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幼子

 眠りたいと泣く子の背を撫でた。そうさなぁと相づちは適当に抱えた温もりをあやす。ゆらゆらと身体を前後に揺らしながら、子守唄なんてものを歌ってみたりもした。

「やぁ賑やかいねぇ」

 からり、引戸を開けて入ってきた本屋はそう言って笑った。

寄越しなと伸ばされた手は優しく幼子を抱き揺すり始める。

「寝たいなら寝ればいいのに、ずっとグズってるんだ」

 愚痴を溢すも一蹴。

「そんなものだろ、子どもなんて」

 簡潔な返しに肩をすくめた。

「さて、どうだったか。この店に来ることは少ないからなぁ」

「そこはお互い様だろう」

 泣き止むだろうか。そんな期待もすぐに消えたが気にせず抱き続けるその顔はなんだか嬉しそうだ。

「子ども、好きだったのか」

「あまり見かけないからねぇ。たまに見るとかわいいよ」

「そういうもんか」

「そういうもんだろ」

 ――そういうもんか。同じ語句を口内で繰り返す。まぁそういうもんか、と。引戸を開けこちらの世界にやってきたその子を見やった。きっと自分たちと同じく、外界に生まれたこの世界の住人を。

 元よりこ世界で新しく芽吹く命は草木のみなのである。その他の命あるものは外界と呼ぶ扉の向こうの世界から入って来ていた。そうして居着く者をこの世界に気に入られた者と呼び、人間の場合はそのほとんどが外の世界で生きていくには不都合な特技を持つものであった。

 きっとこの子もその類いなのだろうと、明らかにこちらの世ではない景色を背景に立つ幼子に悟った。奥からは女性の声が聞こえていたが、その子の耳にはもう届いていなかっただろう。

「おいで、」

 伸ばされた手に近寄ってくるその表情に不安はひとつもなかった。こちらもまた自然と彼の存在を受け入れ迎え入れる姿勢を示し続ける。

 その時にも、そう、思ったのだった。真っ直ぐに見上げてくる金と薄茶の眼が、まだ覚束ない足取りでゆっくりと近づいてくる小さな身体がかわいらしいと。この子は、ここに居るべき存在だと、そう思ったのだった。

 支えるものを失った引戸がひとりでに閉じてゆくようだ。ぼんやりと視界に映していたその隙間から――×××。別の幼子の声が聞こえてきもしたが、僅かに遅かった。腕の中に収まったその子が振り返った時にはもう既に戸は閉まり、ガラスの向こうはいつも通りの光が入り込んでいた。

 その景色を眺めたまま体重を預けてきた小さな身体はやがて寝息をたて始めた。部屋中に混沌を生み出しながらその子は、それから長い間、夢を見続けたのだった。

 そうして、寝ては覚めてはを繰り返しているうちに本屋が来たと言うことは、彼は正しくこちらの住人だと言うことなのだろう。あやされ続けたその泣き声は、随分と小さく途切れたものとなってきていた。きっと間もなく眠りにつく。小さな温もりに、本屋は――いい子だ、コチョウ。と呼び掛けた。

「コチョウ? その子の呼び名か?」

「あぁそうだ。胡蝶の夢の、胡蝶。それがこの子の名だ」

「こちょうのゆめ?」

「由来を知りたければ覗け、そう長い話じゃあない」

「あー……」

 覗かなくとも常に見えている。意識して見なければ景色と同じだけ。だから覗くもなにもないと説明したことはあったと思うのだが、覚えていないのか、どちらでも同じことかということか。ほんの少しの言葉の差異に引っ掛かりつつ、遠慮なく眺めた本屋の思考に次いであーなるほど? と声は漏れた。

「ふーん。夢か現か、うつつか夢かって? なら、なぁ、本屋。こちらの世界はどっちだ?」

 尋ねたのは戯れだ。この物語を集め売る人物はこの問いにどう答えるのか。好奇心のままに尋ねてみたのである。

 悪戯に上がった口角からそれは読み取れただろう。さてねぇと呆れた声で本屋は答を口にした。

「どちらでもかまわないだろう。夢でも現でも、この世はこの世だ」

 けど、と回答を続ける。

「今はこちらが現だろうよ」

 その目にもこの景色は見えているのだろう。胡蝶の見る夢と現が混じり合う、この混沌が。

 部屋に満ちていく、美しくもおぞましいその景色に指を触れれば蝶と成りひらひらと飛び回った。また一頭、また一頭と増えるその景色もまた美しく、おぞましく。ひとつまみ口に含めば脳の奥を痺れさせた。

 思わず湿った呼気を吐き出す。こちらの姿にやれやれと頭を振った本屋は幼子をあやし続けた。慈しむように、愛おしむように、そして哀れむように。眠り続けるこの世界の新しい住人に祝福の口づけを贈ったのだった。

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