている。

「ほら、おかあさんにゆっくり眠って欲しいんだろう? 一緒におかあさんに見て欲しい楽しい夢を選ぼう」

 記憶が見えるとか言ったか。事情を知らなければ恐怖を覚えるだけの特技だ。普段ならば彼自身もそれを理解し、もっと上手く話を誘導するのだが柄にもなくはしゃいでいるらしい。目を瞑るとよく分かった。穏やかに話そうとする声音がわずかに上ずっているのだ。

「……お前、それキモいからやめろよ。適当ちょうちょでも出して機嫌とっとけ」

 助け船を出した理由は特にない。強いて言えばもう少し静にして欲しいと思ったからである。非はこちらにあると理解はしているが、少年も少年でなぜ逃げようとしないのかと不思議ではあった。――まさか、招かれたわけではあるまい。近づき視線を合わせるその黒の瞳に杞憂は募った。

「ごめんな、びっくりしただろ。お前の言う通りこいつ魔法使いなんだよ。頭の中が見えんの。お前の願いを聞いて会いに来たんだ。子ども好きらしいし悪いようにはしねぇからさ、相手してやってくれない?」

 未だ響く赤子の声を遮るために背後の戸を閉めながら掛けた声にも固まったままだった。その視線が不意に逸らされる。追った先では助言通り、ひらりと蝶々が室内を舞っていた。白昼夢なのか品物のひとつなのかは知らない。数を増やしあちらこちらに姿を見せ始めたそれらに、少年はすっかり心を持っていかれたようだった。泣き声も元のぐずった声にまでおさまっていた。

「すっげぇ、これ魔法?」

「そう、魔法」

 なんて単純な生き物だろうか。興奮を湛えた面差しについ笑みが溢れた。

「おにーさんもなんか出せんの?」

「俺? 俺は出せねぇよ」

「じゃあさ、じゃあさ他にもなんか出せんのかな?」

「さあ、聞いてきてみれば?」

 うん、と頷いた彼は先ほどまでの警戒はどこへやら。躊躇うことなく夢屋へと近づいていった。

 閉めきった戸の外は、昼でも夜でもない曖昧な色味の光に変じていた。繋がりが途切れたということか。室内の小さな背中を眺める。やはり、招かれでもしたのだろうか、と。


「あぁ、寝た。汗かいて、暑そうだ」

 少年から預かった赤子を腕に抱いた夢屋が機嫌よく喉を震わせる。赤子はすっかりとその身を彼に委ね穏やかな寝息を立て、その兄は背後で好奇心の赴くままに引き出しを開けては中身を確認してを繰り返していた。どこか和やかな情景にひとり馴染めない胸の内は冷めた目でそれらを眺める。

「何で扉は閉じたんだと思う?」

 凪いだ感情は平穏ではなく、嵐の前の静けさを表しているようだった。なれど、その理由は自分でも掴めていない。頭は平常なふりをしようと腹の底のざわめきを無視し続けていた。いつか壊れてしまいそうだなと暢気に思う。心か、頭か、体か、そのどれかが。正常に狂っていた。いつもの事だ。そう言い聞かせる。

「さあな」

 問いを短く切り捨てた金の目は僅かな間、何かを探るように細められた。薄く開いた口許は言いかけた言葉を飲み込む。代わりに紡がれた言葉は、わざとらしい、戯れのような軽い音をしていた。

「けどまぁ、いつもの気紛れだろ、どうせ」

「気に入られでもしたのか?」

「世界にか? そうだ、とも違うとも俺には分からねぇよ。分かるのは半座と世界だけだろ。あぁ、物書きもか。……何をそんな心配してるんだ?」

「心配なんかしてねぇよ」

「なら、何だよ」

 問いかけが喉の奥が言い得ぬ感情を波打たせた。静まりきらない感情はなにを不安がっているのだろうか。不快なざわめきはいつの間にか脳の大半を覆っていた。思考の動きも鈍い。霧がかったその意識の向こう側に、問いに対する感情は蠢いていた。そいつを指先で探る。

「……気の毒だと、思うだけだ」

「気の毒?」

 じわり、視線が肌に食い込む。乾いた唇をちろりと舌で舐めた。

「世界だとかの気紛れの所為で、頼んでもいないのに目の前から消えたら、探すだろ……必死に、家族が、こいつらを。こいつらだって、親を探す。なのに、見つからないし、もう二度と会えない。そんなの、どっちにとっても、あー……悲しい、し、最悪だし……不幸なだけだろ。だから、気の毒っつーか。……可哀相だ」

 なんとか言語化して告げた答えに夢屋は――あぁ。と吐息を落とした。いやに実感のこもった音である。しかしそれ以上に内心を特別滲ませたのは両の目だ。暗く渦巻く悲しみや苦しみや寂しさが、ひたとこちらを見つめてきたのだ。

 ――帰りたいのか?

 いつもは彼が口にする台詞が舌の先に乗った。

 昔のことなどほとんど覚えていないと宣いながらも、その時の感情は覚えているのか。もしくは、思い起こされたのだろうか。

 思い耽る耳元に別の声が囁いた。

「けど世界に望まれた者があちらの世界に居続けるのもまた不幸だということを、お前はよく知っているだろう?」

 飛び上がった心臓が一瞬動きを止めた気がした。見開いた両目は先ほどまで居なかったはずの男の姿を映している。

「万屋……」

 喘ぐ声が喉から絞り出された。いつ、入ってきたのか。長いくせ毛の向こうで細められた目が三日月に笑んだ。

「面白いものが手に入ったから寄ってみたんだけどね、随分と賑やかな時にきたらしい」

「だれ?」

 はしゃいだ声が背中に飛び付く。魔法使いの友だち。掠れた声はお座なりに答えた。心臓はまだ早鐘を打っている。肩口に凭れかかった温もりは、ふぅんと大人びた吐息を首筋に溢した。そのまま、少年はじっと夢屋と万屋、二人の観察を始めたようだった。

 視線の先では、やはり小さな子どもは珍しいのだろう。短い交渉の末、赤子を夢屋から貰い受けた万屋が愛しげに口許を綻ばせていた。

 彼らとは二、三歩ほどの距離がある。加えて立って抱かれた幼子の顔は見えづらい。それでもなぜか、寝ていた赤ん坊が目を覚ましただろうこと、それから万屋とその子が目を合わせたのだろうことは確信できた。

 ――烏合。

 声なき声で呼んだ名が、世界を揺らす。まるで祝福の鐘が鳴らされたかのように、世界が浮き足立つ気配を感じた。

 やはり、招かれたのか。

 確信が喉を詰まらせた。目の端では引戸の向こうの光が色味を変えている。その向こう側からは、誰かの名を呼ぶ女性の声。

 どうやらこれが目的だったらしい。扉は気紛れ。此度は誰に何をもたらす為に開いたのか。ざわめく心がもう一人の登場を待った。

 引戸を開け、赤子を抱く万屋の姿に瞠目した母親は、次の瞬間には深く頭を下げていた。

「まだ、いい。その時には自ら戸を開いてくれるだろうから」

 脈絡もなく、万屋は言う。が、頷いた母親にはどうやら省かれた箇所もきちんと伝わっているらしかった。返された我が子に笑いかけた彼女は迷いのない声で、凛と背筋を伸ばしていた。

「はい。その時まで、大切にお預かり致します」

「申し訳ない」

「いいえ。初めからそう決まっていましたから」

 ――は? 溢れ出そうになった言葉が胸の内で凍りついた。頭を思い切り殴られたかとも思った。衝撃に脳が揺れている。

 ――なにを、言っているんだ?

 喉がカラカラに渇いていた。

 初めから、何が決まっていると?

 瞠目し見やった夢屋は黙って全ての成り行きを眺めている。その横顔に浮かぶ感慨は何もない。冷たい沈黙であった。

 背中に貼り付いた温もりもまた、静観を続けている。

「代わりに俺は何を差し上げたらいい?」

「代わりなど、ありませんよ」

「あぁ、違う。不快に思われたのなら申し訳ない。何かお詫びとお礼を差したげたいんだ。出来れば、だけれど。何か受け取って貰えたなら嬉しい」

 母親は柔らかな微笑で頷いた。

「分かっていますよ。そういう意味で言ったのではないということは、分かっています」

「申し訳ない」

 再びの謝罪を彼女は首を振って受け取る。

「……でしたらこの子の名前を覚えていてください。どれだけ時が経とうともずっと、あなただけは、覚えていてください」

 なまえ……。と万屋は数秒躊躇いを見せた。この世界ではそんなものたいした価値がないからである。そもそも、ここの住人は己のあちらの世界での名前すら覚えていないのだ。教えられたとてどれほどの間、覚えていられるか。

 それでもなお、真摯な顔つきで「必ず」と頷いた万屋の言葉に嘘はないだろう。ありがとうございますと礼を述べる母親の笑みの端に安堵は浮かんだ。

唯縁いよりといいます。唯一の縁で、唯縁」

「唯縁……今度は時分の手でこちらに来い。待っているよ」

 笑い合う二人の姿に混乱は深まる。呼吸さえままならなくなってきた。鼓膜の奥から兄の声が聞こえてくるのだ。ジリジリと精神が焼ききれていく。

 そこへ、耳元で囁かれた少年のないしょ話が追い討ちをかけてきた。

「あのね、唯縁はね、ママが神さまから預かった子なんだって。違う世界にはんざをわかつ人がいるから、いつかお別れしなきゃいけないけど、僕のきょうだいには変わりないんだって。だからさびしいも悲しいもないんだって。ママがよく言ってるんだよ」

 どこか得意気に、そんな弟を持つ兄としての喜びの溢れた声には悲みなど欠片も見当たらない。

「お兄ちゃんたちは、魔法使いじゃなくて神さまだったんだね」

 そんなわけ、ないだろう。

 反論は、喉の奥で凍った。小さな背はその間に母親の元へと駆けてゆく。

 視界かグラグラと揺れていた。耐えかねきつく目蓋を閉じる。ひどく頭痛がした。いつもよりも大きく聞こえる音が鼓膜に痛い。

「ママ、僕これが欲しい」

「これ? 金平糖?」

「ちがうよ。楽しい夢」

「夢?」

「えぇ、ここは眠っている間に見る夢を売る店ですので。せっかく選んだのですから、どうぞ持って帰ってください」

 ――夢屋。聞こえてきた彼の声に薄く目蓋を開き、その涼やかな横顔を見やった。

「金額は、おいくらですか」

「かまいませんよ、そこのが払ってくれるでしょうから」

 こちらの異変などとうに気づいているだろう彼が、それに構う素振りもみせず接客を続けるその姿を、眺め続ける。

 いつも通りの、その姿を。

 ジャマをしたらいけない。

 冷静な思考が、愚かしい感情の波を心の小箱に詰め始めた。溢れでないように。何でもないように。心配などかけてしまわないように。余分な感情と一緒に鍵を閉めておく。

「色々とありがとうございました。大切に使わせていただきます。ほら、お礼言って」

「ありがとう!」

「こちらこそ。また、ご贔屓に」

 親子が去る頃にはもう混乱も盛りを過ぎていた。代わりのように自分以外の全てのモノが遠かった。硝子一枚隔てたように、音も光も何もかもが鈍く、ひどく眠気がした。現実逃避の夢うつつ。大丈夫だと嘯く己の言葉に自嘲した。

 傍目に見ればいつも通りのだろう。

「あれは、烏合の過去か?」

 口をついた疑念に、万屋は構えることなく答えを返した。

「あれがまた、好き勝手出掛けているうちに戸を繋げたんだろう。あれのなまえを俺に渡すために」

 夢屋から向けられているだろう視線は無視しておいた。

「じゃあ初めからって、何?」

「ん? 何って、なにが?」

「初めから決まってたとか言ってただろ。なにが決まってんの」

「なにって、全部が。え? だって、そういうものだろう」

 なにが? ヒリつく心が尋ねた。

「なにって、お前だって同じだったはずでしょ」

「同じ?」

 声が、僅かに震える。

「いや覚えてはないかもしれないけどさ。なんとなく分かっているだろ、そういうものだって」

 なにが? 再度尋ねる言葉は、万屋を呼ぶ夢屋の声に遮られた。二人分の視線が彼へ向く。

「悪いが一回帰ってくれないか」

「は? おい、夢屋」

 なんで、邪魔をする。怒りは一瞬にして脳にまで上っていった。閉じたはず箱が揺れだしたのだ。

 今度はこちらに二人分の視線。

「まぁ何だかその方が良さそうだねぇ」

 鍵も呆気なく壊れてしまったらしい。

「おい待てよ、まだ俺は――」

 感情はもはや暴発寸前だった。

 怖かったのだ。忘れることの出来ないあの出来事の無意味さを突きつけられるのが。

 恐ろしかったのだ。あの日々の抗いが全て無駄だったと知らされるのが。

 受け止められない、心が、全てを壊そうとしていた。

 耳朶に夢屋が呼び掛けた。静かに、諭すように。

「星凪、」

 知らぬ名を。

 深々と、心臓にナイフを突き刺された気がした。生命維持の何もかもが危うい。蜂の巣をつついたように騒ぎだした脳内は記憶と感情をごちゃ混ぜに投げつけてくる。

 溢れた涙はどんな色をしていただろうか。

 声もなく壊れてゆく。心が意識を暗がりの奥底へと意識を引きずり落としていった。

 微かに感じられたのは全身を包む温もりと、二人の短い会話だけ。

「いったい、世界は何がしたかったんだろうね」

「さぁな。けど、ぜひとも聞いてみたいよ。もし、神とやらがいるのなら、な」

 あぁ、俺もだよ。

 苦しげに掠れたその声に同意した。




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