罅割
夢よ夢、胡蝶の夢よ
夢か現か、現か夢か
その目に映る世界はどちらか
夢よ夢、胡蝶の夢よ
目覚めた先に見る世はどちらか
唄うように囁く誰かの声を覚えている。
ならば全部、夢でいい。これまでの全ての事が、赤子の自分が母の腕の中で見ている夢ならばいいのにと、何度思ったことだろうか。
逃げ惑い、未だにあの日に捕らわれたまま生き続ける己が嫌で仕方がないのだ。だからといって正面から向き合うだけの度量もなく、目を逸らし続けている。この日々とも呼べない時の流れの中で、ひとり踞り、前へと進めない自分に吐き気がして仕方なかった。
けれどあの日の出来事は無意識にこちらを追い詰めてきたりもするのだ。構える暇も無いままに。それこそ、夢なんてやり方で。
そう。夢を見るのだ。何度も、何度も、同じ夢を見る。それも悪い夢だ。あの日の悪夢のような現実の出来事を――いや、でも、もしかしたら……。
その時突如湧いて出てきたのは希望的観測だった。もしかしたらあれも、夢、だったんじゃないだろうか。なんてそれこそ夢みたいな理想。感触も匂いさえもリアルな夢……だった、ならば……どれほど、よかっただろうか。けれどそれも束の間。ほらまた逃げた、と内から聞こえる己の声にやはり吐き気を覚える。
何度同じことを願えば気が済むのだろうと、自分が哀れにさえ思えてきた。馬鹿だなぁ。同じくらい笑えてもくる。
いつも通りの堂々巡りが微睡みに浮き沈みする思考の上辺を漂っていた。
――眠るな。
同時に聞こえてきた声に身体を震わせる。未だに覚えているらしいその声に従った右手は、血が滲むほど腕に爪を立て頭蓋の内側に蔓延る眠気を紛らせた。
――眠るな、眠るな、眠るな! 眠るなら、薬を飲んで夢を見ずに眠れ。何度言えば分かる?! 夢なんか、見るな!
大丈夫、分かっているよ。過去の声に震える喉は応える。眠ってはいけないんでしょう。分かってるよ、×××。ほんの少しだけ目を瞑っただけなんだ。大丈夫。寝るなら、薬を飲んで深く深く眠るから。大丈夫、夢なんか見ちゃいけないって分かってる。分かってるから。許して、×××。
「胡蝶、」
力を込めていた手を誰かが包み込んだ。じんわりと伝わる熱に傷がヒリつく。痛いな。思う間に軽く頭を叩かれ視線を上げれば案の定、そこにいたのは呆れた顔をした夢屋であった。
「眠りたくないって言いながら寝るって結局どうしたいんだ、お前は。挙げ句うなされて、うるせぇから眠気覚ましに客相手してろ」
「……それが人にものを頼む態度かよ。口の悪さに客引いてんぞ」
「だったら取り繕っとけ」
いいな、と合わせた両目から何か読み取れたのだろうか。髪をかき混ぜ離れていった温もりの心理は分からない。ついでに眠気も散らされたのか、先まで浮かんでいた思考は微かな痛みを残して消えていた。何を考えていたのだったか。改めて考えるのも面倒だった。
店の入り口には夢屋が言う通り女がひとり所在なさげに立っていた。こちらのやり取りは充分聞こえていただろう。上手に愛想笑いをするかわいらしい人物だった。
「いらっしゃい。どんな夢探してもらってんの?」
「こんにちは、もうすぐ新年なので初夢にいい夢みたいなぁと思ってまして捜してもらってます」
へぇ。声は和やかに、顔も穏やかに意識して頬に笑みを刻んだ。昔身に付けた処世術である。ここしばらくうたた寝を繰り返していたお陰で少しは睡眠がとれていたのだろう。頭と心に出来た隙間がそんな事をする余裕を生み出していた。
「じゃあやっぱ、一富士二鷹三茄子みたいなの?」
「やっぱそれが縁起が良さそうですよね。でも今年受験なので合格した! って夢を見れたら本当に合格出来るんじゃないかなって思ってるんですよ」
「受験生なの? えぇっと」
「あ、大学です。行きたい所があるのでどうしても受かりたいんですよ」
言い付け通り軽やかに進む会話も上出来だろう。適当に当たり障り無く、いいヤツを演じる。久々の感覚に胸のどこかが痛んだような気もした。
「なるほど。じゃあとびきりのヤツを頼まないとだね」
「えっ、でもお金足りますかね」
「大丈夫でしょ。そこは勉強してくれるだろうからさ」
「勉強?」
「そ、まけてくれるかもよってこと」
「適当言ってるなよ、胡蝶。どうした、随分と愛想がいいじゃないか」
「さてね、さっき見た夢がとびきり良かったんだろ」
「馬鹿を言え」
さっき魘されていたのはどこのどいつだとでも言いたいのだろう。冷笑を寄越した夢屋は絡まった髪を再度乱し通りすぎてった。逆の手には包みに入った品を持っているということは、客相手はもう充分という事だろう。ならばもういいかと、そう判断した途端、ふつりと集中力が切れたのを感じた。
値段交渉をする二人の会話も既に上の空だ。だからと言って何かやることがあるわけでもなく。妙に冴えた意識はひっくり返した砂時計の中に流れる時を見るともなしに眺め始めた。
「あの、ありがとうございました」
その砂もほとんど落ちきった頃、少女は愉しげにこちらへと声をかけてきた。有意義な時間を過ごせたのだろう。残った気力を総動員し微笑を湛え――よい夢を。なんて声をかければ浮き足立って帰って行った。最後まで可愛らしいその姿に笑声はこぼれる。
「ほんとに上機嫌だな」
言いつつ興味はさほど無いらしい。ちらりと視線を寄越しただけで通りすぎて行くその姿がさらに笑えた。
「いいだろ、たまには」
「たまにじゃなくて、いつもそうなら可愛いんだけどな」
「ははっ。いつもはかわいくないってか?」
「いや、」
カツリ、煙管の灰を落とす音。次いでペンを片手に冊子のページをめくる音が会話の間に挟まった。それから、――いつだって可愛いとは思っているさと宣った。その言葉が、妙に浮わついていた心を凪払った。先は暗がりだ。
「はははっ」
――どうだか。
自己嫌悪がその言葉を否定したのだ。そんなわけないと他者の言葉を切り捨てて殻へと閉じ籠る。そのくせ、それが本当ならいいのにと願う心が同時にあるから。ふいに、泣きたくもなるのだ。
きっとこの心は壊れているのだろうと思う。あの日に壊れてそのまま治しもせずに時ばかり過ごしてきてしまったから。
だから、だからと堂々巡り、結論はいつだってここにたどり着く。
これが全部赤子の自分が母の腕の中で見ている夢だったならば、どれほど幸せだっただろうかと。
願い、店の引き戸をじっと見つめた。
この全てが、夢となることを祈って。