7
ジャングルの天気は変わりやすい。満点の星が見える夜空だったのが、明け方には太陽が見えないくらいの雨雲に覆われていた。ぽたり、ぽたりと降る雨粒は大きく、身体に当たる数こそ少ないとは言え、もう一時もしたら大雨になるだろう。
クラジューは、額に当たった水滴を拭いながら息を整える。度重なる大移動で身体は限界を迎えているものの、疲れているからと逃げるわけにもいかなかった。この旅路の最後に何が待ち受けているのかは分からない。だが己の運命全てを受け入れるため、クラジューは一歩前へと歩き出す。
そこは昨朝に訪れた「西」の断崖絶壁だった。相も変わらず雄大な景色が目の前に広がっている。
それをぼんやりと眺めている先客がいた。その雄ゴリラは若々しく屈強で、見事なシルバーバックを背負っている。正に頼りがいのあるボスそのものだ。だからこそ、だからこそ「何故?」と悔やんでしまうのだろう。
雄ゴリラは足音を立てて近づくクラジューに気付いているのだろうが、後ろを振り向く気配はない。あと三メートル程まで近づいたところでクラジューは立ち止まり、重い口を開いた。
「昨夜ぶりか、息子よ。こんなところで何をしている。早く群れに戻って雌達を安心させてやれ」
「はっ、開口一番が『早く帰れ』か。ここに来てるってことは、俺が何をしたのか分かっているんだろう? だというのに、親父も随分甘っちょろいんだな。それとも混乱してんのか?」
「確かに混乱はしている。お前に対する確かな怒りもある。だが群れのボスはお前で、決定権はお前が握っているのだ。ボス争いに負けた私に何かを言う権利は無い。ただ一つ親として言えるのであれば、お前にはまだ守らねばならぬ者達が居るのを忘れるなということだけだ」
「流石、偉大なるボスは子供が殺された位じゃ取り乱さないってか。……だからこそ笑えたよ。俺のあんな嘘で、あんな人間程度で取り乱すアンタに、だ」
雨脚が強まる。
「お前はあんな嘘をついてどうしたかったのだ。私と私の子供達を殺すためか? 何故殺したかったのだ。何故殺したのだ」
「親父に育てられた俺は、成年になっても、ボスになっても、アンタの影がチラついていた。何をしても、していなくても、いつだって『偉大なるボス』と比べられる。俺はそれが煩わしかった。……だが、同時に俺はそれが誇らしかった。いつかアンタと肩を並べられる日が来るのを待ちわびて邁進してきた」
「だったら何故……」
「何故? 分からないのか? その偉大なボスが、いい歳して、あろうことか、人間に懸想していたからだ」
雨脚が強まる。
「昨日も言ったが、少し前からコミュニティでは噂になっていた。あの偉大なボスが、あの英雄が、まさか人間の雌に恋をしているなんて……ってな」
「そんな、まさか……」
「俺の方がまさかと言いたいぐらいだ。だから昨夜親父を訪ねて、一つ嘘をついてみた。『そんなわけがない』って思いを込めてな。するとどうだ。効果覿面じゃないか。親父は直ぐに人間を助け出しに動いた。己の危険を顧みずだ。……俺はな、俺はな親父、あの瞬間アンタに失望したんだ」
雨脚が強まる。
「俺を育ててくれた、強くて誇り高い父親はもういないと失望したんだ。だからアンタに最良の最期をくれてやろうと画策した」
「お前はそれが私と私の子供を殺すことだと言うのか」
「方法は何だってよかった。適当に英雄に仕立て上げれば、それでよかったんだ。親父の子供が死んで、その上で親父が『西』で死ねば、子供を殺した捕食者を狩りに行ったという話が作れる。既に群れのボスでもない親父が我が子のために身体を張ったとなれば、偉大なるボスの名は永遠となる」
「……私が、私がそんなことを望んだか? 一度でも望んだか?」
「俺が望んだんだ。堕ちたアンタは関係ない。しかし、まさか『西』から戻ってくるなんて思いもしなかった。それも捕食者付きでな。おかげで予定は狂ってしまった。アンタが戻ってこないことを確認してから、子供達は妻達に見つからない場所で追々始末しようと考えていたんだが……、思わず手が滑ってしまった。これじゃあ、俺はただの子殺ししたボスで、アンタはただの色ボケジジイじゃないか。困ったものだ」
クラジューが全ての顛末を聞き終わる頃には、全身ずぶ濡れになっていた。夢であって欲しいと弱々しく考えるクラジューを、叩き付ける雨がその都度現実へ引き戻していく。
全て己のせいだったのだ。
子供達が死んだことも、元妻達が嘆き悲しんでいるのも、そして息子が正気を失ったのも、全部全部己のせいだったのだ。
年甲斐もなく、立場を考えもせず、家族も顧みず、種族を無視して、ヨーコに恋慕した己のせいだったのだ。
クラジューは己を馬鹿だと責め立てて、この場に突っ伏してしまいたくなる気持ちをどうにか堪えた。泣きわめいてどうにかなる事態でもないし、既に犠牲者も出ている。それに、これ以上息子を失望させたくはなかった。
最期ぐらいは偉大な父親に戻ってやろう。戻って死んでやろう。
クラジューは自分に活を入れ、背筋を伸ばして右足を踏み込んだ。そして老体とは思えぬ早さで、未だ背を向けたまま表情を見せることのない息子の肩を掴み、地面へと引き倒す。抵抗する暇も与えず息子を組み敷くと、クラジューは歯をむき出しにして息子に吠えた。
「子を愛しまず、妻を悲しませるお前などボスに相応しくない! お前が要らぬというなら、その座、返して貰おうか!」
首元に噛み付いてこようとするクラジューを咄嗟に除けながら、息子は今し方耳に入ってきた言葉を咀嚼し、一拍置いて唇をわなわなと震わせた。
「相応しくないだと⁉ それをお前が言うんじゃねぇ‼」
「ならばボス争い二回戦目といこうじゃないか、息子よ!」
「その首へし折ってやるよ、親父!」
そう言うなり、息子は上に乗ったクラジューを腕の力だけで無理矢理放り投げた。クラジューだって抵抗していないわけでもなく、体重差だってないはずだというのに、気が付いたら宙を舞っていた。クラジューは受け身も取れず、ぬかるんだ地面に叩き付けられる。が、息を整える間もなく息子の拳がクラジューの頬を撃ち抜いた。
続けざまにこめかみを二度、三度と殴られ、クラジューの目の前が白い光で塗られていく。反撃しようにも、揺れる脳に歪む視界がそれを許さない。雨音にかき消されない、肉と骨のぶつかる鈍い音が辺りに響いた。
しかしそれでも、殴られ続けるクラジューの口端には小さな笑みが浮かんでいた。
あまりの衝撃に意識が飛んだわけではない。この戦いを諦めたわけでもない。ただ純粋に息子の成長が感慨深かったのだ。
一度目のボス争いでは三日三晩の死闘の末、からくも息子が勝利を手にしたというのに、今はクラジューが一方的に嬲られるだけの戦いぶりである。
大きくなったものだ。強くなったものだ。
クラジューは打ち付けられる拳の重さにしみじみと感じていた。全盛期の息子と老いたクラジューとでは、当然クラジューが負けるに決まっている。勿論、息子と対等に向き合うため手を抜くつもりはなかったが、それでも勝てるわけがないことはわかりきっていた。
だが偉大なるボスは、偉大な父親は、そんなことで戦いから逃げたりしない。そうして戦い抜いて殺された後、息子が「人間に恋をした愚かな父親を、正気に戻すための戦いだった」、「これ以上晩節を汚さないための戦いだった」と理由づけてくれたらいいと考えている。
そのためにも本気で戦う必要がある。
クラジューは全身に血を行き渡らせ、マウントをとる息子を押し返そうとした。だがあと一歩力が足りずに体勢が崩れ、二匹はもつれ合うようにゴロゴロと地面を転がる。跳ね上がる泥水に目が塞がれようが、鋭い石に身体を突き刺されようが、二匹の勢いは止まらなかった。
だが拮抗していたのも僅かな間だった。次第にクラジューの腕に、足に、力が入らなくなってくる。息子の攻撃を跳ね返そうとしても簡単に躱され、簡単に反撃されてしまう。
間合いを取ろうと立ち上がり、後ずさったクラジューに、間髪入れず息子の拳が飛んでくる。クラジューは顎を狙ってきたその拳をガードしようとしたが、わずかに足の踏ん張りが足りず、ぬかるんだ地面に足を取られて転んでしまった。
気が付いたらクラジューの目の前には息子の赤黒い口内が迫っていた。喉を噛み千切られる。そう覚悟したその時だ。
轟、と一声黒ヒョウが吠えた。
クラジューの危機に、思わず口から飛び出てしまったのだろうが、被捕食者のゴリラにとっては何よりも恐ろしい音だ。あと少しでクラジューにトドメを刺せるところだった息子も、反射的に背筋が震えだし、身を守る姿勢を取ろうと咄嗟に腰を屈めた。
親子の戦いは意外な形で幕を閉じることになる。
突風が吹いたのだ。
三匹の間に強烈な風が吹き付けた。地面に横たわっているクラジューと、身を低くしていた黒ヒョウは何とか耐えられたが、運悪く中腰という中途半端な姿勢を取っていた息子は風に煽られてしまう。
体勢が崩れ派手に転んだ息子は、飛ばされるように地面を転がっていく。掴む物、掴む物が雨で濡れて手を滑っていった。そしてクラジューが二つ瞬きをする間に、崖の向こうへと吸い込まれていく。
「息子よ‼」
クラジューは叫び、崖の縁に指先をかけ辛うじてぶら下がっている息子に駆け寄った。考えるより前に腕を伸ばし、息子の手を掴んで引き上げようとする。だが未だ風は吹き、両者とも雨に濡れて不安定だ。
それでもクラジューは、
「耐えろ、息子よ‼ 今引き上げてやる‼」
と叫んで滑る手を握っていた。
焦るクラジューを余所に、息子はどこか不思議そうに父親の顔を眺めていた。ほんの少し前まで殺し合いをしていた父親が、必死になって自分を助けている。その姿が滑稽にも見えたからだ。
だが、と息子は思う。だが、この顔が見たかったのかも知れない、と。最期に偉大なるボスの表情が見られて良かった、と。
息子は満足そうに笑い、何も言わずにクラジューの手を振り払った。
「待て、駄目だ‼ 待ってくれ‼ 息子よ‼」
クラジューの叫びも空しく、息子は崖の下へと吸い込まれていく。少しして、微かに肉の潰れるような音が聞こえて、親子の戦いの幕が閉じた。
「オオオオオオォォォォ‼」
全身を叩き付ける豪雨の中、地の底にまで轟くようなシルバーバックの咆哮がジャングルに響き渡った。
悲しみばかりが込められた叫びからは、身を裂くような痛みがビリビリと伝わってくる。
これがクラジューの生涯で唯一の子殺しだった。
次回は明日1/8 AM6:00に投稿します
最終回です