3
クラジューは走った。夜のジャングルを駆け抜けた。嵐の中を突っ切った。
行く手を遮る藪に分け入り、木々をなぎ倒しながら進んだ。足跡が新たな道になる様は、さながら重戦車のようだった。
一刻も早くヨーコの元へと急いだクラジューは、いつの間にか雨が上がり、夜明けを告げる太陽が顔を覗かせていたことにも気付いていない。身体に纏わり付いた雨粒が淡い陽の光を反射し、クラジューにできた新しい傷をなぞる。
クラジューはそこで歩みをピタリと止めた。何も雨粒が傷に染みたわけではない。昨夜息子に教えられた最初の目的地に到着したからだ。
朝日が後光のように一頭の獣へと降り注ぐ。獣は深く息を吸い、深く息を吐いた。そして辺りを見渡すようにぐるりと首を回す。
昨夜の雨で増水した川は、普段のように太陽を反射することなく、草木混じりの濁った水が轟々と音を立てながら流れていく。いつもより騒々しい川辺だが反面、こんな水では飲めないのだろうか、周囲には獣どころか小鳥一匹すら居なかった。
常のクラジューであれば、その気配のなさに注意深く周囲を警戒していたことだろう。ジャングルに生きる生物にとって警戒心とは、いくら持っていても邪魔になるものではない。しかし頭の中がヨーコの危機に支配されている今、クラジューの警戒心は未来に向けられていた。
だがどんな状況であろうと、初歩の初歩を忘れていては足下を掬われてしまうのだ。そして、その必死さ故の視野の狭窄を、クラジューは直ぐに実感することとなる。
クラジューは息子に教えられた通り、ここから更に西を目指そうと身体を捻る。
事は一刻を争うのだ。まごまごとしてはいられない。早く、早く、ヨーコの元へ。
逸る気持ちのまま右足を前へ差し出したクラジューだったが、その時ふと喉が渇いていることに気が付いた。昨夜から一切休憩も取らず駆け抜けてきたのだ。興奮した脳は知覚していないだろうが、身体には疲労が蓄積している。このままではヨーコを助け出す際に支障が出るだろう。いざというときに役立たずでは、ここまで来た意味が無い。
クラジューは捻った身体を元に戻し、そこから十歩進めて川の端で腰を屈めた。黄土色の水を手で汲んで口に運んだクラジューは、喉を通り抜ける冷たさにホッと一息吐く。
その瞬間だった。
背後から、岩を投げつけられたかのような重い衝撃が襲いかかってきたのである。
クラジューは考えるよりも早く、己の頭を守るように身を屈めて腕を上にあげる。遅れて鈍い痛みがやってくるが、そんなものに構っている暇はない。まずは一刻も早くその場から離れなければと、身体を右へ回転させた。
転がる度にバシャバシャと顔に水がかかる。鬱陶しくまとわり付くそれは、クラジューの視界をぼやけさせ全てをあやふやにする。それが行動を一瞬だけ遅らせてしまったのかもしれない。
仰向けになったクラジューが、一度起き上がろうと腹筋に力を入れた時には、既に身体の上には質量のある何かが乗っていた。逃げだそうと藻掻いてみるも、疲労が蓄積した老体に状況をひっくり返すのは無理な話だった。
それでも、それでも何か出来ることはあるだろうと手を伸ばすクラジューに、上に乗った質量から声が降ってくる。
「なんだ、随分と老いぼれじゃん。無遠慮に血の臭いをさせてるから、何も知らない若い個体かと思ったのに、大ハズレ。あーあ、せっかく寝る前に頑張ったってのに。まぁ、老いぼれの固い肉でも、一週間は賄えるから我慢しないと」
巨大なゴリラの上で文句を吐き出すそれが視界に飛び込んできて、クラジューは思わず息を呑んで目を見開いた。
それは、襲われているクラジューでさえ見蕩れるほどの美しい黒ヒョウだった。
艶やかでしなやかな肢体はクラジューの巨体を容易に押さえつけ、鋭く尖ったその牙はクラジューの太い首を容易に噛み千切る。
クラジューは一拍遅れて理解した。あぁ、捕食者だ、と。
ゴリラを捕える者は肉食動物の他に、人間や時にはチンパンジーなど様々だが、その頂点に君臨するのがヒョウである。頻度こそそれほど多くはないものの、群れからはぐれた雌や子供ゴリラを狙い、その血肉を糧にする。
その図体から雄ゴリラは襲われにくく、クラジュー自身も追い払ったことはあるこそすれ、実際に拳を交えたことはなかった。だがヨーコのことが気がかりで隙が生まれていたのだろう。黒ヒョウに「いける」と思わせるくらい周りをおろそかにし過ぎていた。
ボスに君臨していたときは「捕食者に気を付けろ」と群れのメンバーへ散々言い聞かせてきたにも関わらず、自身はこのざまだ。情けなさで笑えてくる。
クラジューが自嘲するように上げた片頬を、美しい黒ヒョウは見逃さなかった。
「アンタ何笑ってんの? ここがアタシの狩り場だと知って、わざわざ死にに来たわけ? 何それ、気持ち悪い。ま、アタシの食事になることは変わりないからどうでもいいけど」
クラジューの表情が理解できなかったのだろう。黒ヒョウは怪訝な様子で吐き捨てるように言ったあと口を大きく開いた。
黒ヒョウの赤黒い口内が、あと数秒の寿命を告げてくる。並の生き物なら、圧倒的な力を前に諦めて死を受け入れることだろう。だが今、黒ヒョウに対峙するのは、勇敢で偉大なゴリラだ。
クラジューは抵抗を止めたどころか全身を弛緩させ、しかし強い意志の込められたその瞳で黒ヒョウを貫く。
「……なぁ、少し話を聞いてくれないか?」
「はぁ? 何、急に。老いぼれは黙ってなさいよ。今からアンタは、ここでアタシに食われて終わりなの」
「そうだ、私は老いぼれだ。それに、もはや風前の灯火に等しい。今更命乞いをしようとも思っていない。私の血肉はお前にやろう。……ただ、それを少しだけ待ってはもらえないだろうか」
「いや、命乞いしてんじゃん。無理無理。アタシだって腹が減ってんの」
「ならば、私は最大の力を込めてこの場で暴れ回ろう。老いぼれとはいえ、それなりの力を持っていると自負している。お前に喉元を食いちぎられる前に、その牙をへし折るぐらいは出来るだろうな。だが私の話を聞いて、そして私の目的が果たされるのを少し待つだけで、お前は労力を使うことなく肉にありつける。お前だって無駄に痛手を負いたくはないだろう?」
黒ヒョウはクラジューのその言葉を咀嚼した後、ゆっくりと口を閉じた。別段、クラジューの説得が届いたわけではない。今にもその鋭い牙でゴリラの身体を貪っても構わないのだが、組み敷いた相手から恐怖の感情が伝わってこないことに引っかかりを感じたのだ。
命乞いの際に浮かぶ恐怖や媚び、不安や怒りなど、不愉快でザラついた感情をぶつけられてきた黒ヒョウは、凪ともいえるクラジューの落ち着いた様子が珍しい。食事をするのは、その中に何を抱いているのか暴いてからでも遅くはないだろうと判断した。
黒ヒョウは面白そうに少しだけ口角を上げ、クラジューに顔を近づける。
「そこまで言うなら聞いてあげてもいいけど。アタシを楽しませるような話じゃなかったら、ここでお終いだから」
「ああ、感謝する。……私は今、ある者を探して森の中を駆けている。危機的状況に置かれたその者を助け出すためだ。その者の無事を確認するまでは死ぬに死ねない。だからこそ、お前に取引を持ち掛けているのだ」
「ふーん。ねぇ、ソイツってアンタにとって大切な相手なの? 番い? 子供?」
「いや、雌ではあるが番いでも子供でもない。私はもう群れを持っていないからな。関係だって、あってないようなものだ。しかし、ただ……、そう、ただただ愛しくて大切な相手なのだ」
「番いでも子供でもない、ただの大切な相手、ね……」
何か響くことがあったのだろうか、クラジューの言葉を繰り返すように小さく呟いた黒ヒョウは、四肢にかけていた力をふっと抜いた。
「そうだ。その者は、ヨーコは何も持たない私にそっと寄り添ってくれた。珍妙な顔つきだが笑った顔が可愛らしく、愛らしい鳴き声で私を呼ぶのだ。『クラジュー』と」
「……クラジュー?」
「あぁ。およそ、人間達がつけた私の名なのだろう。意味の分からない風習だが、何故だろうか、その名をヨーコに呼ばれると胸が暖かくなるのだ」
クラジューはヨーコとの記憶を辿り、安らいだ心地になっていたのだが、それを止めたのは黒ヒョウの鋭い爪が肉に突き刺さる痛みだった。脳に直接訴えかけるような痛みに思わず叫び声を上げそうになるが、クラジューは咄嗟に喉の奥へ押し込める。
表情は歪み、吐く息には濁音がかかる。
急な展開に驚くクラジューへ次に降りかかってきたのは、黒ヒョウの、怒りという言葉だけでは言い表せない激情を孕んだ声だった。
「アンタ、人間を助けに行こうっての?」
先程までの面白がる様子や捕食者の余裕はなりを潜め、ただただ冷たい声がクラジューの耳に届けられる。
「アンタの大切な相手って人間のこと? じゃあ無理。お終い。今ここでアンタの喉を噛み千切って、血を啜って、その肉を食う。ひとかけらも残さずね」
「ちょっと待ってくれ。聞いてくれ。ヨーコを助けた後、私の身体はお前の好きにしていいと言っただろう。あと少しの間だけでいいのだ。どうか、どうか頼む、捕食者よ」
「無理って言ってんじゃん。というかアンタ、頭おかしいんじゃないの? なんでアンタが人間なんかを助けに行く必要があるのか、ホント意味わかんない。あー、無理。気持ち悪い」
「私のことはどう思ってくれても構わない。確かにヨーコは人間だ。だがヨーコへの気持ちは、どうしようもないくらい本物なのだ」
クラジューの肩に爪がギリギリと食い込んでいく。
「ゔっ⁉ 頼む、頼むからもう少しだけ聞いてはくれないか。そのヨーコが昨晩、同じ人間達に攫われたと知ったのだ。我々を瞬時に殺す音の出る棒を持ち、牙や毛皮を剥ぎ取っていく、あの忌々しい人間達にだ」
「……牙や毛皮を剥ぎ取る?」
「そうだ。このままでは、ヨーコも皮を剥がされ殺されてしまう。一刻を争う事態なのだ。ヨーコを救ったらどんなにいたぶってもいい。どんな方法で殺してもいい。だからどうか、今だけは見逃してくれないだろうか」
クラジューを知るものが見たら驚くくらいの、みっともない命乞いだ。だが形振り構わないその姿に、種族を越えたヨーコへの、執着とも呼べそうな強い思いが感じ取れる。
気持ち悪い。
必死なクラジューの姿に、黒ヒョウが思ったのはその一言だった。年老いてきているが、襲ったときのクラジューの落ち着き具合や群れを持っていたという発言、そしてその巨体から察するに、およそ一時代を築いたゴリラなのだろうことはわかる。
そんなゴリラが最期に乞うたのが、番いでも子供でもなく、種族すら違う相手、それもあの人間だという事実が、黒ヒョウには気持ちが悪くて仕方なかった。言い表せないおぞましさすら感じている。
しかし黒ヒョウにも一つだけ、それもおぞましさを凌駕してまでクラジューに共感しうる部分があった。それが「番いでも子供でもない、大切な相手」だ。
黒ヒョウは葛藤するように掌を握りしめた後、ふっと全身の力を抜いた。そして長い長い溜め息を吐く。
「あーもう、最悪。ホント無理なの。嫌なの。気持ちが悪いの。……だけどアンタがそう言うから仕方ないと思う自分もいるし、もしかしたらって考えるじぶんもいるし。あー、よくわかんなくなってきた」
「……つまり、私を見逃してくれると解釈してもいいのか?」
「見逃すわけじゃないから。アンタの肉が予約済みなのは変わらないけど、アタシにも考えるところがあんの。……はぁ、わかった。今アンタを殺すのはやめる」
「本当か⁉ ありがたい……。感謝する、捕食者よ」
「どうせ食うんだから、ありがたがったってどうしようもないでしょ。それに、アンタに猶予を与える代わりに条件がある。それをのまなかったら今すぐ肉片だから」
「わかった、言ってくれ」
神妙に頷いたクラジューを確認し、黒ヒョウはその身体の上からしなやかに降りた。直ぐに次の句を継がない黒ヒョウが自分を待っているのだろうと察し、クラジューは血の流れ続ける肩に手を当てながら上体を起こす。
初めて同じ高さで視線が合った二匹の間には既に殺意などなく、ヒリつくような緊張感は霧散していた。
黒ヒョウは落ち着いて口を開く。
「条件は二つ。一つは私をその人間の元に連れて行くこと」
「ヨーコを傷つけるようなことであれば、私は容認しないし容赦しないが」
「ソイツは別にどうでもいいわよ。アンタの好きにすればいいでしょ。用事があるのは別の人間。アンタの大事な奴を攫った人間共を、私の好きにさせるってのが二つ目の条件だけど、どう? のめる?」
「ヨーコに手を出さないのであれば断る理由もないが、しかし何故……?」
そこまで尋ねたところで、クラジューは直ぐに口を閉じた。言葉と口調は軽いのが逆に恐ろしいくらいの怒りが、静かに黒ヒョウを包み込んでいる。瞬間、クラジューは先程の態度の豹変と黒ヒョウの怒りが結びつき、全てを理解した。
「そうか、お前も……」
クラジューは己の言葉に努めて思いやりを込めるが、黒ヒョウはクラジューからの同情を鼻で笑って受け流した。
「はっ。何? 哀れんでんの? このアタシを?」
「だが、そうだろう? お前にも私に似た事情があると踏んだのだが」
「まぁ、ないわけじゃないけど、アタシのはもう過去のもの。全て終わったこと。もう取り戻せない。……アタシが気付いたときには、彼女の誇りである鋭い牙も、彼女の美しい毛皮も全て剥ぎ取られて、ただの肉の塊になった後だったから」
「……すまない、お前に何と声をかければいいのか、私には言葉がみつからない」
「だから同情すんなっての。アタシがしたいのは、ただの憂さ晴らし。卑劣な奴等の皮を剥ぎ取って、何もかもグチャグチャにして、それで一欠片も食べずにその辺に捨ててやりたい、ただそれだけ」
黒ヒョウは、大それた理由ではないと片頬を上げてシニカルに笑う。だが、そこには黒くドロドロとした執着と執念の存在がまざまざと見て取れた。糧の為でもなく、毛皮と牙のためだけに理不尽に殺された者を思い、復讐の機会を窺ってきたのだろう。いや、もしかしたら既に何度か人間達を襲ってきたのかも知れない。
クラジューは心の内で黒ヒョウに哀憫の念を抱き、重々しく頷いた。
「わかった。お前の事情は理解した。私の目的はヨーコただ一人だ。他の人間達はお前の好きにしたらいい。だが、よければ一つだけ聞かせてほしい。人間達に殺された者がお前にとっての何なのかを」
「そうね……。そう、ただの『番いでも子供でもない、大切な相手』よ」
そう答えた黒ヒョウは、郷愁と慈しみと情愛とが混ざり合い、複雑極まった、しかしクラジューが出会ってきたどの生き物よりも美しい表情をしていた。
次回は明日1/4 AM6:00に投稿します。