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悪夢

 悪い夢を見るんですと男は言った。それが怖くて眠れないのだと弱々しい声で訴える。その夢がどんな夢なのかとこちらから尋ねることはなかった。店主共々、興味が無いからである。

 主曰く、夢はナマモノなのだそうだ。見たその時に回収出来なければ記憶に固着してしまうという。無理に剥がすわけにもいかず、売り物にも出来ない。ただの他人の思い出話であるから、興味はないらしい。

 そんな事情など知る由もない男はたぶん、どんな夢だったか聞き返して欲しかったのだろう。反応のないこちらに視線を彷徨かせ、所在無さげに立ち尽くしていた。

「それで、どんな夢が入り用で?」

 にこやかに主人が尋ねたとてすぐさま答えが返って来ることもない。夢屋などと暖簾は掲げているものの、半信半疑な者がほとんどだからだろう。当人でも見たい夢など分からないのだ。あの、えっと……とまごつく舌に手助けする者もいなかった。結局は押し黙る。客を手前に、店主は無駄話を始めた。

「そういえば、この世の中には睡眠薬なんて便利なものがあるらしいぞ、寝不足。いっそ、それに頼って寝たらいいんじゃあないか?」

 何の話だと男は怪訝そうにこちらを向いた。鬱陶しい。萎びた視線を手で払う。

「薬ってのはその内耐性が出来るモノなんだよ。効かないからって量増やせばいずれは死ぬ」

「じゃあそのギリギリを攻めてみろよ」

「もう実行済みだ」

「へぇ、それで?」

「死にかけて病院送り。それでも足りなくなって薬を頼めば断られ、仕方ないからまたネットで買って死にかけての繰り返し。そのうちに頭が壊れた」

「ははっよく分からねぇ単語もあるけど、お前が馬鹿だったことは分かった」

「あなたは……」

 口を挟んできた男はそこで黙った。二人揃って顔を向けたのが悪かったのかもしれない。だからと言って謝りも、手助けもしないのだが、何だか苛めている気持ちにもなってきた。あの、その……。口ごもる男の身体がどんどんと萎びていく。

「あなたは、夢を、求めないのですか」

 結局訊いてきたのもそんなコトだ。店主が意地の悪い顔でこちらを見ているのも分かった。うるせぇと口の中で文句を圧し殺す。けれど睨み付ける両目にはその色が乗っただろう。煙管をふかす唇がさらに口角を上げた。

 腹の底が気持ち悪かった。鈍痛が頭を締め付けてもいる。文机に体を預けてやっと座れているくらいなのだ。今すぐこの場で深く、深く眠りにつけたならばどれだけ心地良いかとも考えた。けれど、その快楽を拒絶する心は絶叫を上げているのだ。

「なに、黙ってんだ。答えてやれよ、寝不足」

「――黙れよ。お前は、知ってるだろう」

 眠りたくないのだと金切り声を上げる。そいつが心を掻きむしった。息が、浅くなる。意識も霞がかかり、死にそうだと冷静な部分が呟いた。何でこんな事になっているんだか。元凶の客を睨み付ければ、びくりと身体を震わせ縮こまる。その姿に苛立ちは増していった。

「あっはっはっはっ。あいっかわらず、難儀なヤツだなぁお前は。夢なんて見たくないと、そう言えば終わる会話だろうに。――あぁ、申し訳ないお客人。あいつは、何の参考にもなりはしませんから、あなたの話を聞かせてくださいな。そうだな、この前は死んだ犬に会いたいって客が来てましてね……」

 充分、からかえたのだろう。夢売りはようやく客に向き直り、あれやこれやと質問を重ね始めた。

 呼吸は、まだ荒い。吐き気も頭痛も続いている。強く握った両手は薬剤を求めているようだ。眼裏に、錠剤の粒が浮かんでいる。薄目を開ければ客と目が合った。

「あの、」

 性懲りもなく口を開く。こいつは案外神経が図太いんじゃないかと思った。歪に笑った口角に下げた眉尻。黒目に浮かぶのは同情か。それだけでも、充分だというのに男は言の葉まで付け足してこちらを憐れんだのだ。

「あなたに合う夢が見つかると、いいですね」

 手近な物をぶつけてやろうかと目の前が真っ赤に染まった。これ程の怒りが己の内にあったのかと、驚くほどに激昂をしていた。いつにも増して睡眠が足りていなかったのも要因のひとつだろう。右手は正確に鋏をしまった引き出しに手をかけていた。

 ガタリと鳴った大きな音に男は跳び跳ねる。引き出しは数センチ開いたきり。店主の手に抑えられ、それ以上動けそうにもなかった。力を込めようとびくともしないのだ。余計、腹が立つ。

「そいつは駄目だ。胡蝶、気を静めな。殺しちゃあいけない」

 背後から押さえつけた温もりがじんわりと肌に染み込んでくる。気色悪いと唸った声は獣じみていた。諌める声も聞こえてはいたが、意味を理解するまでには至っていない。ただ、名前を呼ばれたのが分かるのみ。骨を伝って届く。その低く静かな声が再度こちらを嗜めた。

「胡蝶、」

「うるせぇ、夢なんか、見たくもねぇんだよ……」

「あぁ知っているよ」

「ねむり、たくもない、」

「知っている」

「なにも、知らねぇクセに……」

「あぁその通りだ。怒れて当然だ。だから、」

「だから!」

「殺しちゃあ駄目だ。胡蝶。戻っておいで。それは、悪い夢だ」

 ふざけるなと、暴れる己が身の内でのたうち回る。夢なんかじゃあないと飛沫を飛ばし、捲し立てる。そいつが、頭の中にいた。マトモではいられない、壊れた脳ミソの成れの果てだ。それを徐々に自覚する。冷静さはその隙間を縫うように思考を満たし、意識は霧が晴れるように落ち着きを取り戻していった。

 詰めていた息を吐き出す。同時に身体から力が抜けていった。戻った視界には顔を引きつらせた男がひとり映り込む。もう興味のカケラもない。そいつがひしゃげた声で告げた謝罪も面倒だと振り払った。受け取りたくなど、ないからだ。

「重ね重ね申し訳ない。今日は虫の居所が悪いらしくてね。お代は半分で構わないよ」

「あ、え、えぇ。こちらこそ、失礼なことを言って申し訳ない」

 怯えた子犬のような姿だ。こんな奴に憐れまれたのかと思うと、悲しくもなってきた。尚もこちらを伺う視線の意味も理解できない。そいつに早く帰れと、ぞんざいな仕草で手を振った。

「もう、来るなよ」

 ついでと掛けた言葉に見開いた目は次いで笑った。気力のないそんな言葉でも、受け取り方次第では声援にでもなるのだろうか。ありがとうございますと薄く笑って去ってゆく、後ろ姿が夕日に溶けていった。

「あれも、寝不足で頭が回ってないんだろうな。配慮が足りねぇ」

 ケタケタと笑うのは当然店主だ。いつになく、外の時に翻弄されるこの身体が面白いのだろう。性格の悪い金目は、なのに優しく頭に触れ、白湯でも持って来ようかと声をかけてくる。

「それか、何か茶菓子でも買ってきてやろうか。傷心の坊やの為に特別だ」

 店も終いだと帳簿も閉じた。気まぐれに付き合う気力はもうなかった。

「いらねぇよ。必要もねぇだろ」

「なら子守唄でも歌ってやる。悪い夢を見ないように」

「俺にとっちゃ、お前が悪夢だ」

 もう何がしたいのかも分からない。そいつに悪態をつけば、違いないとまた笑声を上げる。脳に響くその声が今はちょうど良かった。

 少しずつ眠気が薄れてゆく。意識のどこかで、あの客はどんな夢を望んだのだろうかと大事そうに袋を抱えていった背中を思い起こした。こいつは、どんな夢を渡したのだろうかと。楽しげに揺れる、金色の目を持つ夢売りを見上げてみた。

 なぜ、夢を望まないような奴を側に置き続けているのだろうかと。

 尋ねても望んだ答えは得られないだろう事は知っているから。白んだ記憶の向こうに目を凝らした。見えるはずもないそこに何があったのか。痛む頭を机に乗せて微睡む。硝子戸の向こう側は、夜でも朝でも、ましてや昼でもない色に溶けていた。

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