憤懣
意識はうっすらとあった。髪を梳く指先が心地よかったのも覚えている。
夢から目を覚まして直ぐの事だったと思う。夢はまだ手の届く場所にいた。このまま意識を手放せばすぐにでも潜り込めただろう。あの無秩序な世界へ、溶け込む感覚に脳は想像しただけで幸福に満たされた。
その邪魔をするように声は頭上で交わされ続けている。煩いと身動いでしばらく、ため息を溢す音がした。それから誰かに抱き上げられ運ばれてゆく感覚と扉を閉める音を最後に、意識は夢の底へと手放されたのだった。
その時見た夢がどんな夢だったかは覚えていない。遠い昔の記憶の話だ。
うつらうつらと船を漕ぐ頭がなぜそんな記憶を掘り起こしたのかは自分でも分からない。けれどそこから広がる警鐘に腕を掴んでいた右手は力を込めその皮膚に爪を食い込ませ始めた。ほとんど、無意識の動作だ。無意識に行われるほど繰り返してきた。その動作が、閉じられていた重い瞼を押し上げた。
「おはよう、よく眠れたか」
「うるせぇ」
皮肉げに口の端を上げた店主に悪態をつく。おはようなどと流暢に言いながらその意味も知らないクセに、よく言うと次いで舌を鳴らした。
「客が来てるんだ。行儀よくしておけ」
クツクツ鳴らされる喉に促され視線を流した先には確かに男がひとり立っている。くたびれたスーツを着こんだ如何にもサラリーマンといった人物だ。遠く記憶の中から単語を拾い上げそう印象をまとめてみた。概ね外れてはいないだろう。兄が時おりそんな姿をしていた。
「すみませんねぇ、躾がなってなくて。飼い主にまで噛みつくんですよ。まぁそこがまたかわいいんですけどね」
「はぁ、」
同情だろうか。暗い瞳がこちらを見た。馬鹿馬鹿しいとそれを見返し、中身の落ちきった砂時計をひっくり返す。
「あの、」
目の端には未だこちらを見続ける男の姿が映っていた。
「なにか?」
「いえ……あの、あなたではなくて」
「あぁ失礼。胡蝶、呼ばれているよ」
「知るかよ。てめぇの客だろ」
何を話したいのかは知らないが相手をするつもりはなかった。頭蓋の中に残る眠気と常にある面倒くささが理由だ。どうせこの先出会うこともないだろう相手なのだから、適当な応対でもまぁいいだろうと思ったのだ。大抵の相手はこれで引き下がる。
「あの、」
しかし予想外に先程より大きな声はまっすぐ鼓膜を揺らしてきた。ゆるりと視線を向けてやれば、変わらず陰気臭い顔だ。なに、と短く尋ねる。その斜め前で店主は笑みを刻んだまま黙って成り行きを見ていた。
「……嫌じゃないんですか」
ちらりと二人を見比べた男は、声を喉に引っ掛けたような声でそう言った。
「なにが」
重ねて問えばかさついた唇は躊躇うように小さく開いて、すぐにも閉じられた。言い淀むくらいならば口にしなければいいのにと思わずにいられない。度胸があるのか、ないのか。ここに来る奴はそんな奴ばかりだ。しかも吐き出し始めると止まらなくなる。たぶんこいつも同じで、ひどく面倒な相手なのだと思う。
あの、と再び男は言う。それから意を決したような顔つきをしたから、始まったと小さくため息を吐き出した。
「……躾とか、言われるの。嫌じゃないんですか」
「なにが?」
「まるであなたが子どもか、ペットみたいに聞こえます。飼い主とも言われてたから、余計に、その……」
「別に、事実だからいいだろ」
「え?」
「だから俺がこいつよりガキなのもペットなのも事実なんだから、別にいいだろ」
ふるり、男の表情が揺れる。これは、怒りか。一度呑み込んだであろうそれが溢れてくる様が手に取るように伝わってきた。しかし誰に対してなのかは判然出来ない。たぶん彼自身でさえ理解していないだろう感情の濁流。制御不能となったそいつが投げつけられる。
「よく、ないですよ。ぜんぜん、よくない」
「っせぇな。いいんだって言って――」
「あなたは、そう思い込まされてるだけなんですよ。人をペットだなんて、そんな、人を人とも思っていないように言う相手の事なんて許すべきじゃない!」
「はぁ? なんで今日会ったばっかのてめぇに説教されなきゃなんねぇんだよ」
応戦したのは案の定寝不足が理由だ。マトモな判断など出来るはずもない脳ミソが短くなった導火線に火を点けたのだ。
「それは、あなたの認識が間違っているからです。僕自信それに苦しんで、今もずっと苦しみ続けているから。だからあなたを助けたいんです!」
「うるせぇ。黙れ。頭に響く。つか、何でてめぇが熱くなってんだよ。勝手に自分と重ねてんなよナルシスト。何が助けるだ。正義のヒーローごっこかよ偽善者」
「僕はただ!」
「叫ぶな、いちいち。頭に響く。つか、俺に言うなよ。せめてこいつに言え。つかお前、言う相手ぜってぇ間違ってるからな。お前をペットだとか言ってる奴に言えよ」
「それは……」
クツクツ、店主の笑い声が隙間に割って入ってきた。どう見ても二人の応酬を楽しんでいるその表情に、男は憮然とした表情で口を閉ざす。
それはまるでこちらが悪いかのような顔つきだった。睨みつけてくるのも気に入らない。だからなんでこちらに言うのか。たぶん、自分と同類か下位の存在だとでも思っているのだろうが。その思い上がりが心底不快だと舌を鳴らしてやった。
「まぁそう言うな。お前のことを心配してくれてるんだ。優しい人なんだぞ。ジョーシがエイテンするからって、わざわざ贈り物をこんな所まで探しに来てるんだから」
「気ぃ狂ってるだけだろ」
「あなたはどうしてそう!」
「まぁまぁ、落ち着いて」
「本当に躾のなってない人だ!」
「ハハ、てめぇも言ってんじゃねぇか」
こら、とここで漸くストップがかかる。これ以上は相手にするなと言うことだろう。伸ばされた指が髪を梳いて離れてゆく。叱ると言うには随分と甘い躾だ。
「お前はもう黙れ。静かに、目も合わせるな。いいな」
分かっていると手を振りながらも、最後に見た男の両目は濃い隈と相まってひどく淀んでいた。聞かずとも疲労困憊で頭が働いていないのだろうと想像がつく。簡単に怒気を上げたのもきっと概ねそれが理由だ。分かっていて煽ったのだ。こちらにも非はあるだろう。
男は、店主と話を続けていた。上司への贈り物だと言うがきっと望むのは悪夢だろう。強張った声と柔らかな声が交互に鼓膜に届けられた。
子守唄の代わりには到底ならないだろう。そう思うのに瞼は重くなってゆく。無意識があの日と重ねているのかもしれない。だからか、このまま意識を手放せばきっと夢の世界へ行けるのだろうと微かな喜びが脳をくすぐった。
ガツリと、腕を乗せていた机に衝撃が走る。足癖の悪い店主が蹴ったらしい。ぐらぐらと奥が揺らぐ視界で睨み付けた顔はいつも通りの顔で笑っていた。
「起きろ、そこの引き出しに丁度いい紐が入ってるんだ。寝る前に渡せ」
「眠らねぇ」
「どうせもうじき落ちるだろ。いつ寝ようが変わんねぇよ」
「いま、寝たら見るだろ、夢」
「ならとびきりのヤツをくれてやる」
「いらねぇよ、夢なんか、」
いらねぇと続けた声が言葉になったかは分からない。引き出しも、開けたはいいが中身を探すことも出来ず強い眠気に襲われた。
「なら宿賃だ。見た傍から俺が貰ってやるよ」
落ちてゆく意識の端。耳許で囁かれた声は低く鼓膜を震わせて離れていった。それが合図だったかのように意識はプツリと途切れる。向かう先は暗がりだ。眠ったと言うよりも意識を失ったと表す方が正確かもしれない。
その空白の中で、結局夢を見たかどうかは知らない。ただ目を覚ました時、おはようと宣った店主は、いやに晴々とした笑みを刻んでいたのだった。