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暴れゴリラのデスロード  作者: 三角すくえあ
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 全身を叩き付ける豪雨の中、地の底にまで轟くようなシルバーバックの咆哮がジャングルに響き渡った。



 西アフリカの国立公園に一頭のニシローランドゴリラがいた。名をクラジューという。見事なシルバーバックを背負った雄の身体は他の者を圧倒する巨大さで、巨木を引き抜いて戦っただの、巨石を投げつけて侵入者を追い払っただのと尾ひれの付いた伝説が出回るくらいだ。


 しかしクラジューと向き合ったとき、真に圧倒されるのは彼の持つゴリラ力だろう。頭の良さや器の大きさ、単純な力の強さはもちろん、なにより群れの雌や子供達へ向けられる愛情の深さは、他の雄とは比べものにならないくらいだ。ゴリラの全てを兼ね備えたクラジューに雌はその身を全て委ね、子供達はその背中に憧れて「ああなりたい」と努力し邁進する。


 現地の公用語で「勇敢」を表すその名の通り、クラジューは全てのゴリラが尊敬する、そんなゴリラなのだ。


 しかしそれも全て過去の話だった。


 野生のゴリラの寿命は四十歳前後と言われている中で、クラジューは既に三十歳を過ぎており、数年前に群れのリーダーから引きずり落とされていた。皆から尊敬を集めたクラジューも、群れから離脱した他の雄と同様、現在は一人寂しくジャングルの片隅で隠居生活を送っている。


 己の運命と処遇を全て受け入れているクラジューだが、ふっと立待月の光差し込む夜に寂寥感を覚えることもあった。今更リーダーの座を取り戻そうとは思わないが、それでも、それでも誰か寄り添ってくれる者が側に居て、少しだけでも語り合うような時間があったら、と小さな望みを抱いていたのも事実だ。


 そんなクラジューの願いを叶えたのは意外な相手だった。それは一年ほど前から見かけるようになった妙に平たい顔の人間である。


 動物保護区に居を構えるクラジューはゴリラとして生を受けて以来、しばしば人間を見かけることがあった。雄、雌、体格、肌の色、声の種類、友好的、敵対的、様々な人間を見てきたクラジューだったが、あんな人間は初めてだったと、慌てふためいた己を思い出しては笑ってしまう。


 それは確か果物を取っていた時だったろうか。今年は果物が豊富で他のゴリラも飢えることはないだろう、と一人微笑むクラジューの目の前に一人の人間が飛び出してきたのだ。


 生っ白い肌に対比するような真っ黒の髪、折れてしまいそうなほど細い腕と子供のように低い背、そしてなにより見たことのない珍妙な平たい顔にクラジューは思わず悲鳴をあげた。


「ウホゥッ!?」


 捕食者相手に眉一つ動かさず勇敢に戦ってきたクラジューだが、初めて見る種類の人間に動揺を隠せなかった。狼狽えてしまったその声は、ジャングルに木霊し、周囲の木々をざわつかせる。


 持っていた果物を手から落とし、引きつった顔でまじまじとこちらを見てくるゴリラの姿に、人間は焦ったのだろう。固い表情のまま、努めて冷静に口を開いた。


「ごめんなさい、驚かせて。慣れない場所で道を間違えてしまったの。大丈夫、心配しないで。あなたに危害を加えるつもりはないわ。すぐにこの場を立ち去るから安心して」


 人間は矢継ぎ早にそう言うと、ゴリラが落とした果物を拾って地面を転がすように投げて返す。そして呆気にとられていたクラジューが瞬きを一つしている間に、物音一つ立てずジャングルの木々の中へと消えていったのだった。


 今のはもしや珍獣だろうか。


 そう呆気にとられているゴリラだが、近日中に再開を果たすことになろうとは、このときのクラジューには思いもしなかった。


 「勇敢」と呼ばれるゴリラに動揺を与えた衝撃の出会いから三日後、クラジューはいつも通りジャングルの奥地で一人食事を摂っていた。何百メートルか先に自分と同じ、群れからはぐれた雄の気配はするが、特に交流を持つこともない。今日も一人寂しく眠りに就くのを待つだけだ。


 数年前までの賑やかな日々を思い出し、クラジューはその懐かしさに目を細めた。しかしすぐに「随分と未練がましい姿だ」と己を嗤う。背中に背負った銀の毛に相応しくない不甲斐なさだ。クラジューが自嘲し、手で顔を覆ったその時だった。空気を読まない人間の集団が茂みをかき分けてやって来たのだ。


「やあ、クラジュー。久しぶり。ご機嫌いかがかな?」


 そう声をかけてきた人間には覚えがあり、クラジューは内心溜め息を吐く。時折クラジューの元にやって来ては果物なんかを置いていく代わりに、しばらく周囲でちょこまかとうるさくする人間の一人だった。


「見ないと思ったらこっちの方に来ていたのか。前の群れからはだいぶ距離を取っているようだ。リーダーの中のリーダー、ボスの中のボスと呼ばれた君も、寄る年波には勝てないといったところか。実は僕も最近は妻や娘から頼られなくなっちゃってね。聞いたら娘婿の方が安心感があるんだとさ。いやあ、男ってモンは世知辛いねぇ。はははっ」


 群れの一員でもないのに馴れ馴れしく話しかけ、快活に笑うこの人間の雄にクラジューは何故だか苛立ちを覚えた。勿論クラジューは何を言っているかは分からないのだが、雰囲気のようなものは案外伝わったりするものだ。


 クラジューは一言も発さず、両の手を胸の位置まで持ち上げた。人間に危害を加えるつもりはさらさらないのだが、流石に今日は早く切り上げてもらいたい。そう思ったクラジューは、手っ取り早くドラミングで威嚇をして去ってもらおうとしたのだ。


 指を広げ、逞しい胸板に打ち付けようとしたクラジューだったが、目の前に飛び込んできたもう一人の人間に身体が固まる。


「さて、クラジュー。今日は君に新しい人を紹介しようと思って探していたんだ。君ほど素晴らしいゴリラを僕は見たことがないから、最初に会わせるならまず君だと思ってね。さあヨーコ、こっちにおいで」

「初めまして、クラジュー。……って、本当は初めましてじゃないよね。この間は驚かせてごめんなさい。改めて、ここでしばらく動物の生態を研究することになったヨーコと言います。時々あなたの側で調査することがあるかもしれないけれど、絶対に傷つけるようなことはしないと約束するわ」

「クラジューはその名の通り、誰もが憧れるゴリラだ。彼に一目置かれていれば、他の個体に無闇矢鱈に危害を加えられることはないだろう。……とまあ、彼女も僕たちの研究チームに加わったという、そういうワケだ。今後ともよろしく頼むよ、クラジュー」

「よろしくね、クラジュー」


 何度聞いても理解できない人間の鳴き声を軽く流しながら、クラジューの目は連れてこられた人間の雌に釘付けになっていた。


 やはり顔が平たい。何度見ても平たい珍妙な顔だ。普段見かける雄とはかけ離れた肌の色も気になるが、その凹凸のない顔にどうも目が行ってしまう。


「おや、珍しくクラジューも緊張しているのかな? ヨーコの愛らしさに驚いているといったところだろうか」

「お世辞はありがたく受け取っておきますね。きっと見慣れない人間を訝しんでいるんだと思います」

「そうかい? クラジューの肝の据わり方はその辺のゴリラとは違うんだけどなぁ。まぁ、いいや。それじゃあ、今日のところは失礼するよ。今後、彼女が困っていたら助けてやってくれ。さ、帰ろうかヨーコ」

「ええ。じゃあまたね、クラジュー」


 好き勝手に鳴き声を上げて、これまた好き勝手に帰って行く人間を見送りながら、依然としてクラジューの頭はヨーコと呼ばれた人間の雌に支配されていた。



 ヨーコの自己紹介の後、クラジューはしばしばその者に行き会うことがあった。相変わらず音も立てずに出現するヨーコに仰天するばかりだったが、雌の美しい所作や己に向けられる柔らかい鳴き声に、クラジューは自分でも驚く早さで絆されていることを自覚していた。


「それでね、あの人ったら何にも分かってないのよ。私に早くこの場所から離れて、日本に帰ってこいってばっかり。私にはまだ調査が残っているし、なによりここでこうやって研究をしているのが本当に楽しいの」

「ホホウ」

「私を心配してくれているというよりは、私を目の見えるところに置いておきたいみたいな考えが見え透いてるのよね。あの人、自分のコンプレックスを解消したいが為に、私を変えようとするところがあるから……」

「ホウ……」

「もうそろそろ潮時なのかもしれないわね。私も決断を下さないと……。って、ごめんなさい。いつもいつもうるさくしちゃって。私もよく分からないんだけど、クラジューと話していると何だか心が落ち着くの。あなたに通じているわけがないのに伝わっている気がしてお喋りになっちゃうみたい」


 今日もクラジューとヨーコはジャングルの片隅で向かい合っていた。クラジューは食事を摂りながら、ヨーコは何やら地面に触れたりしながら、ゆるゆると会話を楽しんでいる。お互いの間は優に五メートル以上離れているが、二人とも不思議なことに寄り添っているような感覚があった。


 いくらクラジューがゴリラ力に優れているゴリラだとはいえ、これは誰もが認める珍しい事態だった。流石のクラジューも長い時間自分の周囲に動物がいるのは鬱陶しく、普通は立ち去ったり追い払ったりするのだが、ヨーコだけは追い払うこともせず、帰るときには見送ることさえあるのだ。


 クラジュー自身、何故こんなにヨーコを許しているのかは分からなかった。だがヨーコが自分の周りで何をしていようが、好ましく思えてしまうのは確かだった。ただ一点、時折クラジューの糞を弄くったり、あまつさえそれを手に取って持ち帰るのだけはいただけなかった。


 しかしクラジューは度量の広いゴリラだ。ヨーコに糞が好きだという癖(へ き)があっても、全て受け入れる覚悟でいる。そのくらいこの雌を気に入っていた。


 それからも二人は何度も逢瀬を重ねた。


「聞いて、クラジュー。私あの人と別れることになったの。どうやら私の他にも付き合ってた人が居たみたい」

「ーッ」

「驚きよね? それも五年だって。馬鹿馬鹿しい。ほんと、あの人に従ってここを離れなくて良かったわ。私に研究があってよかった」

「ホウ」

「それに帰国してたらあなたに会えなくなってたし……。私、クラジューに出会えて本当に嬉しいのよ」

「ウホオォォ!」


 ある昼にはこうだ。


「こんにちは、クラジュー。今日は何処を寝床にするのかしら? 鬱陶しいかもしれないけれど、少しだけ跡をつけさせてね」

「ー」

「そうそう、実はこの前告白されたの。私と同じ時期にここの研究所チームに入ってきた人。だけどこの間のことがあって恋愛に距離を置きたいから断っちゃった。今は研究があればいいの。時々あなたとお話ししてるだけで私は十分よ。あなたもそう思ってる?」

「ホ」

「よかった。これからも仲良くしてね。お願いよ」


 ある夕暮れにはこうだ。


「こんばんは、クラジュー。自分でも整理が付かないから、ちょっとあなたに聞いて欲しくて……。この前、告白されたって話はしたでしょう? 実はその人とお付き合いすることになったの。何度も何度も告白されてね、それじゃあ付き合ってみようかって」

「ホウ」

「でもまだ恋愛ってことが怖くもあるの。クラジューは沢山の雌を引き連れていたのでしょう? 何かアドバイスはないかしら」

「ウホゥ……」

「なんて、自分のことなのにあなたに聞いても仕方ないわよね。ちゃんと自分と彼に向き合ってみるわ。……あっ、クラジューの糞に何かの種が入ってる。ちょっと失礼して回収させてもらうわね。うん、今日も良い糞よ。良いサンプルが手に入ったわ」

「ヴ……」


 ある朝にはこうだ。


「おはよう、クラジュー。あなたに一番に聞いてもらいたくてこんな朝に出てきちゃった。あのね、彼にプロポーズされたの。そろそろ一年になるし、一緒にならないかって。私それを受けることにしたわ。あの人と家族になろうと思うの」

「ウホオォォォ!」

「クラジューも喜んでくれるの? 嬉しい、ありがとう。もう少ししたら皆に報告する予定よ。結婚式はまだ分からないけど。あ、でも、どっちかの国に帰るってことはしばらくないの。このまま研究は続けるわ。結婚してもお喋りに付き合ってよ、クラジュー?」

「ホウゥ!」


 何度も何度もヨーコと話し、彼女という人間に触れてきたクラジューにはある一つの確信が芽生えていた。


 恋である。クラジューは恋に落ちてしまったのだ。


 最初は珍妙な顔の人間の雌としか捉えていなかったクラジューだが、朝の静寂に侘しくうつむくクラジューの側に寄り添ったのはヨーコであり、照りつける太陽に寂寥感を覚えるクラジューの側に寄り添ったのもヨーコであり、夕暮れの寒さに人肌恋しいクラジューの側に寄り添ったのもヨーコだった。


 己をほんのりと温めてくれる誰かを求めていたクラジューが、いつだって柔らかく鳴き、いつだって優しく微笑むヨーコに惚れてしまうのも無理はないだろう。出会い際、クラジューの胸は大きく高鳴り、別れ際、クラジューの胸は張り裂けそうになる。いつの間にか、クラジューの心にはヨーコが住み着いていたのだ。


 これが老いらくの恋というものか。


 クラジューは己の体たらくを嗤う。群れのボスとして君臨し、何頭のもの雌を引き連れ、数え切れないほどの子を成してきた自分が、寂しさにかまけて人間に恋をしてしまったのだ。これを嗤わずして何を嗤えばいいものか。


 しかしその様に思いながらも、ヨーコに会う度に恋心は肥大化していく。もはやクラジューはヨーコへの思いを消し去ることなど出来ない域にまで来てしまっていた。


 今度会ったときに果物を渡そうか。それとも美しい花なんかがいいだろうか。いや、もしかしたらヨーコには自分の糞を渡した方が喜ばれるのではないか。抵抗がないわけではないが、ヨーコを愛するということはヨーコの糞好きも愛さなければならないのだろう。ならば明日排泄したときに……。


 寝床に転がり、目映いばかりの月を眺めながら、クラジューは毎日そんなことばかり考えている。今日もヨーコの平たい顔に浮かんだ笑みを思い浮かべ、クラジューは目を細めながら眠りに就いた。


次回は明日1/2 AM6:00に投稿します

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